Technólogia Vol. 1 - Pt. 8

Technologia

09.

 もう何を信じて良いのか解らなくなっている。こんなふうに信念を失った人間がどういう行動をするのかというと、なんとなく周りの状況に合わせて、言われるがまま、なされるがまま、流れに逆らわないように動くのだろう。そういう感じで蚊屋野は渡されたタオルを顔にあてて、言われたとおりに大急ぎでここへ逃げ込んできた。
 一体何を信じたら良いのか。目覚めてから見てきた事のせいで、今は自分の感覚が信じられない。それに色んな状況から考えると、あの教授の話していたことが正しいように思えてくる。幾つかの謎を除けば恐らく正しいに違いない。しかし、そんなに簡単に信じて良いのだろうか?蚊屋野は混乱したままなんとかこの状況を理解しようとしていた。

「大丈夫ですよ」
そんな中、唐突に花屋の声がしたので、蚊屋野は「何が?」と反射的に答えた。この状況に苛立っていたためか少し荒い口調の蚊屋野に花屋は少し驚いていたようだが、すぐに落ち着いた様子で蚊屋野の顔を指差した。
「それです。ここならもう大丈夫です」
そう言われて蚊屋野は自分がまだタオルを顔に当てて口と鼻を塞いだままなのを思い出した。ここの人間のことは信用しないつもりだったのが、言われたとおりしっかり顔を隠していたようだ。
「アレは一体、なんなの?」
「あの灰が世界をボロボロにしたんです。蚊屋野さんがもっと早く戻ってくると思ってたから先生は何も説明しなかったみたいですけど。思ったより強情なんですね。心配になって追いかけて来たんですけど。間に合って良かったです」
強情というよりは、ワケが解らないまま歩いていたらいつの間にか遠くに来ていただけなのだが。
「ボロボロって、どういうこと?まあ、確かにボロボロだけど。アレのせいで建物が崩れたりとか、そういうことなの?」
「そうです。それに人間も。あの灰を沢山吸い込むと体力がなくなったり、体が弱って。それに今は子供もほとんど生まれなくなりました」
それはひどい話なのだが、蚊屋野としてはどう受け止めるべきか解らずにフワフワした表情のままで聞いていた。
「それが20年続いているってことなの?」
「ええ、多分。生まれたばかりの時のことはあまり知りませんけど。先生ならもっと詳しく説明できると思います」
「先生ってあの教授だよね」
と言った蚊屋野だったが、自分も教授の名前を知らないし、この場合先生でも教授でもどっちでも良いのだ、ということに気づいたりしていた。ただし、それこそどうでも良いことだと気づいて、今の発言は必要ないことだとも思った。
「そうです。私は先生って呼んでいますけど。街の人達は預言者って呼んだりもします」
そういえば、そうだった。そのせいで蚊屋野は余計に彼らを警戒するようになったのだ。彼らはカルト教団に違いないと。今でも少しはそう思っているのだが、そういうことはどうでも良いとも思えてきた。もう何がどうなっているのか解らない。
「私はそんな呼び方は良くないと思ってるんですけど」
花屋がさらに続けた。
「先生はその方が都合が良いって言うから。本当はみんなに色んな事を教えたいけど、自分には人にものを教える能力がないとか言うんですよ。だから私や、何人かの人達以外には原始的な方法でみんなを納得させてるって言ってました。宗教みたいなものって言ってますけど。でも先生は元々学校で科学を教えてたんでしょ?あなたはその学校の生徒だって」
「確かに生徒だったけど。ボクの先生は違う人だったけどね」
そう言いながら、蚊屋野は自分の研究室の教授を思い出してみた。色々と厳しいことを言われた記憶ばかりだが、もしも彼が何度も4年生を繰り返したりしなければ、結局は良いことだったということに違いない。今となってはどうでも良いことだし、4年生を繰り返しただけでなく、さらに20年も経っているということだが。
