「Day Off」

8.

 物事はどうしても思ったとおりにならない。レジのところに行って伝票をカウンターに置くと奥からはあの美人店員ではなくて、これまでに登場しなかったくたびれた感じの男性がでてきたのだ。モオルダアは動揺してこめかみの上の辺りから嫌な感じの汗が噴き出して来るのを感じていた。失敗の許されない一度しかチャンスのない作戦だったが、始まった時にはすでに失敗しているようなものだった。

 レジに出てきた男性は無表情で伝票を見てレジに金額を入力し始めた。この中年男性は、あの健康的な美人店員とは対照的に疲れ切った顔をしている。彼は他のハ虫類人と同じ仲間なのだろうか。それとも元はまともな人間だったが彼らに何かをされてこのような無気力な感じになっているのだろうか。

 モオルダアは男性の目の下にできたクッキリとしたクマをマジマジと眺めてしまいそうになったのだが、あまりおかしな事をすると怪しまれる。だが「彼も助けを求める人間の一人だとしたら?」と思うとその様子を窺わずにはいられないのも確かだ。

 しかし、少しだけ注意して見ているとそんなことは無駄であるような気もする。この男からは人間的な活力というものが感じられない。もしも元が人間であったとしても、今では別の何かに変わってしまったのだ。モオルダアはそんなふうに思った。

 そういえば、あの老夫婦にしてもそうではなかっただろうか。この店に入った時には気にもとめなかった事だし、事の真相が明らかになってくると今度は注意深く観察することも出来なくなったのだが。楽しく話しているように見えるあの二人も、どこか人間的な部分が欠けているのだ。彼らの正体が解った今となっては当たり前の事に思えるが、どうしてもっと早く気付かなかったのか。これでは優秀な捜査官として失格だな、とモオルダアは思った。

「1000円いただきます…」

モオルダアがここでの失敗について考えていたところに、顔色の悪い店員の声がしてちょっとビクッとなりそうだった。その薄暗い顔色そのままの雰囲気のくぐもった声がモオルダアの耳に残った。しかも「いただきます」という言い方は最近はあまり聞かない。しかも1000円ピッタリ!…まあ、それは消費税のなせる技でもあったが。そんなことはどうでもイイのだ。

 モオルダアはとりあえず1000円札を渡すと店を出ることにした。もちろんこれは最悪のやり方でもあるのだが、同時にこれ以外に何も出来ないという意味では最良の手段でもあった。とにかく店を出て彼らに怪しまれないような場所まで行って、この先に何をするべきか考えないといけない。


 店を出たモオルダアは、ここに来るまでに歩いていた道をさらに進んでいった。元来た道に戻る方がそこに何があるのか解っているのでモオルダアとしては安心だったのだが、しかしどちらがより自然かというと、アッチから来た人間が店を出てから向かう場所はコッチのほうが自然に違いないのである。

 道を進んでいっても相変わらず見えてくるのは味気ない灰色のビルや倉庫ばかりである。そして、あの店で何かを知ってしまったモオルダアにとって、それは目で見えている以上に恐ろしげで不安になる光景だった。

 相変わらず広々としていくら歩いても進んでいないような錯覚に陥る道だったが、すぐのところに橋が見えた。橋があるということは、そこはこの辺りの埋め立て地の間にある運河ということに違いない。これは好都合である。モオルダアの記憶が正しければ運河沿いは公園になっていて、そこなら立ち止まってこれからの作戦を練っていても誰にも怪しまれないからである。

 モオルダアの優秀な捜査官の記憶は間違っていなかった。彼の思ったとおり運河沿いは木が沢山植わった公園になっている。しかもそこは先ほどの喫茶店からもそう離れてはいない。

 公園に入ったモオルダアは入り口の近くのベンチを見つけるとそこに座った。そこでこれまでになかった落ち着いた気分になったのは、この公園に冬でも葉を落とさない常緑樹が多いからだろうか。今はそんなことを気にしている場合ではないが、少しでもリラックスできる環境というのは重要である。モオルダアは木の葉の間から差し込む陽光を浴びながらこれからのすべき事を考えるのに集中した。

 まずはあの助けを求めてきた美人店員がどのような状況にあるのかを知らなければいけない。すでに店を出てしまったので、中から様子を探ることは出来ない。店の裏側から回り込んでコッソリ中の様子を調べることしかできないのだが、果たしてそれは安全だろうか。

 上辺だけは人間だが、その作り物の皮膚の下には恐ろしい姿を隠している彼ら。彼らがどこから来て何をしようとしているのかは解らない。それにこの場所に彼らの仲間がどの位いるのかも解っていない。下手にかぎ回ったりしているところを見つかれば、どこで彼らの仲間が見ているか解らないのだ。

 さらに未知の部分もある。彼らがどのような装備を持っているのか、というところだ。もしも何かを企んでこの街にやって来たのならそれなりの用意があるはずである。そして、あの喫茶店が彼らにとって重要な建物だとしたらそれなりの侵入者対策が施されているに違いない。

 しかし、考えようによっては彼らはそれほど進んだ技術を持っているとは思えないのも確かである。彼らの目的が人間の社会を乗っ取っる事にあるとして、もしも進んだ技術を持っていればそれは容易に行えたであろう。しかし、彼らはまだこの人の少ない場所で一人の美女を監禁しているだけである。(もう一人くたびれた中年男性もいるが。)そう考えるとモオルダアにも希望がもてる。

 捜査は慎重かつ大胆に。このモオルダアの優秀な捜査官としてのモットーは、見方を変えると「適当に」という解釈も出来てしまうのだが、少し気持ちの大きくなったモオルダアは公園の奥にある別の出口から道に出て、少し遠回りしながら先ほどの喫茶店を目指した。