Technólogia Vol. 1 - Pt. 28

Technologia

32. チカ

 この地下の研究室で真智野先生のアシスタントをしていた人間そっくりなロボットのチカだが、停止していた機能を堂中が起動させた事により、この学校の施設の様々な異変を感知したようだ。それでしばらくの間、無機質で機械的な音声で繰り返し警告を発していたのがだ、しまいには問題解決のために自分で施設の点検と修正を行うべく研究室を出て行ってしまった。チカの見た目は小学生の女の子なのだが、そうやってこの場所の管理をしている姿が大人のようなので、なんとなく違和感がある。
「それで、真智野先生ってここで何の研究をしてたんだろう?」
蚊屋野が言ったが、そう簡単に解ることでもなさそうだった。チカは被験者がいなくなっているとか言っていたし、その前に真智野先生すらどこにいるのか解らない。
「先生がいないんだし、ボクらで調べるしかないっすよね」
そう言いながら堂中はすでに机の上にある資料を調べ始めていた。勝手にそういうことをするのは良くないのかも知れないが、昨日の夜に暴れていた「何か」とここで行われていた事が関連していそうなので、やらないワケにはいかない。
 しかし問題が一つあった。真智野先生は研究の記録のほとんどをコンピュータに保存しているようなのだが、そのファイルはパスワードで保護されていて閲覧が出来ないのだ。それ以外の所を徹底して調べるしかない。また三人で研究室内の資料を調べる事になりそうだ。
「先生は人間の身体能力を回復する研究をしていた、って言ってましたよね」
しばらく研究室を調べてから花屋が言った。
「そうっすね。でも何て言うか、この部屋には…」
「そうですよね。何かの薬品の研究をしていたとしても、そういうものがほとんど無いと思うんです」
確かにそのとおりで、ここにあるのは機械ばかりで薬品の研究をしていたとは思えない。三人とも専門家ではないが、この機械だけで薬品を作れるとは思えない。もっと試験管とかビーカーとか、フラスコとか。そういうモノが必要な気がするのだ。
「でも、コレとかはちょっとだけ薬品って感じだけど」
蚊屋野がなんとなく開けた戸棚に何かを見つけたようだ。戸棚といっても冷蔵庫のように中がヒンヤリしている。
「血液サンプルっすかね?」
堂中が言ったが、彼らにはそれ以上のことは解らない。もう何も出来る事はないのか、と思っているところへチカが帰って来た。チカは扉のところで今さっき蚊屋野が開けた戸棚や、いつもと違う場所にある資料などを見て何が起きているのか判断してるようだった。そして特に問題がないとわかるとそのまま部屋に入ってきた。動きは人間だが、行動は機械的なのはやはり気味が悪い。
「チカ。これは何?」
堂中が戸棚の中を指さして聞いた。
「被験者の血液サンプルです。先生の研究していた特殊な電磁波を照射する前のものと後のものが保存されています」
「へえ…。って言ってもそれだけじゃ何が起きたのか解らないっすよね」
「先生の研究は順調で被験者の体力は以前の人間の80%近くまで回復しました」
「で、それからどうしたの?」
その続きを聞こうと蚊屋野が言ったがチカは黙っている。さっきまでの話は最初の質問の答えの続きだったようだ。新しく何かを聞くにはまた「チカ」と最初に言ってから聞かないといけない。なんとなく面倒になってくる。
「チカ。80%まで回復したあと、その人達はどうなったの?」
「実験はそこで終了しました」
チカはそう言ったきり何も話さなくなった。ということはやはりそこで実験は終了という事に違いないが。
「チカ。先生の実験のファイルが見たい」
回りくどいやりとりにしびれを切らせたのか、花屋が単刀直入に聞いた。
「それは許可されていません。私はそのファイルにアクセスすることが出来ません」
「やっぱりそうよね…」
最初から無理だと解っていたのだが、確認したらやっぱりダメだったという感じの花屋である。
「じゃあ、これはどうかな?」
蚊屋野が何かを企んでいる顔をしている。彼は昔から下らないイタズラを思い付いてはそんな顔をすることがあった。
「チカ。コンピュータの操作はボクがするから、パスワードを教えて。それならアクセスするのはチカじゃなくてボクなんだし、問題ないでしょ?」
「不可能です」
蚊屋野としては自信があったようだが、あっさり断られてしまった。そのコンピュータの使用に関することに、チカは「イエス」か「ノー」でしか判断しないようになっているようで、蚊屋野のトンチみたいなやり方は通用しなかった。