 そんな感じで少し脱線したあとで、蚊屋野はあの教授のことを考えた。あの研究室であった時の印象からすると、学生を指導するのが得意とは思えない。ある物事に詳しい人でも、その知識を上手く人に教えられるとは限らないということなのかも知れないが。逆にそういう教師が担当した科目というのは生徒にとっては退屈なものになってしまうこともある。蚊屋野はさらに高校時代の記憶にまで遡ってそんなことを考えていた。彼が自称文学青年なのは、それまでに学問として、あるいは科学として、興味を持てるようなことを教えてくれる教師がいなかったからなのだ。あの教師たちは自分ではスゴいことを言っているつもりだったのだろうが、聞いている限りではそれは地球上の言葉ではなかった。もちろんそれは大げさな比喩なのだが、そんなことのせいで蚊屋野は自称文学青年としての道を歩み始めて、失敗して、未だに大学4年生なのである。
 蚊屋野が余計なことを考えている間に少しの間静寂が訪れていたのだが、花屋が口を開いて蚊屋野はまた我に返った。
「あなたはまだ信じてないんですね?」
そういうことを言われるのは蚊屋野にとってはあまり好ましいことではなかった。そろそろ信じても良いかと思っているのだが、あれから20年経っていることとか、外が酷いことになっているとか、そんなことは簡単に信じられることではない。
 蚊屋野が何も言えずにいると花屋は帽子を脱いでゴーグルを外した。どうしてそうしたのか?というと、この暗い地下にある場所に入ってきたからなのだが、外したゴーグルの下にあるその瞳の輝きに蚊屋野は何ともいえない気分になるのだった。彼女と最初にあった時にもそんなことを感じていたのかも知れないが、それは何か思い出してはいけない記憶のような、そんな感じのものでもあったので、蚊屋野は花屋と目を合わせる気になれなかった。
「あなたがどういう状況にあるのか、先生から聞いて私も少しは解っているつもりです」
花屋は蚊屋野の様子には構わず先を続けるようだった。
「私だって、あなたみたいな目に遭ったら何も信じられなくなると思いますから。でも証拠を見せたら信じてくれますよね」
「証拠?」
証拠とはどういうことだろうか?と蚊屋野は思っていた。大勢の人間が集まって一人の人間を騙そうとする時には、この証拠というものは曖昧なものだったりもする。みんなが言ってるからそれが正しいみたいな証拠だと、そう言われているうちにそれが正しいと信じてしまうかも知れないのだが。その「証拠」とは一体どういうものなのだろうか。
「世界の終わりを見せたら、あなたは信じてくれるはずです」
「世界の終わり?!」
それはあまりにも衝撃的な表現ではあるのだが、花屋は普通の事のように言った。
「少し時間がかかりますが、灰がやむのをただ待つよりは動いていた方がいいです。ついて来てください」
蚊屋野の返事も聞かずに花屋は歩き出した。仕方なく蚊屋野もついていった。

 どうやらこの地下の空間は元々下水道か何かだったようだ。あのスーパーの地下みたいな場所とは違って電気を使った照明はないのだが、所々に地上の明かりを取り入れられるような天窓でもあるのか、明かりが入り込んできていて、何も見えないという状況でもなかった。
「これってどこまで続いてるの?」
蚊屋野の質問はありきたりだが、初めて来た人間なら誰もが気にすることに違いない。
「さあ…。まだどこまで続いているのか、調べられてないです。ここは元々街があった場所の地下で、水が流れていた場所ということですが」
「多分、それは下水道ってやつだけど」
「そう、それです。今ではみんなただトンネルと呼んでいますが。ずっと昔にあの灰が人間に悪影響を及ぼしていると解ると、人々はこのトンネルを使うようになったんです。最初は人がもっと沢山いたから、こんなに静かじゃなかったですし。もしも昔のまま人が沢山いたら、このトンネルももっといろんな場所とつながっていたかも知れないです」
「下水道なら、最初から色んな場所につながってそうだけど」
「それはそうなんですが。途中に人が通れない場所もあって。そういうところを切り開くことが出来る人間が少しずつ減っていって」
