「前門の虎」

01. 夜道

 多惰野凡太(タダノ・ボンタ)は平凡な大学生。テニスサークルの飲み会を終えたタダノは、夜も更けて人のほとんど通らない道を彼のアパートへと向かってい歩いていた。タダノは一人でニヤニヤしながら歩いている。ちょうどいい具合に酒が回っているのだろう。ニヤニヤ、ニヤニヤ。明日は何して遊ぼうか。さっきからそんなことばかり考えている。彼はあと二年して就職活動が始まるまで、遊んで暮らせるのだから。平凡な大学生なんてそんなものである。

 ニヤニヤ、ニヤニヤ。彼は細い路地に入っていった。この先をもう少しいくと彼のアパートにつく。路地には街灯も少なくこれまでの道よりも暗い。タダノがこの路地を歩いていると、電柱の影から若い女の声が聞こえてきた。

「ちょいと、旦那。お待ちになって」

タダノは急に話しかけられて驚いたが、声でそれが若い女性であると解ると立ち止まった。

「何ですか、ボクに用ですか?」

タダノは声がした方を振り向いた。しかし電柱の影になってその顔はよく見えない。彼は目を細めて電柱の方を覗き込んだ。可愛い子だったら良いなあ、とタダノはほろ酔いの頭の中に声の主の顔を想像した。しかし、可愛い子だったら何だというのか?平凡な大学生にはそんなことは関係ない。夜道で見知らぬ女に話しかけられて、その後その女性と何か良いことがあったりして・・・。そんな妄想をするだけで彼は楽しいのだ。

「そこにいるんでしょ?暗くてよく見えないよ」

タダノが暗闇をじっと見つめていると、一瞬その闇の中の人物の両目がきらっと光った。タダノは驚いて声をあげそうになった。

「ウフフフッ。どうしたの?驚いた顔して」

これを聞いてこわばっていたタダノの顔がまた元のニヤニヤに戻った。なんとなく色気のある声だ。タダノはそんなことを思った。

「いいにおいがしていますね。旦那」

それにしても、どうしてこの人は自分のことを旦那と呼ぶのだろう?タダノは変な感じだったが、それがまたおかしくもあった。ここは彼の通う大学の近くである。もしかしたら、知り合いがイタズラをしているのかも知れない。

「いいでしょ、これ。このコロンで世の女性陣はボクにめろめろなのさ」

タダノがふざけてみたが、闇の中の女性は何も反応を示さない。

「コロンじゃないのよ。私が言っているのは、あなたのこと。あなたの肉の臭いのことよ」

そういうと闇の中でまた両目が光った。タダノはどうしていいか迷っていた。これはとてつもなく嬉しい話なのか、それとも自分は頭のおかしい女に絡まれているだけなのか。或いは、これは友人達のイタズラで、ここで自分が変な行動を起こしたら物影から友人達が現れて自分が大笑いされるのだろうか?彼が黙っていると、また闇の中から声がした。

「さあ、もっと近くにいらして。旦那」

タダノは少し怖くなってきた。このまま立ち去ることは簡単なのだが、なぜか闇の中の女性が気になる。闇の中から聞こえてくる声には、どこか抗しがたい魅力を感じるのだ。

 せめて顔だけでも見ておきたい。タダノはこう思って一歩前に出た。すると闇の中の女は彼の腕をつかんで自分の方へ引き寄せた。タダノはなぜか少しも抵抗することなく女の腕に抱かれていた。なぜか彼にはそうすることが自然なことのようにも感じられた。ビルの屋上から飛び降りたら下に落ちていく。そんなことと同様に、これも自然の法則なのだと。

 女の背丈は彼とほぼ同じくらいだろうか。彼の目の前にはその女の顔があるはずなのだが彼の目に入ってくるのはギラギラ輝く目だけである。彼はその目の奥に吸い込まれていくような感じがしていた。

 この瞳の奥には底なしの闇がある。「自分はこの不思議な魔力の虜になったのだ」これは、タダノがどうしてこの女のすることに抵抗出来ないのか、という彼自身の問いに対して出した答えである。もうこの混乱のために酔いは醒めてしまったのに、こんな答えしか見つからなかった。

 タダノが女の輝く瞳を見つめていると、それはニコリと笑ったように見えた。タダノも無意識に軽く微笑んでいた。それから女はゆっくりと口を開けた。口の中には黄ばんだ鋭い牙がずらりと並んでいた。タダノはその牙に気付いてやっと我に返った。慌てて女から離れようとしたが、女はもの凄い力で彼をつかんでいた。いくらもがいても彼は女から離れることが出来なかった。彼が激しく動けば動くほど女の爪が彼の腕に食い込んできた。

 女の口はさらに開いていき、やがてタダノの顔と同じ大きさまで開いた。どうしていいのか解らずに、ただ女の口が開いているのを見ていたタダノだったが、ここまで来てやっと何とかしないといけない、ということに気付いた。何とかしないとどうなるか?きっと、あの牙に噛み付かれるに違いない。

