Technólogia Vol. 1 - Pt. 48

Technologia

54. 雨の朝

 休憩所で目が覚めると外は雨になっていた。蚊屋野がこの世界で目覚めてから初めての雨だった。世界が崩壊して色々と変わったから雨が少ないのか、それとも以前の世界と同様に冬だから雨が少ないのか。考えてみれば、ここに来るまでに何度か見た川にはそれなりの量の水が流れていたし、箱根の街を出たあとに見た芦ノ湖は蚊屋野の知っている芦ノ湖とさほど変わらなかった。ということは、天候に関してはあまり変化がないということに違いない。
 こんな事を蚊屋野が一人で考えなくても、前の世界の事もこの世界の事も知っている堂中に聞けば解ることだが。しかし、今朝は堂中も花屋もこれまでの疲れからなのか、あまり無駄な話はしたくないような雰囲気だった。そんな時に意味もなく天気の話などはしない方が良さそうである。
 休憩所の出入り口のその向こうには東京に近い都会の方まで続く平野が広がっている。蚊屋野達がいる場所はまだ少し山に近い高い場所なので遠くまで良く見通せた。もやがかかったぼんやりした空間の向こうに、まだ崩れずに残っている高いビルなどが密集した場所がいくつか見えた。雨のせいでにじんだようになった景色は幻想のようでもあるが、どこか懐かしく、同時にウンザリする光景でもあった。
 都会に戻ってきた。こんなところでこんな気分になるとはあまり思っていなかった蚊屋野だが、これはどんな状況でも感じることなのかも知れない。
 自然の多い場所に旅行に行ったあとに都会に帰って来た時のあの感じ。自由で楽しい旅行から帰ってきて、面倒な日常と現実の毎日に戻っていく。もしかして、自然の多い田舎に住んでいる人は、休暇で旅行に来た都会から帰る時に同じような事を思うのだろうか。この都会の景色を見てワクワクして、山の中に帰ってゲンナリするのだろうか。
 それよりも、旅行から帰ってきた時にウンザリするのは蚊屋野だけで、他の人はそうは思わないのだろうか。段々考えるのが面倒になって来たので、蚊屋野はここで考えるのをやめた。どっちにしろこれまで旅行をしていたわけでもないし、これからも家に帰るワケではない。退屈な日常はしばらくないと思うと逆に少し寂しかったりもする。
 三人と一匹は雨の音を聞きながら、例の味のしない食糧を朝食に食べた。その後しばらく何もせずにいたのは雨がやむのを待っていたワケではない。東京で何が起きているのか解らないが、彼らに残されているのは一週間ほどしかないらしいし、雨が降ったらお休みなんて事にはならない。
 ただし、今はこの雨に混じって灰も一緒に降っているということだった。雨のせいで本当に灰が降っているのか解らないのだが、その辺に敏感なケロ君も外に出ようとしないし、本当に降っているのだろう。
 特に会話もないまま灰がやむのを待っていると、花屋が立ち上がってケロ君のそばに近づいていった。花屋は休憩所の出入り口の近くで外を向いて寝そべっていたケロ君の横に座ると、ケロ君の頭をなで始めた。
 花屋はあの塔の部屋でケロ君と過ごして以来、不安になったり落ち着かない時にはこうするのが良いと考えるようになっていた。それは犬との正しい接し方に違いないし、犬も自分の好きな人間が喜んでくれるのは嬉しいはずである。だがケロ君には少し気になることもあった。
 ケロ君は頭を撫でられながら振り返えって蚊屋野の方を見た。
「(どうも昨日から花屋の様子がヘンだよな)」
それは蚊屋野も思っていたことである。蚊屋野は唇の両端を横に広げて「ピンチの時の顔」を一瞬ケロ君に見せてそれに答えた。
 花屋の機嫌が良くないのは昨日の堂中と平山さんの件が原因だと思っていたのだが、今日になってもまだ怒っているというのはヘンだった。その辺は堂中も気付いていたようで、目覚めてからこれまでほとんど喋らないし、さらにケロ君と意味もなく戯れたりしている花屋のことが少し気になっていた。
 花屋の性格を考えると、この先の旅のことを心配しているのだったら一人で考え込むようなことはせずに相談しているはずだ。それに堂中と平山さんとのことをいつまでも気にするようなこともないはずだった。そういう事をクヨクヨ考えないサッパリした性格というのを堂中は気に入っていたし、それが花屋がリーダーにふさわしい理由の一つだとも思っていた。