「それは灰の影響で?」
「そういうことだと思います。鉄やコンクリートを壊せる力がなくなってしまったんです」
それを聞いて蚊屋野は彼が目覚めた後に出会った男たちを思い出した。槍のようなもので武装をしていたが、それほど危機感を感じなかったのはそういうことが原因だったのだろうか。弱々しいというか、頼りないというか、そんな様子が感じられた。
 だが、今彼の前を歩いている花屋からはそんな雰囲気は感じられない。それに蚊屋野が去った後にかなりの距離を追いかけてきて、そして追いついたのだし。もしかするとみんながみんな灰の影響を受けたワケではないということなのか。あるいは、吸い込まないようにしていれば大丈夫なのか。

 それからさらにトンネルの中を歩いた。時々はしごを下りたり登ったりする場所はあったが、人々が移動に使っていたというのは本当らしくて、歩きづらい場所は殆ど無かった。蚊屋野にとっては、普段は入ることが出来ない下水道を歩きまわることが出来て、本来なら子供じみた冒険心に心を躍らせるところだったが、今はそんなことは少しも感じていない。こんな状況じゃなければ、この下水道探索は学生時代の良い思い出の一つになっていたのだろう。もっとも蚊屋野は5回めの4年生なので、これを学生時代に入れて良いのかは解らないが、もしも今も学生時代だというのなら、ここまでは良い経験で良いのかも知れない。しかし、この先に何が待っているのか、蚊屋野はあまり考えたくもなかった。
 二人は薄暗い中を進みながら、蚊屋野のする中途半端な質問に花屋が中途半端な答えを返すということを繰り返していた。蚊屋野にしてみれば自分がこの変な世界にいることは受け入れがたいし、花屋は世界がこうなる前の事をあまり知らないので、蚊屋野の質問に明確に答えられなかったりもするのだ。
 そういうことを繰り返しながら歩いて行くと、蚊屋野はいつしか下水道ではないところを歩いているような気がしてきた。もともと下水道がどんな場所かも知らないし、すでにどこにも水は流れていなかったので、今いる場所が下水道の中なのかどうかは見た目だけでは判断できないのだが。しかし今歩いているのは蚊屋野でも歩いたことがあるような地下道みたいな通路だった。
 ここに来るまでに何度か、階段状に積み上げられた瓦礫を登ったりもしたので、そうしているうちに下水道から別の地下道に入ったのかも知れない。そしてそこを進んでいくと通路の途中に扉があった。これは明らかに下水道ではないな、とその扉を見て蚊屋野が考えていると花屋がその扉を開けた。
 中に入るとそこはビルの廊下のような場所だった。明かりはついていないが前方の階段の上からは光が差し込んでいる。
「もうすぐです」
花屋が言うと、その階段の方へと進んでいった。
 これまでずっと地下を歩いてきたし、上から光が差し込んでいるということは、ここがビルの地下だということはだいたい解る。ということは、上に行ったらまた廃墟のようになっているに違いない。もうあまりそういう光景は見たくない蚊屋野はなかなか先に進む気になれなかったのだが、ボーッとしていると花屋がどんどん先に進んでいくので慌てて追いかけていった。
 階段をのぼると確かに廃墟のような場所だったが、建物の原型はとどめている感じだった。どっちにしろ蚊屋野の気分は晴れることはない。辺りを見回すと細長い大きな机と椅子が辺りに散乱している。食堂のようでもあったが、それとは少し違うような感じだ。
「こっちです」
花屋が言うと蚊屋野はまたどうでもイイ事を考えていたのに気づいて我に返った。花屋は建物の外に近い場所にいて彼女の影が外からの光の中に浮かび上がっていた。花屋の後ろには壁一面に大きな窓があったはずだが、今ではガラスが割れているか外されているかで、外から風が吹き込んできていた。
 蚊屋野が花屋の方に近づいていくと、その背後の広々とした風景が次第に明らかになっていく。ちょっとした高台にあるこの場所から、崩れかけている建物などが散在する平地が少し続く。そしてその先には何もない空間が広がっているように見える。