 タダノは震えて力が入らなかったが、何とか息を吸い込むと叫び声をあげて助けを呼ぼうとした。しかし、彼の声があがる寸前、女はタダノのノド元に噛み付いた。タダノが出そうとした声は、彼の首に開いた穴から音にならずに抜けていった。彼は首から血しぶきを上げていたが、それもしばらくすると止まった。それから彼は自分の流した血の中にばたりと倒れた。

02. 都内のとあるブティック

 スケアリーはエフ・ビー・エルに出勤する前にこのブティックでショッピングを楽しんでいる。・・・なんだかエフ・ビー・エルっていつ出勤してもいい自由なところみたいだ。

 スケアリーが店内に並んだ服の中を歩き回って気に入ったスーツを手に取った。そこへすかさず店員が近寄ってきて商品の説明を始めた。

「お客様。そのスーツよりもこちらなんかどうでしょうか。こちらの方が体のラインがすっきり見えると思いますよ」

店員はスケアリーにより高価なものを勧めているのかと思ったがそうでもないらしい。どちらも同じような値段だ。スケアリーは店員の言うことには耳をかさずにまた別の場所へと移った。今度はブラウスを選んでいる。そこへさっきの店員がついてくる。スケアリーが薄紫色のブラウスを手に取ると、店員はもっと濃い色のものを手にとってスケアリーに勧めた。

「お客様。その色よりもこちらの方が体が引き締まって見えますから、こちらの方がいいかと思いますけど」

この店員はスケアリーの手に取る商品をことごとく否定している。

「あの、失礼ですけど、あたくしは自分の服は自分で選びたいんですの。ですからあたくしがこれ、と決めるまで黙っていてくださらない?」

スケアリーは少し機嫌が悪そうに言った。

 スケアリーは手に取ったブラウスを元に戻すと今度はシャツがおいてある方へ移動した。そこで彼女は太い横のラインが入ったシャツを見ている。そこへまた店員がやって来た。

「お客様。そのシャツよりもこちらの縦に細いラインが入っているほうが痩せて見えると思いますけど」

そう言われて、とうとうスケアリーは店員を睨みつけた。

「ちょいと、あなた。さっきからあなたはあたくしをブクブクちゃんみたいに扱っていらっしゃいますけど、それっていったいどういうことなんですの?あたくしはこんなに・・・」

そういいながらスケアリーは近くにあった試着用の鏡の方に体を向けた。あたくしはこんなにスリムなんですけど、と言うはずだったが、そこに移った自分の姿を見てスケアリーは一瞬言葉を詰まらせた。あらいやだ、あたくしが気付かないうちにあたくしは少しブクブクちゃんになっていますわ・・・。しかし途中まで言いかけたことは最後まで言わなくてはいけない。

「あたくしはこんなにスリムなんですから。どんなものを着たって似合うに決まっていますわ。ですからあなたはいちいち余計なことを言わないでくださるかしら。せっかく買う気で来たのに、あなたのおかげで今日のこの店の売り上げが減りましたわ」

スケアリーはそう言ってから逃げるようにしてそのブティックを後にした。

03. エフ・ビー・エル、ペケファイルの部屋

 モオルダアはつまらなそうに書類を眺めている。モオルダアは思ってた。「あ〜あ・・・。あ〜あ・・・。どうしていつもこんなことになるんだろう。いつになったらボクの優秀な捜査官としての本領が発揮できるような事件が起こるんだ?そんな事件が起こったら、きっとボクはマシンガンの弾丸が飛び交う中も傷一つ負わずに走り抜けることが出来るはずなんだ。でも近くに美女がいる時は腕に傷を負うかも知れないな。そこで美女がそれに気付いて『まあ、ひどい傷』とか言うんだ。そうしたらボクが言うのさ。『なに、こんなのはかすり傷だよ』って。そこでボクと美女の目と目が合う。そうするとその後には・・・」モオルダアの妄想が盛り上がってきたところで、予想どおり部屋のドアが開いてスケアリーが入ってきた。しかし、今日はいつもよりも静かにドアが開いたので、モオルダアもあまり驚かずにすんだ。

「ああ、キミか」

モオルダアはスケアリーをチラッと見てからまた書類に目を戻した。それから一つ間をおいてモオルダアは何かを思い出したように再びスケアリーの方を見た。

「なあ、スケアリー。キミ最近なんだか・・・」

太ったんじゃないか、と言う前にモオルダアは慌てて口を閉じた。スケアリーはブティックでのこともあってこういうことには敏感に反応する。

「最近なんだって言うの、モオルダア。話を中途半端にするのはおやめなさい」

「いや、何て言うか、その。最近またいちだんと綺麗になったんじゃないの、とか、そんな感じ」

モオルダアは分かり易く嘘を言っている。しまった、またスケアリーの鉄拳がとんでくる。モオルダアは覚悟を決めて歯を食いしばっていたが、意外にもスケアリーは静かにしている。