 だとするとどうして花屋は不機嫌な様子なのだろう?堂中が考えると、なんとなく塔での蚊屋野の失態のことが思い出された。霧山を黒幕だと思い込んだ蚊屋野が危うく彼らの計画を台無しにするところだったのだ。
「カヤっぺ。何か言いたいことがあったら言っておいた方が良いんじゃないすか?」
「ないですよ。そんなこと」
堂中に言われたが、花屋はケロ君の方を見たまま答えた。何も思っていることがないなんてことはないような、そんな口調にも思えた。このままでは埒があかないような気がしたので、堂中はさらに続けた。
「思ったんすけど。昨日の朝の塔の上で蚊屋野さんに意志が伝わらなかったのが気になってるんじゃないんすか?」
蚊屋野はそれを聞いて「自分なの?」と思っていた。確かに、あの大失態のあとに花屋を見たらスゴく怒っているようだったのだが。
「カヤっぺのあの合図は解る人にしか解らないし。カヤっぺがウィンクできないことは蚊屋野さんも知らないんだし」
蚊屋野はそれを聞いて、あの時に花屋が自分に鋭い視線を送っていたのを思い出した。何かの合図に違いないとは思ったのだが、まさかウィンクの代わりだとは。
「そうだったのか。まあ、何かは伝わったけどね」
蚊屋野が言ったが、それで花屋が余計に機嫌が悪くなったような気がした。
「そういう事じゃないんです」
ほとんど「そういう事」なのだが、どこかそれを認めたくないような花屋の口調だった。あの時の花屋は、蚊屋野ならこの合図の意味に気付いていくれると思っていたのだった。だが、期待を裏切られたのがどうも気に入らないということのようだ。
「だって、蚊屋野君にはもっとしっかりして欲しいから…」
花屋の言った「だって」はどの部分に関しての「だって」なのか?という気がしたが、きっと花屋の頭の中で勝手に話が進んでいたのだろう。それに、しっかりしているかどうかにかかわらず、あの視線をウィンクだと思うのはけっこう難しい。
「もうやめましょう。怒ったって意味ないです」
主に怒っているのは花屋一人だったのだが、結局は勝手に不機嫌になって、勝手に落ち着いてしまった。
「ボクらは怒ってなかったよね」
蚊屋野は花屋の様子に呆気にとられたようにフワフワした話し方で堂中に言った。
「まあ、そうっすよね」
堂中はニヤニヤしそうになるのをこらえている感じだった。
 花屋も自分で言ったことを思い返してどこかヘンだと思い始めていた。自分では怒っていないつもりが、怒っているようにしか思えないようなことを言っていたし。その前に何について怒っていたのか、原因がハッキリしていない気もしてきた。怒りというのは何でもないようなところから生まれたりするものだが、これは本当に何でもないものだったようだ。
 そんな事を考えていたら、笑いがこみ上げて来て花屋はフッと笑いを漏らしていた。
「でも、今度からはちゃんと気付いてくれないと、本当に怒りますからね」
花屋は照れ隠しのように、あの時のあの目で蚊屋野を睨み付けた。
 やっぱりあの視線をウィンクの代わりだと思えと言われても無理があるのだが、蚊屋野は花屋に向かってウィンクをしてそれに答えた。だが、その時に堂中は見逃さなかった。
「あれ。蚊屋野さんもウィンク下手なんですね」
そう言われるとけっこうショックな蚊屋野でもあったが。出来ると思っていた事が実はあまり上手くないと気付くと、それがどうでも良い事であってもプライドが傷つくような感じがしてしまう。
「だって、これまでそんな事する機会もなかったんだし」
蚊屋野が言ったが、あまり言い訳になっていない。しかし、良く解らない感じで気まずくなっていた空気もいつの間にか和らいでいたし、これはこれで良かったに違いない。
「(面白い事に気づいたぜ。人間ってのは、なんか面白い生き物だよな)」
ケロ君が蚊屋野の方を見て言った。口を半分開けて息をしているケロ君が笑っているようにも見えたが、それは人間の思い込みなのだろうか。それはどうでもイイのだが、蚊屋野には一つ気になることがある。花屋に初めて会った時からずっと思っていたのだが、あの花屋の目には何かがある。時にはゾッとするような気もするが、それが何かは良く解らない。それを考えたところで答えが解るわけでもないが。
