「監視」

29. 警察署

 ヤダナ刑事はまだ一人で証拠品の並べられた部屋にいた。そして、今度こそ何かを見つけようとか思ってそれらの証拠品を手に取ったりしてみたのだが、やっぱり一休みが先だと思って、また椅子に深く腰掛けて目をつむった。

 誰もいない部屋の外からはたまに物音が聞こえてくるが、聞こえてくる度、ヤダナ刑事の耳にはそれが次第に遠くへと遠ざかっていくように感じられた。まどろんだ状態から夢の世界へとヤダナ刑事の意識が移っていく時、ヤダナ刑事は何かを感じてハッと目を開けた。

「誰だお前は!」

ヤダナ刑事は立ち上がろうとしたのだが、椅子に深く腰掛けていたのと、驚いていたのとで足が床の上を滑って立ち上がることが出来なかった。

 目を開けたヤダナ刑事の視線の先にいたのは一人の女性だった。何の物音も立てず、一体どこから入ってきたのか。彼女の後ろ側には扉はなく、普通に入ってきたのならヤダナ刑事の背後から今いる場所まで歩いてこなければならない。

 自分がウトウトしていたために気付かなかったのだろうか?とヤダナ刑事は考えながら、目の前の怪しい訪問者の事をじっと見ている。

「一体誰なんだ?」

黙ったまま不気味にまっすぐヤダナ刑事を見つめる女性に向かって彼が言うが女は少しも反応しない。うつむき加減の女は黒くて長いまっすぐな髪の毛を顔の前に垂らしている。額の真ん中で髪が左右に分かれているために、髪の向こうに半分だけその顔を何とか確認することが出来る。美しい女性である。しかし、顔色が悪すぎるのだ。まるで幽霊のように。そう考えてヤダナ刑事はゾッとした。

 物音も立てずにいきなり目の前に現れた女性が何だというのか?というとそれ以外に何が考えられるのか。

「だから、一体誰なんだ?」

ヤダナ刑事はベテランの刑事らしい威厳はなんとか保とうと厳しい口調で繰り返したのだが、多少声が上ずって震えてしまいそうな声になってきた。

 女がゆっくりとヤダナ刑事の方へ近づいて来る。

30. ビル

 モオルダアはさっきまでいた徳久のビルに戻ってくると勢いよく入り口を開けて中に入った。そこにはさっきもいた事務員ふうの女性がいて、驚いた様子で入ってきたモオルダアを見ていた。

「キネツキさんは?」

モオルダアは女性に聞いていたが、その時すでに奥の工房の方へと向かっていた。

「あの、困ります!」

女性は慌ててモオルダアを止めようとしたのだが、モオルダアはそんなことは聞こえていないかのように扉に手をかけた。

「ちょっと、モオルダアさん」

モオルダアを追いかけてきたイタ刑事もモオルダアの後ろから声をかける。しかし、何かを思いついてそこに根拠のない確信のようなものを見いだしてしまった時のモオルダアはなかなか止めることは出来ない。

 モオルダアは工房の扉を開けた。そして、中の様子を見ると驚いてそこに立ち止まることになってしまった。すぐ後にイタ刑事がやって来てモオルダアの背後から中をのぞき込んだ。そして彼も同様に驚いて一瞬動きが止まってしまった。

 部屋の中ではキネツキが白目をむいた状態で呆然と立ち尽くしていた。さっきまでモオルダア達とやりとりしていた時の様子からは想像できない姿である。

 恐らくキネツキに意識はないだろう。白目をむいたまま少しフラフラしながら立っている様子からはそう思えた。しかし、ふらついてはいるのだが、不思議なことに何かに支えられているように倒れることもなく立ったままである。夢遊病者が自分の意志とは関係なく歩き回る時のように、彼女も今自分で立っているという意識のないまま立っているのかも知れない。

「キネツキさん、大丈夫ですか?」

モオルダアの後ろにいたイタ刑事が驚いてモオルダアの脇から部屋に入ってキネツキを支えようとしたのだが、それを慌ててモオルダアが制止した。

 モオルダアに肩を掴まれたイタ刑事が今度はそっちに驚いてモオルダアの方を見た。

「何ですか?」

「今は触っちゃダメだ」

イタ刑事には何のことだか解らなかったが、モオルダアはこれまでになかった緊張した面持ちでキネツキの方を凝視しながらそう言った。モオルダアにつられるようにしてイタ刑事もキネツキの方を見る。

「何ですか…あれ?」

イタ刑事は喉が詰まったような声で言った。

31. 警察署

 いきなり現れた女を前にしてヤダナ刑事は身動きが取れなくなっていた。次第に近づいてくるその女の姿がハッキリしてくると、彼女がどういう存在なのかが解ってくるような気がしたのだ。ヤダナ刑事は大声で助けを呼びたかったのだが、渇ききった口の中で舌や喉がペッタリとくっついてしまったような感じで声が出てこない。

 やはり彼女は生きた人間ではない。ヤダナ刑事はそう思っていたのだ。だらっと垂れ下がった長い髪の毛の向こうに見える青白い顔はとても生きた人間のものとは思えない。そしてその目は真っ白に濁って黒目が無いように見える。

「誰なんだ…」

ヤダナ刑事はやっとの事で声を絞り出すことが出来た。しかし、女はただまっすぐゆっくりとヤダナ刑事の方へ向かってくる。ヤダナ刑事は額の辺りから大量のアブラ汗がにじみ出てくるのを感じながら女を見つめていた。女は薄っすらと笑いを浮かべたような口元を長い髪の下に覗かせていた。