Technólogia Vol. 1 - Pt. 11

Technologia

12.

 蚊屋野はこれまで自分の身に起きた事、そしてこれから起こるであろう事については特に興味がないのか、能内教授との重要な話の最中に虫と物質転送装置に関連した映画の事を思い出して、その映画の内容ばかりを気にしていた。
 その映画の中では、転送装置で人間を転送しようとした時に、ハエが転送装置に入り込んでしまって、転送された先でハエと人間が混ざった怪物が生まれてしまったということになっていた。という事はやはり、物質転送の時には中身を物質の最小レベルまで細かくして、それを何らかの形で高速で移動させるのだろうか?そこに余計なものが混ざっていると、細かくしたものを再構成する時に二つの物体が混ざってしまうという事になりそうだが。
 蚊屋野は自分がそんな事にならずに済んで良かったと思っていた。しかし、何事もなく蚊屋野の転送実験が成功したのかというとそうでもない。
 博士の説明によると、転送する時の物質がバラバラにされた状態にはまだ名前が付けられていないということなのだが、細かく分けて転送して、転送先で組み立てるというのは蚊屋野の予想したとおりの仕組みだった。
 ただし、言葉にすると簡単な事でも技術的にどれだけ難しい事か素人にはなかなか推測できない。能内教授は蚊屋野の姿が大学の実験室にある装置の中から消えたあと、彼の状態について調べなくてはいけなかった。例の混乱のおかげで非常モードに切り替わっていたこともあって、あらゆる計算をし直さないといけなくなったのが理由である。
 それによって、蚊屋野が静岡にたどりつくまでに20年と10ヶ月ほどかかる事が解った。電車だったら二時間ぐらいだろうか?あるいは新幹線ならもっと早く着くかも知れないが。人類初の物質転送は大体20年と10ヶ月かけての転送だったのだ。
 転送にそれだけの時間がかかる事に気づいた能内教授は蚊屋野に対してすまない事をしたと、自分のした実験を後悔していたのだが、すぐにそれどころでは無くなった。さらに自分の作った装置について検証を続けていくうちに初歩的であるが致命的な間違いを見つけたような気がしたからである。
 どうして「気がした」なのか?というと、そこは装置の複雑な部分なので結果を見るまでは解らない事だからであるが。解りやすく言うと、日付などを基準にして何かを並べる時に「降順」と「昇順」ってどっちがどっちだっけ?という、そういう問題が装置を制御するプログラムのなかで発生していたのである。
 多くの天才がそうであったように、能内教授も漠然とした思考のモヤモヤしたものの中から明確な形を見つけるといった、そういう才能があった。俗に言う閃きみたいなものだが。ただし、そういう類の発見は先に答えが解っていて、あとから理屈を見つけるような事になりがちなので、答えが正しくてもそこに辿り着く課程で間違いが生じる事がある。
 その間違いに気付いた能内教授にとっては20年以上の猶予というのは、有り難いものだった。蚊屋野にとっては失礼な話だが、今のところ彼はそんなところには気付きそうもない。
 それで、何が問題だったのか?ということだが。実は、転送されてきた蚊屋野のデータ(細かくされた蚊屋野自身のこと)が転送先で左右反転した状態で再構成される恐れがあったのだ。その問題に対処すべく、能内教授はその20年を費やす事に決めたのだ。
 始めの一年は転送先の装置に手を加えて、正しい状態で再構成されるようにすることに尽力していたのだが、さっきも書いたように「どっちがどっちだっけ?」という状況だったので対処のしようがなかった。そこで能内教授は予定を変更した。もしもダメならこちらが蚊屋野に合わせれば良いということにしたのだ。
 もしも転送された蚊屋野が左右反転した状態で再構成されたとするとどうなるのか?恐らく、元が右利きなら左利きに。その逆なら逆になるに違いない。それに、右に行けと言われたら左に行こうとするかも知れないし。アナログの時計の秒針を見るたびに、時計回りじゃない方向に針が動いているような気分になって気持ちが悪くて発狂しそうになるかも知れない。
 しかし、もっと重要な問題もある。恐らく、左右反転状態だと周りで話されている言葉も理解出来ないに違いないのだ。
 日本語は横書きだと左から右に書くのだが、それが右から左だと読むのが大変になる。大変だが、解読不能という程ではない。しかし、これが音として耳に入ってくる言葉だとしたら問題である。
 どういうことかというと、左右反転状態の蚊屋野には周りの会話は全てテープを逆に再生したような音に聞こえてしまうのである。今時の人にテープというたとえは解りづらいかも知れないが、パソコンの音声ファイルを編集するソフトで編集メニューからリバースを選択とか、そんな感じだが。そんなソフト使ったことないというのなら、逆に最近ちょっとブームのアナログレコードで言うと、プレーヤーを逆に回した時の音なのだが。それでも解らないのなら、詳しそうな人に頼んで、いずれかの方法で反転した状態の音声を聞かせてもらうしかないが。
 とにかく、最悪の場合蚊屋野がそういう状態になる可能性があったのだ。そこで、能内教授は日本語を反転させた反転日本語というのを考えて、基本的な会話が出来るようにした。
 もう結構前なので覚えてないかも知れないが、蚊屋野が転送装置の中で目覚めてから外に出て、その時にワケの解らない言葉で話しかけられた。実はそれが反転日本語だったのだ。
 実際には左右反転状態にはならずに、蚊屋野は元の状態で再構成されたようだが。ある意味では転送装置を作り直していたりしたら、今の蚊屋野は悲惨な事になっていたということでもある。それに、能内教授が早めに装置の改良を諦めたおかげで、この周辺に残された住民のために費やす時間も出来たというのも確かだった。
 全てを失ったかに見えたこの世界で、必要な物を見つけ多少なりとも文明的な生活を地下の居住区に作り上げた。さらに、もう少し能内教授に能力があれば十分な教育によって彼の後継者も生まれたかも知れないのだが。一人の人間にあまり多くを求めてはいけない。能内教授がこの辺りの人間が住む場所を作り、蚊屋野は無事にこの世界に戻ってきた。今のところそれだけで充分なのである。