 少なくとも、花屋の瞳は大きくて綺麗に澄んでいる。蚊屋野のような捻くれた性格の人にとってはそれが気になる部分になるのかも知れない。時にはゾッとするほどに?それはどうか解らないが、なぜかゾッとするのだから仕方がない。

 しばらくしても小雨になった雨は降り続いていたが、灰はやんだはずだった。ケロ君が行くのを止めたりしないので、恐らく灰は大丈夫だろう。あまりユックリもしていられないので、彼らは小雨の中を出発することにした。
 ここに来る時には夜だったので気付かなかったが、外に出ると辺りの光景は想像していたのとはかなり違っていた。かつてはこの辺りから都会の方へ向かって田んぼや畑よりも建物の方が次第に多くなっていく場所だった。これまでも廃墟になったかつての街のあとを通ってきたことはあったのだが、その規模は比べものにならないほど大きい。そして、休憩所から見えた雨の中の大きなビルは、近づくにつれてむき出しの鉄骨が見えたりして、それがやっとの事で立っているのにも気付いた。
 これだけの建物が廃墟になったのなら、そこに住んでいた人達はどうなったのかが気になってくる。花屋と堂中が住んでいた居住地のように、みな地下に住んでいるのだろうか。世界の崩壊が始まった時に沢山の人が行方不明になったとも聞いているが、もしも人口が半分になったとしても、それだけの人間が住めるだけのスペースが地下にあるのか、少し疑問でもある。
「この先にもこれまでみたいな街があるの?」
蚊屋野が少し離れたところにある崩れかけのビルを見ながら言った。
「そうっすね…」
堂中はどう答えれば良いか考えているようだった。
「街と言えば街なんすけど。人が多すぎて逆に街とそれ以外の場所の境界が曖昧なんすよ。灰の降ってこない安全な場所とか、ボクらが住んでたような地下の居住地みたいなのがあちこちにあって、その集合体が一つの街っていうふうにも考えらるんすけど。だから予報が外れて灰が降ってきても、隠れる場所は多いですし、こっちの方がちょっと安心できるってことはあるんすよね」
「でも東京はまた全然違うんですよ」
花屋が付け加えた。
「違うって、どういうふうに?」
「それは着いてからのお楽しみです」
そんなふうに言われると蚊屋野は気になって仕方がないが、東京に着けるように頑張って欲しい、という意味で言ったのかも知れない。なんとなく子供相手に言うようなことにも思えるのだが、蚊屋野はそんなところには気付かないし、どうなっているのか知りたいので、本当に東京に着けるように頑張ろうと思っていたようだ。
 さらに先に進むと確かに人の気配がしてくるような気がした。周りの景色のせいかも知れないが、山道を歩いていた時とはまた違う感覚がある。山の中の荒れた道を歩く時の緊張感と、瓦礫の間を知らない人間の存在を感じながら歩く緊張感。どっちかというと今の方が疲れるのだが、さっき堂中が言っていたように人がいればこそ安心できる部分というのもある。
 実際にはまだ人がいるような気配がするだけで、この辺りの住人にはまだ遭遇していないのだが。そろそろ一つめの居住地を通り過ぎてもいい頃ではあった。辺りは瓦礫だらけで残っている建物もないので、あるとしたら地下の居住地だろう。
 そんな予想どおりに、しばらく歩くと瓦礫の間を縫って歩く住民の姿がチラホラし始めた。彼らも他の街の住人達と同じく、瓦礫が崩れた時などに備えて防具のようなものを身に着けていた。別の場所の人達と特に違う事もないということが解ると、なんとなく安心した蚊屋野だった。
 だが、その安心も次第に蚊屋野を不安にさせる違和感に変わっていく。さっきから少し離れたところを歩く住人の姿は何度も見ているのだが、彼らとまだすれ違っていないのだ。今歩いているのはかつての街の中を通る幹線道路だったところなので、今の住民も通路として使うはずなのだ。だが、同じ道をこちらに向かってくる住人達も彼らとすれ違う前に道を外れて廃屋の陰に見えなくなってしまう。
「なんか変じゃない?」