 やっぱり機械は機械なのか、と思いながら蚊屋野はチカの事を眺めている。あの写真に写っていた女の子とそっくりなのに、中身は機械。それでも真智野先生は亡くなってしまった自分の娘と常に一緒にいたかったと言う事だろうか。蚊屋野にはまだそういう気持ちはあまり理解出来なかったりもする。愛する事とは…、そういう事を考え始めたら、蚊屋野の頭の中にはあの思い出したくない夜の記憶が蘇ってきた。自分では愛だと思っていても相手にとってはそうでなかったのかも知れない。いずれにしても愛は時々人におかしな事をさせるようだ。
 蚊屋野の思考の脱線が終わった後で、彼は何か閃いたようだった。
「パスワードを教わらなくても、ボクが入力してファイルを開く分には問題ないよね」
最初に「チカ」と言っていないので、チカは無反応である。だが蚊屋野は特に気にしていない。花屋と堂中が見守る中、蚊屋野がコンピュータに近づいて行く。そしてファイルを開くのにパスワードを要求されると、キーボードで「chika」と入力した。驚いた事にそれですんなりとファイルを開く事が出来た。
「どうやったんすか?」
「愛というのは、時に使うべきではない推測しやすいパスワードを使わせてしまうものだよ」
少しふざけてそう言った蚊屋野だったが、その表情は少し複雑だった。実は20年前に蚊屋野が購入した新しいパソコンのパスワードは彼が好きだった女性の名前だったのだ。それがつまり、あの夜に彼を裏切った女性ということだが。20年前と言っても蚊屋野にとっては数日前。まだあの時のなんとも言えない気分がリアルに蘇ってくる。とにかく様々な理由によりコンピュータのパスワードに人の名前などを使うべきではない。
「それって、見てもイイのかな?」
花屋は一度チカの方を見たが、チカは特に警告を発する事もなくじっとしている。多分大丈夫ということだろう。
「じゃあ、見てみるっす」
そう言って堂中がファイルを開いていったが、すぐに見終わるような量ではない。最初のファイルを開くと、先生の始めた研究の概要が書かれているようだった。それは「愛する娘の千歌のために」という書き出しで始まっている。
 人に見せるために書いたのか、あるいは初心を忘れないように書いたのか。最初のファイルに書いてある内容は研究を始める理由と意気込みといった感じで、専門的なところはあまり書いていなかった。大ざっぱにまとめると、娘を亡くして悲しみに打ちひしがれていた真智野先生。娘の千歌は病死だったが、灰の影響を受けていない人間だったら治療により快復するはずの病気だった。そこで先生はこういった悲劇が繰り返されないように、弱体化した人間達を元の状態に戻すための研究を始めたということだ。
 ここまでは蚊屋野にも解る内容だったが、そこから先のファイルに書いてある事は良く解らない。堂中によると、薬品を使うのではなくて、電磁波が関係している研究だということだ。蚊屋野は「電磁波」という言葉が出てくるとインチキくさいと思ってしまうのだが。そう思うという事は20年前の世界で電磁波に関連するインチキ商品に騙されそうになったか、あるいは騙されていたに違いない。(恐らくそれは「電磁波を吸収してエネルギーに変える植物」のような話だと思うが。光も電磁波のうちの一つだということに気付かないとスゴい植物を発見したような気分になってしまう。)
 蚊屋野の心配とは関係なく、これだけの設備を使う真智野先生がインチキな研究をしていたはずはない。それにこの世界ではインチキ電磁波商品を作ったところでボロ儲け出来るワケでもない。先生がどんなことを研究していたのか。そういうことに一番詳しい堂中に頑張って研究記録を読んでもらうしかなさそうだ。
 そうなってくると蚊屋野は段々やることがなくなってくる。この研究室に置いてある機械はどういうものか解らないし、いじってもオモチャにはならなそうだ。
「チカ。面白い話して」
唐突に何を言い出すのか?と驚いたのはチカよりも花屋の方だった。チカはただ蚊屋野の方に顔を向けてしばらく何も言わなかったが、ただ「出来ません」とだけ言った。
「そういうのはダメなのか」
この時代のロボットに人を楽しませる機能は付いていないようだ。
「何ですか今の?」
「20年前には人工知能に変な事を言わせて楽しんでたんだけどね。…というか、今使ってるスマホにもそういうのが付いてるんじゃなかったっけ?」
「コレにですか?」
花屋は自分のスマートフォンを取り出したが、そんな事は初耳という感じだった。蚊屋野は何でだろう?と思ったのだが、段々自分の間違いに気付き始めていた。今のスマートフォンと20年前のものはよく似ているが全く違うものだと言う事を思い出した。中身はこの世界用に作り替えられているので20年前には当たり前だった機能も今ではそうではなくなっている。そういうことを考えると、当時企業が提供していたサービスというのは、半分ぐらいがなくても問題ないものだったのかも知れない、ということになるが。きっと20年前は多くの人が退屈していたのだろう。