 自分がそんな危機的な状況にあったとは知るよしもない蚊屋野だったが、まだ人間とハエがどうやって一体化できるのか?ということを考えていた。考えたところで彼に答えが見つけられるワケもないのだが。彼にはそろそろ次の重大な話を聞いてもらわないといけない。
「聞いているのかね?」
その言葉に蚊屋野はハッとなってハエと転送装置に関する考察、あるいは妄想を頭の中から消し去った。聞いているのか?と聞かれても「聞いていなかった」と応えるわけにはいかない。目の前で話したいた人間が一度話しを中断して「聞いているのかね?」と言うということは、それまでに長いこと聞き手は上の空状態だったに違いない。恐らく「聞いているのかね?」が出るまでには、三度ほど「あれ?」と思われていたに違いない。それでも、まあ聞いているはずだと思って、相手は話しを続けるのだが、あまりにも反応がおかしいという所になって初めて「聞いているのかね?」が発動される。そこで「聞いていなかった」と言えば相手は怒るに違いないし。
 蚊屋野が聞いていなかった話の中には、さっきの左右反転問題なんかも含まれていたのかも知れない。本来ならば、あの変な言葉を聞いた蚊屋野の方が疑問に思って質問すべきなのだが。彼はいつだって一生懸命考える物事が少しずれているのだ。
 そして、聞いておくべき事があったかも知れない多くの事も解らないまま能内教授の話は本題に入ろうとしていた。
「そこでキミの存在が重要になってくる、って事なんだがな。さっきも言ったようにスフィアに近づく事が出来る人間は、地上ではいないと言っても良い。灰の影響はそれほど深刻なんだ。しかし、我々にはキミがいる。住民達にはあまり話さなかったのだが、私とその他の何人かの科学者達はキミがこの世界に戻ってくるのを待っていたんだよ。灰の影響を受けていない肉体。そして転送スーツ。キミは希望とともに荒野に降り立った、って感じだな」
能内教授は少し興奮しそうなところで感情を抑えながら話しているようだった。しかし、これは困ったことになっているようだ。やはり、蚊屋野が上の空だった間に何か重要な説明があったようなのだ。灰の話は前に花屋から聞いて知っているが、その前に出てきた「スフィア」ってなんだろう?
「突然のことで戸惑っているかも知れないがな。キミにとっては目が覚めたら違う世界にいたという感覚だろうからね」
その感覚よりも、さっきから今までの方が蚊屋野にとっては異常な感覚でもある。20年の空白よりも数分間に話された内容を知りたくて仕方がないのだが。
「しかし、あまり時間をかけてはいられないんだ。スフィアに近づくにはまず東京にいる仲間のところへ行かないといけないし。そこから先もどれだけかかるか解らないしな」
東京と聞いて蚊屋野は自分の家を思い出した。そういえば、最後にあの家で目覚めた時は時間がなくて布団をそのままにして家を出たのだった。そして、その日の夜はあの実験室に忍び込んで眠ってしまい、そこから今のこの状態になっている。
「ボクの家ももう無くなってるのかなあ?」
この世界で20年以上生きてきた能内教授はこんな事を言われると少し驚いてしまう。少しずつ壊れていく物を見るのと、気付いたらいきなり色んな物が壊れているのはどっちがショックか?どっちもどっちかも知れないが、この世界にいる人間は蚊屋野が言ったような疑問は抱かないだろう。
「どうだかな。都会では一部の建築物が残っているとも聞くが。ほとんどは瓦礫の山になっているからなあ。東京に着いたらキミの家の近くも通ってみれば良い。そこで少しは過去の記憶に出会えるかも知れないしな」