みんなが思っていたことだが、最初に言ったのは花屋だった。
「なんか、避けられてるような感じっすよね」
確かに、そんな気がする。関わる人間が少なければ少ないほど面倒な事も少ない、という考えの蚊屋野は時々こういう状況をありがたく思ったりもする。これまでは人のいる場所に来る度に問題が起きていたのだし、人と関わらなくて良いのなら安心だとも思える。しかし、この場合はなんとなく嫌な気もする。放っておかれるのならまだしも、避けられていると感じるのは何か理由があるからに違いないのだ。
「もしかして、この辺りの人達は特別に警戒心が強いとか、そういうことなのかな?」
そんなことはないと思いつつも、この世界はたまに蚊屋野の想像を超えているので、彼は一応聞いてみた。
「まあ、都心に近い居住地の中では、一番外側って感じっすからね。少しはそんなところもあるかも知れないっすけど」
「警戒しているんだったら、少しはこっちの様子を窺ったりするんじゃない?でもあの人達は私達を見て逃げてるみたいに見えるし」
花屋が言うのを聞いて、蚊屋野はここで起きている事はこの世界でも異常な事だと解った。
 ただ今日はまだ時間が早いし、この居住地がある辺りよりももっと先まで進む予定だった。別の場所ではこれまでどおり、避けられることもなく迎えられるかも知れない。そんな事を思いながら彼らは先を進んだ。
 しかし、この旅は常に予測が外れて、そして望まない方向へ物事が進んだりもする。いったん人影が見えなくなってから歩き続けて、また次の居住地の近くを通ったのだが、ここでも住人達は蚊屋野達を避けているように思えた。そして、その次の居住地でも。
 やはりこれは何かがおかしいという事になった。そして、次に進む前に何が起きているのか確かめることになった。本当に彼らが避けられているのか。それとも、偶然そうなっているように見えているだけなのか。蚊屋野達は一度道を外れて居住地のある場所のすぐ近くまでやって来た。
 誰もいない。昼間は外でする仕事もあるはずなのだが人の姿はどこにもない。もちろん住民が消えたという事ではない。蚊屋野達がここへ近づいてくると彼らは慌てて人目につかない場所へ逃げ込んだようだ。
 ここで蚊屋野が無用な想像力を働かせた。
「もしかして、こんなことじゃないかな。この辺りの人達は街の外にある何かに怯えている。前に行った、人がいなくなった街には変わり果てた姿の人間がいてボクらは襲われそうになったんだし、そういうことがここでも起きてるかも知れないし。そうじゃなくても、あの塔と街みたいに紛争が始まりそうで、外から誰かが来ただけでも用心するのかも知れない」
蚊屋野がそんな事をいう根拠はあまりない。ただなんとなく不安になって想像力が働いただけなのだ。そして、そんな想像が正しい事はほとんど無いし、すぐに彼らが避けられている本当の理由が解った。
 蚊屋野の意見について真面目に話し合うつもりはあまりなかった花屋と堂中だったが、堂中が辺りをなんとなく見回していると、張り紙のしてある建物の壁を見付けた。建物自体は半分崩れていたが、目につく場所にあるので、その壁は掲示板のように使われているようだった。
「街の外から来る恐怖っていうのはボクらのことなんじゃないっすかね」
一応蚊屋野の言ったことに気を遣っている言い方だったが、堂中は張り紙を見ながら深刻な表情をしている。彼の後ろから蚊屋野と花屋も近づいて来て張り紙を見た。そして、何が問題なのかすぐに気付いた。

男二人、女一人の見知らぬ三人組に要注意。彼らは連続殺人鬼の可能性があります。見かけたらすぐに安全な場所に隠れてから警察に通報するように。

「これって、まさか私達のこと?」
それはどうだか解らないが、男二人に女一人というところはあっている。張り紙には三人の似顔絵が描いてあるが、その絵は特に絵の才能のない生徒が美術の時間に描いたような絵だった。描いてある顔にはあまりにも特徴が無くてなんとも言えない。
「(オレのこと忘れてんじゃないか?…ああ、それどころじゃなかったか)」
三人が険しい顔をしているので、ケロ君は余計な事を言うのをやめた。
 この張り紙は一体何なのだろうか?