「Day Off」

12. 橋

 モオルダアは美女と一緒に橋のところまでやって来た。橋の中央部が高くなっている構造で、ここからだと橋の向こうがどうなっているのか解らない。だが、そこがどうなっているのかはあまり知りたくもなかった。

 ふと気付くと辺り一帯がさっきよりも暗くなっているような気がした。そろそろ夕方だからだろうか。或いは、いつの間にか空を覆っている雲のせいかも知れない。そうでないとしたら、ここがどういう場所かを知らされたモオルダアの心情が景色に影響を与えているのだろう。

 モオルダアと美女は橋を渡り始める前に黙ってその先を見つめていた。そしてその後、ほぼ同時に二人はお互いの方を見てから頷いた。まるで互いの考えている事が解っているかのような二人。これなら上手くいくのではないか、とモオルダアは思っていた。ただし、そんな確信は橋を渡り始めると次第に揺らいでいく。

 これは目眩なのか、それとも橋が揺れているのか。始めは気にならない程の揺れだったが、次第に橋が大きく揺れているような感じがして、真っ直ぐに歩けないような状態になって来た。モオルダアはよろめきながら橋の欄干にしがみついた。そこで気付いたが、橋が揺れているワケでもなく、自分がふらついていたのでもなかった。

「大丈夫。全て錯覚なのよ」

モオルダアの後ろで美女が言った。そう言いながら彼女もバランスを失って地面に手をついていた。確かに錯覚のようなものに違いない。揺れを感じなくなったモオルダアから見ると、どうして美女がよろめいたのか不思議に思えた。

 モオルダアは美女のところまで行き、その手を取って立ち上がらせた。そしてそのまま手を引っ張ってさらに橋を進んでいった。「全て錯覚」そう解っていても周囲の状況は彼らをまともに前に進ませようとはしてくれない。地面の揺れがなくなったと思ったのもつかの間、今度は強い風が彼らに向かって吹いてくる。錯覚と解っていればこういう状況もコントロール出来そうなものだ。一人はCLAの諜報員で、もう一人はFBLの優秀な捜査官。ホントかどうかはともかくモオルダアはそう思っていた。しかし、この場所に対するものなのか、或いは彼らの心の奥底に潜むものなのか、ある恐怖感のようなものがこの状況を生み出しているのかも知れない。

 モオルダアは強風から目を守るために顔を横に向けた。気がつくと自分たちのいる橋の下から続く運河の向こうの方の空はまるで血に染まったような赤く暗い色になっている。その赤い空に強風で雲が渦巻いているのが彼を不安にさせたが、モオルダアは余計な事は考えないようにした。

 ただこの橋を渡りきれば良いのだ。そうすればこの恐怖は終わるはず。モオルダアは一心に強風の中を前に進んだ。ただ風は強まるばかりでモオルダアが前屈みになっても、風の勢いで後ろに押し戻されそうになる。後ろの美女もモオルダアを盾にしてなんとか歩いている状態だ。

 そこでさらなる強風が吹いてきた。これにはモオルダアもたまらず立ち止まった。ただその強風は一度吹いただけで、風の強さはまた元にもどったようだった。モオルダアは立ち止まったついでに一度後ろを確認した。美女は何も言わなかったがモオルダアの方を見ながら頷いて、自分は大丈夫だと伝えた。モオルダアは美女の手を引きさらに先に進んだ。

 風はいっこうに収まらない。まるで何かの意志がモオルダア達をここに閉じ込めておこうと躍起になっているかのようだった。それでも先に進むと、今度は美女の手を握るモオルダアの手が重くなってきた。どういう事か解らなかったが、一々振り向いて確認しているヒマはなさそうだ。だが同時に美女のモオルダアの手を握る力も強くなってくる。

 何が起きているのか解らなかったが、そのままだと美女の手がモオルダアの手から離れてしまいそうだった。モオルダアは慌てて止まって振り返った。

 するとどういうワケか美女の足が地面についていない。まるで崖から落ちそうになっている人が片手で崖の上にいる人の手に捕まっているような感じだ。モオルダアは状況を理解するよりも早く、もう片方の手も美女の手に添えた。そうしないと彼女の力が尽きて落ちていってしまいそうだったのだ。

 落ちると言っても、方向は横の方向なのだが。これは強風によるものなのか。或いは彼女の回りだけ重力が傾いてしまったのか。この場所の状況はその人の心理状態に関連して変わるようだ。それは彼女が心に抱えている闇の部分と関連しているのかも知れないが、彼女も言っていたようにこれは全て錯覚のはずだ。だとしてもこの状況をどうやって抜け出せば良いのか。モオルダアが立っているその横で女性が横向きに落ちそうになっている、というのは不思議な光景でもあるが、モオルダアの手には女性の体重に加えて彼女に吹き付ける強烈な風の勢い分の重さがかかっている。いつまでもこうしているわけにもいかない。