「ボクが望むのは、あの布団に潜り込んで世の中に絶望した男だけが見ることの出来る幸せな夢を見ながら眠りたい、という事だけですよ」
こういうことを言う蚊屋野に能内教授は少し心配になるが、文学少年の言う事には深い意味がある場合はあまりない。解りやすく言うと「落ち着いた場所でゆっくり休みたい(ついでにエロい夢も見たい)」ということだろう。しかし、それはどうも叶いそうにない望みのようだ。
 部屋をノックする音が聞こえたかと思うと、扉が開いて花屋ともう一人の男が入ってきた。
「お話中すいません。でもそろそろ出発しないとみんなが心配し始めているんです」
花屋はこの部屋に自由に出入り出来る人なのか「すいません」と言いながらも、それほどすまなそうでもなかった。
「そうか。本当なら少し休んでからの方が良いんだが。住民が騒ぎ出すと厄介だしな。どうも政治には向いてないのでね。蚊屋野君。なるべく早くここを出発してくれないかな?」
蚊屋野は一応「はい」と答えたのだが、スフィアとは何なのか?という事が気になっている。だが、急いで出発してくれと言われているのに、すでに理解していると思われている話を聞き直すワケにも行かない。
「それじゃあ、まずキミに紹介しておくが。花屋の事はもう知っているね。そして、ここにいる彼は堂中守(ドウチュウ・マモル)君だ。東京まで行くのに二人が何かと助けになるだろうから。私としては優秀な生徒がいなくなるのは寂しいがな」
「どうも、マモルっす」
この二人と一緒に東京を目指すというのは解ったし、彼らが優秀で教授から色々と教わっているというのも解ったが、このマモルという男はどう見ても蚊屋野より年上なのになんで後輩みたいな話し方なのだろう?
「あの、どうも。蚊屋野粗人です。よろしくお願いします」
なぜか蚊屋野もいつもはしないのに丁寧に挨拶している。
「あの、ボクもうけっこう年取ってますけど、生まれたのは蚊屋野先輩よりずっとあとなんで、もっと普通に喋ってください」
そんな理屈なのか?と蚊屋野は思ったのだが、それはそれで困ってしまう。この世界にはこの世界なりの価値観があって、それに慣れるまでは戸惑う事が色々とあるのかも知れない。
「先生。急いで支度を始めましょう」
一番ソワソワしているのは花屋のようだったが。彼女は何を用意すれば良いのか解っているようで、能内教授の指示もなしにこの部屋のあちこちから必要な物を取り出しては蚊屋野のバックパックに詰め込み始めた。勝手にそんな事をされては困る、と一瞬思った蚊屋野だったが特に大事な物も入っていないはずなのでそのまま見ていた。
 しばらくすると準備が終わったようで、蚊屋野は花屋からバックパックを渡された。花屋が手を離すとズッシリとしたバックパックの重さが蚊屋野の腕に伝わってくる。一体何が入っているのか蚊屋野には解らないが、花屋もマモルもちゃんと解っている。
 教授を含めた三人はある大きな目的に向かって、それぞれが自分の役割を担い動き出そうとしているのだ。その先には何か重要な意味があると彼らは信じている。
 そして、その中心に近い場所にいるはずの蚊屋野だけがまだ何も解っていない。今更聞き直すワケにもいかない、という理由だけで飛んでもない状況になりそうな気もしてきたのだが。蚊屋野には「ちょっと待って!」という勇気は無かった。知っていないといけない事は何も知らないのだが、今まさに旅が始まろうとしているようだ。イヤな汗が出てくる。

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