 そういえば「世界の終わり」とかいう事を花屋が言っていた、と蚊屋野が思い出していた。その「世界の終わり」という言葉のせいで、自分の見ているものがとてつもなく恐ろしいものに思えてしまった。取り返しの付かない間違いに気づいてしまった時とか、そういう時に感じる虚脱感のような恐怖のような何ともいえないものが背筋からこめかみの辺りをゾワゾワさせるあの感じ。不思議な事に、それは子供の頃夏休みの最後の方になって、全く手を付けていない宿題があるのを思い出してしまった時にも感じるアレでもあった。
 そんなことはどうでも良いが、世界の終わりという言葉で目の前の風景が脚色されてしまっているので、蚊屋野はそこが本当に何もない空間なのだと思ってしまった。何もないとはどういうことか?というと、地球が平面だと考えられていた頃の世界の端が、すぐそこにあるという感じだ。その先には全く何もない。そこで世界の全てが終わっている場所。そういうものがこの世界を侵食していき、やがて全ては無になってしまう。
「世界の終わり…」
蚊屋野が呻くように言った。今にもワナワナ震えだしそうな蚊屋野を見て花屋は少し驚いたが、そこに反応すると蚊屋野がパニックになりそうなので、普通に答えることにした。
「ええ。私たちはそう呼んでいます。今となってはこの先に進むことは出来ません。昔は向こうに行けば元の生活が出来ると思って旅立った人達もいるみたいですが。その人達がどうなったのか解りません。今は大きな船も穴が空いて使えないですし」
深刻な表情で聞いていた蚊屋野だったが最後のところで「ん?!」となって花屋の方に視線を移した。
「船?」
「そうです。船って言うんですよね?あれ」
「そうだけど…」
そう答えてから蚊屋野はもう一度その世界の終わりの方を見てみた。船という言葉と、少し先に見える何もない空間を一緒に考えてみる。そしてさらに目を凝らしてそこを見ていると、そこでは表面が蠢くように動いているように見える。それは蚊屋野のいた世界では「波」と呼ばれるものではなかったのか?そして、その蠢くような波を起こしているその何もないように見える場所は蚊屋野のいた世界では「海」と呼ばれていたのではないか?
 なんでこんなところで恥ずかしい思いをしないといけないのか?と蚊屋野は思ったが、これまでのことを急いで思い返してみて、蚊屋野がとんでもない勘違いをしていたことはまだバレていないと確認してから、必死で冷静を装っている。
 世界の終わりとは、その先に進むと全てが消滅してしまうような何もない空間ではなくて、海のことだったのだ。船がなくてその先に進めないからそこで世界が終わっているというのも間違いではない。
「船がないんじゃ、仕方ないね」
冷静を装ったのだが、言っていることの意味は良く解らない。花屋はどうして蚊屋野が顔を赤くしているのか不思議だったのだが、ここでもそれは気にしないほうが良いと思っていた。
 ここが海の近くだということを知ると蚊屋野は何かを思い出してバックパックからスマホを取り出した。そして地図を表示させて現在地を確認すると、そこは元々高速道路のサービスエリアだったことが解った。ガラスのない窓から少し身を乗り出して辺りを見回すと、以前に高速道路だった場所に沿って所々にアスファルトが見えている。
 なるほど、と思うと同時に蚊屋野は観念するしかなかった。この場所は何年か前(正確にはそれに20年たさないといけないのか?)に来たことがあるサービスエリアに違いなかった。まだ同級生がいた頃。彼らと車に乗って旅行をしたのは楽しかったかどうかはビミョーだが、その時訪れた場所がこんな事になっているとは。何がどうなったのかは解らないが、とにかく何かが起きて世界が、…少なくとも静岡のこの辺りは今のような姿になってしまったということを受け入れる他はなさそうだ。
 そして、蚊屋野はまた恐怖と虚脱のゾワゾワを感じていたのだが、さっき余計にゾワゾワしてしまったお陰で今回のゾワゾワは幾分か弱めのゾワゾワだった。