 研究室内では堂中が時々コンピュータを操作する音がするだけだった。何もやる事がなくなった蚊屋野は急に全身の力が抜けていくような感じがした。昨日の夜はほとんど眠れなくて、今日もそれなりの緊張感を保ったまま行動していたのだが、この場所が安全だと知っていると、この静寂がもたらすものは眠気だけ。
 しかし、ここで寝てしまうのは研究資料を一生懸命読んでいる堂中に失礼だと思って、蚊屋野は何とか耐えている。しかし、それは容易い事ではない。もしもチカが冗談を言えたとしても、起きていられるのはきっと10分もなかったであろう。蚊屋野は研究室の椅子に座ったまま、前のめりになったり、背もたれに寄りかかったりを繰り返しながら眠気と戦っていたのだが、いつしか眠りについていた。それも多少の事では目が覚めないような深い眠りだった。

 自分がどこにいるのか解らない感覚、というのは飲み過ぎた次の日の朝だけではない、ということに気付いたりした蚊屋野だったが、椅子に座ったままにしてはあまりにも深い眠りから覚めた。地下室の明かりでは今が何時なのかは解らないが、かなり寝ていたに違いない。
 目を開けて体を起こすと、堂中と花屋も寝ているのに気がついた。堂中はコンピュータで記録を読みながら寝てしまったようだ。花屋の方は蚊屋野と同じく椅子に座ったまま寝ている。チカはまた施設の見回りに行ったのか、研究室に姿はなかった。
 蚊屋野は立ち上がって上の廊下へ続く階段の方へ向かった。
「(おい、どこに行くんだ?)」
出口のところでケロ君に聞かれた。
「ちょっとトイレ」
「(気をつけろよ。外はだいぶ暗くなってるぜ)」
ケロ君に言われたとおり、廊下に出ると夜のような暗さになっていた。廊下の窓から外を見るとまだ地平線に近いところだけ色の薄い夕焼けが残っている。夕方ということはそれほど長くは寝てないのかな?とも思ったが、それよりも真っ暗になる前にトイレを探さないといけない。明かりをつけると危険だとチカも言っていたし、今夜は地下室以外は真っ暗ということになるに違いない。
 トイレはすぐに見つかった。そしてそれは学校のトイレっぽいトイレだった。というとはつまり、この暗い中ではあまり入りたくない場所でもある。ケロ君を連れて来れば良かったと思った蚊屋野だったが、そうしている間に完全に日が暮れてしまうかも知れないし、今の状況だと暗いという事は危険ではないという事だし。そうやって色々と安心できそうな理由を考えながら蚊屋野はトイレに入った。
 アサガオの前に立って、ズボンのチャックを下ろす。用を足すまでのこの無防備な時間。この無力な感じが原因で様々なトイレの怪談が生み出されているのかも知れない。早く全部を出し切りたいのに、なぜかなかなか終わらないように思えるミョーに長く感じられる時間。ハラハラしながら全部出し終わると、急いでしまってチャックを上げて外に出た。
 外に出ると、どうしてあんなに恐かったのか?と思えた。まだ窓の外は明るさが残っているし、恐がって損をしたと思って、少し落ち着いた蚊屋野は、両手を見て「ああ」と思ってもう一度トイレに入って手を洗ってから出てきた。手を洗うだけならそれほど恐くはないのも不思議だった。
 そんな学校のトイレの不思議を味わって外に出た蚊屋野だったが、廊下の先の突き当たりを誰かが曲がっていったのに気がついた。ちょっとだけ見る事が出来た後ろ姿からするとそれはチカに違いなかった。でもチカでないとすると、それはそれでちょっとした事件でもあるので蚊屋野は確認のためその後を追いかけていった。
 廊下の角からその先を覗くとやはり女の子の姿が見える。蚊屋野はその後ろ姿を確認してから近づいていった。
「ヘイ、チカ」
これでは振り返らないようだ。
「オッケー、チカ」
これもダメだ。そうやって遊びながら歩いていた蚊屋野は、最後に「チカ」と呼び掛けた。だが、目の前にいるのはなんとなくチカではないような気がした。
 蚊屋野の声に反応して女の子が振り返った。痩せ細って、生気のない青白い顔をした女の子。それはチカではなくて、そのモデルになった真智野先生の娘の千歌のほうだ。深くくぼんだ眼孔から濁った水のような視線を向けられて蚊屋野は固まったまま動けない。
 彼女は生きていない。そしてロボットでもない。それはつまりなんなのか?ということは考えたくもない。
「みんな殺されちゃうよ」