「あらそうですの。それはよかったですわ。ところで事件なんでございましょう。あたくし、最近温泉とかで休みすぎでしたから、そろそろ仕事をしないといけませんわ」

スケアリーのこの言葉でモオルダアは少し明るい気持ちになった。今回は臭い仕事はスケアリーにしてもらえるかも知れない。何しろ前回のコウモン事件でモオルダアはかなり臭い思いをしたのだから。モオルダアはスケアリーに事件の説明を始めた。それは前回のコウモン事件とそっくりだった。

「今朝タダノという大学生の遺体が発見されてねえ。それがただの遺体じゃなくて肉食動物に食べられた可能性があるんだよ」

「それって、またコウモンの狼じゃありませんの?それだったらあたくしはパスしますわ。前みたいにあなたが臭い思いをしてコウモンから狼を引っ張り出して退治すればいいんですのよ。そのあいだにあたくしはフィットネスクラブにでも行っていますから」

「えっ、そうなるの?でもまあいいか。コウモンの狼は前回で絶滅したはずだよ。どんな狼ももう日本では見ることが出来ないってことだよ。それに今回は少し様子が違うんだ。事件があったのは大学の近くの住宅街なんだけど、付近の住民は遺体が発見されるまで誰もその事件には気付かなかったんだ。これはちょっとしたミステリーだよねえ。どんな人間でも自分が食べられそうになったら抵抗して物音を立てるはずだけど、誰も犯行に気付かなかったなんて」

「そんなことはどうでもいいですわ。あたくしは捜査で体を動かして余分な脂肪を燃焼させなくてはいけませんから」

スケアリーはつい本音を言ってしまった。モオルダアは気付いていたがそのことについては何も言わなかった。

「それじゃあ、早速捜査にかかりましょうかあ」

「そうしましょうかあ」

04. 事件現場

 スケアリーは事件現場から少し離れたところに車を止めて車を降りようとしていた。

「ねえ、もう少し先に止めた方がいいんじゃないか?ここからじゃ現場まで三百メートルはあるよ」

不審に思ったモオルダアがスケアリーに言った。

「いいんですのよ。文句があるなら自分で車を買ってからにしなさい」

こう言われると何とも言えなくなる。

 スケアリーは車を降りて、すたすたと歩き始めた。両手を大きく振っている。これはウォーキングフィットネスの歩き方だ。モオルダアは仕方なく小走りに彼女を追いかけた。

 二人は事件現場までたどり着いたが、もうそこには何もなかった。住宅街と言うだけあって、あまりに悲惨な現場をそのままにしておくのには少し都合が悪かったらしい。二人がついた時には一通り検分が終わって、路地一面に広がっていたタダノの血もきれいに洗い流されてしまっていた後だった。

「何ですのこれは。むごたらしい遺体と血はどうしたというんですの?これじゃあ全然エキサイティングじゃありませんわ」

スケアリーは少し息を切らせながら近くにいた警官に言った。モオルダアはこの状況を嬉しく思っていたが、せっかく三百メートルも歩いてきたのに何もないというのは少し気に入らない。

「あなた達はエフ・ビー・エルですね」警官が二人を見て言った。

「しかしですねえ。私どもの捜査にも決まりがありましてねえ。それに検分は十分にやりましたし、調べたいことがあれば署の方に行けば何でも解りますよ」

モオルダアは警官の言うことはあまり聞かずに辺りを調べている。警察が気付かない些細なことに気付くのが優秀な捜査官。そう思っていろいろ調べてみたが。やっぱり何もなかった。モオルダアは遠くにある彼らの乗ってきた車の方を見てため息をついた。「またあそこまで戻るのか・・・」

 よく見るとスケアリーはまた両腕を大きく振り回して車の方に向かって歩いていた。いったいどこへ行くのだろうか?モオルダアは大声を上げてスケアリーを呼び止める気にもならなかったので、スケアリーの携帯に電話をかけた。電話が通じると二人はお互い見える場所にいながら電話で話を始めた。

「スケアリー、キミは警察に行くんだろ?」

「そうですのよ。捜査はスピードが第一ですから。あなたは何をモタモタしていらっしゃるの。早くこちらに来ないとおいていきますわよ」

「いや、ボクは面倒だから車には戻らないよ。このまま大学に行って被害者のことを調べてみるよ。車に戻るよりそっちの方が近いから」

「あら、そうですの。あなたももっと体を動かした方がいいと思いますわよ。でもあなたがそうしたいのならそれでいいですわよ」

話が終わる頃にスケアリーはすでに車に乗り込んで警察へと向かっていた。モオルダアは大学へと向かうことにした。しかし、モオルダアは大学で被害者の何を調べるというのだろうか?本当は何も考えはない。とりあえずキャンバスをうろついてみることにした。そういえば、なんだかお腹空いてきたなあ。