「春のそよ風」

モオルダアが美女に声をかけた。彼も多少パニックになっているので自分で言っている事が自分で理解できているのかは謎である。

「春のそよ風。森と小川と。スイス。…ディ○ニーランド。夏休み。春休み。終業式!日だまり。駐車場…ネコ!」

途中から連想ゲームになりつつあるが、モオルダアは聞いて安心するような言葉を彼女に聞かせているようだ。それが上手くいったかどうか知らないが、言葉をかけられるうちに彼女も少し落ち着きを取り戻したのかも知れない。

 真横に向かって落ちそうだった彼女の体が次第に斜め下の方へ降りてきて、地面に足がついた。美女は自分の爪先に地面の感触を感じると、足をばたつかせた。ほぼ平らな地面なのだが、彼女は急斜面を駆け上がるようにして地面を蹴ると、モオルダアが手を引っ張る力も借りてモオルダアの目の前に立ち上がった。美女はよほど恐かったのか、そのままモオルダアに抱きついた。状況が状況なので、モオルダアは残念な事にこの思わぬボーナスにニヤニヤすることも忘れてしまったのだが。

「行きましょう」

落ち着きを取り戻した美女が言うと二人は再び先に進んだ。見ると出口はもうすぐに違いなかった。


 それが出口なのかは定かではないが、尋常のものではない光景がそこにはあった。橋の中腹の一番高い場所を過ぎると、そこから少し下った場所はこの世界の終点になっているようだった。終点とはどういう事かというと、つまりその先に何もないのである。完全な無が広がっている。そこには黒い壁があるのではなく、そこで全てが終わって何もない。何もないということは光も当たらないので見た目には黒なだけだ。

 ただし、実際に目にするその一面の無という状況はタダの黒では説明できない異様なものであった。その先に何かがあるとはどうしても思えない黒の手前に来て二人は立ち止まった。ここまで来るともう強風も吹いていない。

「良かった。もうすぐ出口よ」

「ここからどうすれば?」

モオルダアが聞いたが美女は何も答えなかった。その代わりにモオルダアの瞳を真っ直ぐに見つめていた。

「ここでお別れね。モオルダア」

「それって、どういう…」

状況が理解できずに多少間抜けな表情になってしまったモオルダアだが、その時に目の前で何か大きな音がしたのに気付いた。よく見ると美女の手には銃が握られている。ということは今の音は、銃声なのだろうか?

 そんな事を考えているとモオルダアは自分の胸の下辺りに変な感覚を覚えた。手で押さえてみると手に暖かいものを感じる。そしてその手を見てみるとそこには血がベットリ付いていた。

「これって、どういう…」

モオルダアは一度離した手をもう一度胸の下に当てた。傷口を押さえたつもりだが、指の間からどんどん血が流れてくる。

「助けてくれてありがとうモオルダア。ここから逃げ出すにはあなたの命が必要だったのよ。悪く思わないでね。あなたにもチャンスがあるわ。何年でもここで待っていれば誰かが迷い込んでくるはずよ。上手くやればすぐに逃げ出せるわ」

そんな事を言われてもさっぱりなのだが。モオルダアは何で撃たれたのか解らずに美女の話を血を流しながら聞いていた。

「お礼のキスでもしてあげた方が良かったかしら?でも、もう時間ね。あなたにはこれで充分でしょ?あなたは優秀な捜査官で、美人スパイに裏切られた。理想的な展開じゃございませんこと?オホホホ!オホホホ…ッ!さようならモオルダア」

そう言うと美女は真っ黒な無の中に入っていった。アッと思ったモオルダアがその後を追いかけようと手を出したのだが、彼の手は何も無い場所に触れてそこで止まった。手にはなんな感触もないのにそれ以上手を先に出すことが出来ない。この真っ暗な空間に気味が悪くなってモオルダアはすぐに手を引っ込めた。

 その手には自分の血が滴っている。そうだった。自分は撃たれたのだ。そして、これはただ事ではない出血量でもある。不思議なことに止めどなく流れてくる血の暖かさ以外には痛みを感じることはなかった。ある種のショック状態がそうさせているのかも知らないが、もしかするとこれも錯覚なのだろうか?だがいずれにしても自分はここに閉じ込められてしまった。どうせならこのまま気を失って死んでしまう方が楽なのかも知れない、という考えも頭をよぎった。だがそんなに上手くいかない気もした。

 モオルダアが遠のく意識の中で流れる血を眺めていると、どこからともなくサイレンのような音が聞こえてくる。誰かが助けに来たのだろうか?回りを見渡しても何も見えない。この場所に助けが来たとして、どこへも行く場所はなさそうだが。いずれにしても助けが来たわけではなかった。周囲の音もボンヤリとしている状況だから気付かなかったが、サイレンの音だと思っていたのは自分の携帯電話が鳴る音だった。

 モオルダアは胸を押さえているのとは反対の手で携帯電話を取りだした。「何なんですの?!」さんから電話である。

「もしもし、モオルダアだ」

「ちょいと!何なんですの!?」

モオルダアはギクッとした。