千歌が言った。蚊屋野は「何が?」と言おうとしたのだが、恐怖で声が出せない。
「みんな殺されちゃうよ」
また千歌が言う。蚊屋野は「なんで?」とも言えなかった。
「みんな殺されちゃうよ」
もう一度言うと、今度は千歌の口からドロッとした黒い血が流れてくる。それでも千歌は言い続けている。
「みんな殺されちゃうよ」
蚊屋野は気が遠くなるのを感じて、マズいと思ったものの、何も出来ずにそのまま卒倒してしまった。

 そのしばらく後、廊下に倒れている蚊屋野を見つけてケロ君が走ってきた。
「(おい、何やってんだ?大丈夫か?起きろ)」
ケロ君が声をかけても蚊屋野は目をつむったままだ。蚊屋野の意識が無い間は動物の声は彼に聞こえないようだ。
「(頼むぜ。起きてくれよ。今はあんまり吠えたりしたくないんだよ。解るか?そういう雰囲気を感じるんだよ。だから起きてくれよ)」
蚊屋野は無反応だ。
「(チクショウ。解ったよ。今からオレはオマエの顔を舐めるがな。コレは決して好意を示すためにやるんじゃ無いからな。仕方なくやるんだ)」
一瞬ためらったあとにケロ君が蚊屋野の顔を舐め始めた。
「(変な顔するんじゃねえよ。早く起きるんだ!)」
さらにケロ君が蚊屋野の顔を舐めるとやっと蚊屋野が目を開けた。
「うわっ。なんだ。キミか」
「(なんだ、じゃねえ。ここで何してたんだ?こっちは大変な事になってんだ)」
「なんていうか、こっちも大変な事になってたんだけど。…今何時?」
「(そんなの知るかよ。オマエが出て行ってからそんなに経ってないぜ)」
外は真っ暗になっているようだったが、気を失っている数分か数十分の間に日が暮れたという事だろう。それよりも蚊屋野はさっき見た事を思い出してまた恐怖でパニックになりそうになる。どうしてあんなものを見たのだろうか。あれは自分だけに見えるものだったのか。それとも、あの時ここに誰か別の人がいたらその人も千歌の事を見たのだろうか。そして、あの言葉の意味は?出来ればあんなものは二度と見たくない。
「というか、大変な事になってる、って。どういうこと?」
「(何が起きてるのかは解らないが。ただ、オマエが出て行った後になんとなくイヤな感じがしてな。例の子供のロボットってヤツが戻ってきたんだ。アイツは気味が悪くて嫌いだから、オレも外に出てたんだよ。それからちょっとして戻ってみるとドアが開かなくなってるんだ)」
「ドアって、あの地下室の?」
「(ああ、そうだ。まあ、オレがイヌだから開けられないだけだがな。誰かがあのドアにツッカエ棒なんてしやがったんだ。だがオマエがいれば開くはずだ)」
「それって、チカがやったのかな?」
「(知らねえけど。とにかく戻った方が良いと思うけどな)」
「うん。これはどうにもイヤな予感がするよ」
一体何が起きているのか?蚊屋野には全く解らなかったが、さっきここで見た千歌の言っていたことと、その他の状況を合わせて考えると、良い事が起きているハズはない。蚊屋野は急いで地下室の入り口まで戻った。
 地下室の扉が見えるところまで来ると、扉を隠していたあの防火扉も元の状態になっていて、地下室の扉が見えなくなっていた。その状態でも防火扉に付いている小さなくぐり戸があれば閉じ込められる事はないはずだったが、そのくぐり戸を開ける取っ手の所から廊下の反対側の壁に向かって金属の棒が当てられている。ケロ君の言っていたとおりのツッカエ棒である。
 蚊屋野がその棒をどかそうと扉に近づいた時、扉の向こう側を誰かが思いきり叩いたようで、扉が大きな音を立てた。蚊屋野の脳裏には昨日の夜の光景が蘇っている。体育館の扉を叩いていたあの「何か」がこの扉の向こうにいるのでは?と彼は一瞬思ってしまった。
「(そんなにビクビクするなよ。そこにいるのはカヤっぺだぜ)」
蚊屋野にはなぜかケロ君が笑っているように見える。ここまで走ってきて口を開けて息をしているだけなのかも知れないが、イヌのそういう顔はどうしても笑っている顔なのだ。あるいはビビっている蚊屋野を見て本当に笑っているのかも知れないが。
 蚊屋野は変な顔をしてケロ君を見てから棒を外して扉を開けた。開けるとそこには消化器の底を扉に向けて叩き付けようと構えている花屋がいた。花屋と蚊屋野がビックリしたままお互いを見ていた。
「蚊屋野さん。どこにいたんですか?」
「何か知らないけど、ただならぬ事が起きてるんだよ!」
ただならぬ事、って何だろう?という感じだが、蚊屋野自身にも何が起きているのか解っていない。とにかく何かがただならないのだ。

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