Technólogia Vol. 1 - Pt. 51

Technologia

57. 敗北

 自分が何も悪いことをしていないのに、悪いことをした犯人が自分だとされてしまう。こういう場合どうすれば自分が犯人でないと解ってもらえるのだろうか。これは単純なようで難しいことである。自分はやっていないと言っても誰も信じてくれない。たとえ犯人であっても「やったか?」と聞かれたら「自分はやっていない」と言うはずだ。誰もがそれを知っている。だから「自分はやっていない」と言えば逆にその人は怪しまれるのである。
 ではどうすれば良いのか。殺人犯の三人組の似顔絵にそっくりな三人は食堂のカウンターでうつむいたまま考えていた。自分達が犯人でないことを証明するには、自分達がこれまでどこにいて何をしていたのかを証言できる人を探してくるか、あるいは真犯人を見付けるか。真犯人を見付けるというのは、本当に殺人事件が起きていた場合の話だが。
 いずれにしても、今はそんな事をしている時間はない。ここは誰にも気付かれないようにコッソリ街を出て東京まで行くしかない。だからここでも慌てて店から出て行くような事はしてはいけない。自分達は何でもない人で、何でもない用事でここに来て食事が済んだら何でもない場所へ帰っていく。そういう風に振る舞わないといけない。
 しかし蚊屋野はさっきから走って逃げ出したいような気分になっていた。そして、何かのきっかけで本当にそれを実行しそうなところまで来ていた。その雰囲気を察知したのか、三人の真ん中に座っていた花屋が隣にもやっと聞こえるぐらいの声で「落ち着いて」とささやいた。
 それを聞いて蚊屋野はひとまず走って逃げ出す必要はないのだと気付いた。実は蚊屋野はさっきからある声を聞いていたのだ。ひそめた声だったが、周囲の雑音に紛れて幽かに聞こえて来るその声は「アイツだ。アイツだ」と言っていたのだ。それは蚊屋野達を見て言っていることに違いなかった。
 だが花屋の声を聞いてその音の違いに気付いて、蚊屋野はそれが人間の声ではないと気付いたのだ。彼だけが聞くことの出来る動物の声。しかし、その声はこれまで聞いてきた動物の声とは少しトーンが違っているようにも思えた。いったいどんな動物が蚊屋野達を見付けて殺人犯だと言っているのだろうか。蚊屋野は目だけを動かして辺りを見回してみた。
 見える範囲はあまり広くないが、見た限りでは足下にうずくまっているケロ君以外に動物の姿はない。だがカウンターの向こうの一番奥の壁際に小さな動く点を見つける事は出来た。音もなくスッと素早く動いては止まって、しばらくしてまた素早く動き出す。近くまで行って確認しなくてもそれが何だか解る。
 アレはゴキブリだ。冬の初めにしては元気なようだが、それはこの食堂内がいつでも暖かいからだろう。しかし、前にハエと話そうと試みたときに、ハエはまともな言葉を発しなかったのだが。なんとゴキブリは話が出来るのだ!
 良く考えてみると彼らは少し他の虫たちとは違うような気がする。ハエが壁に止まっていても動かない限り気付かないものだが、彼らは違う。存在感というか、視線のようなものを感じて振り返って見るとそこにいたりする。
 それはもしかすると、彼らが自分の事を見て何かを話していたりするからそう感じるのかも知れない。彼らは常に我々に語りかけてきていたのだろうか。
 また蚊屋野はどうでも良い事を考え始めていた。だが視線の先にいたゴキブリが「ヤベぇ」と言って逃げていって蚊屋野は我に返った。さっきからジロジロ自分達を見ていた店員が彼らの方へ向かってきたのだ。
 ゴキブリは難なく逃げていったのだが、ヤバいのは蚊屋野達の方だった。その店員は女性だったのだが、人のたくさん来るこういう場所で働いているからか、どこか肝の据わったような雰囲気がある。きっと蚊屋野達の近くまで来て似顔絵と彼らの顔を見比べようとしているのだろう。そうなるといつまでもうつむいたままなのも怪しいのだが、顔を上げて確認しやすいようにすることもない。だがすでにこの店員は何かに気付いているのだし、最新版の似顔絵は彼らにそっくりに描かれているのでバレるのは時間の問題でもある。
 顔を確認したらどうするのだろうか。店員一人で彼らを捕まえるのは不可能だから、他の店員や店にいる客と協力して取り押さえようとするのだろうか。そうなったら蚊屋野と花屋が力尽くで抵抗して逃げるしかない。しかし逃げたら逃げたで「自分はやってない」と言うよりもさらに怪しいという事になってしまう。
 どうにも出来ないまま、蚊屋野達三人はただ黙って店員が近づいてくる気配を感じているだけだった。
「ちょっとあなた達」
店員が言うと三人はもうダメだと思った。だがまだ顔は上げないでいた。ほとんどバレているのだが、まだ確実にバレたと決まったワケではないので、最後まで頑張って顔を隠さないといけない。
「食事が済んだら店の裏においで。他の客には気付かれないようにね」
この店員は何を言っているのだろう?と思って三人とも顔を上げて店員の方を見た。もしそれが店員の罠ということなら、この時に三人の顔を確認されてしまったはずだが、そういう事ではなかった。
 店員は首の下辺りに手を当てながら微笑んでいる。その手のところを良く見るとワザと彼らに見えるようにしながらペンダントを触っているようだった。それをみて三人ともアッと思っていた。そして少しだけ救われたような気分になっていた。
 店員のしているペンダントはフォウチュン・バァのペンダントにそっくりだが、良く見るとどこか違っている。ということは、それはつまり前の街で話に聞いた秘密結社のシンボルに違いない。本当にそんな秘密結社なんてものが存在しているのかは解らないが、この店員は明らかに彼らに協力してくれそうな感じがある。
 花屋がスマートフォンを使って電子マネーで食事の代金を払うと三人は立ち上がった。カウンターの下でウトウトしていたケロ君は思ったよりも早い出発に慌てていた。しかも自分は何も食べさせてもらってないので蚊屋野に文句を言おうとしていたのだが、どうもそんな雰囲気ではないのに気付いて黙って彼らに付いていく事にした。
 彼らは都会へやって来る途中でしていたように、マスクやタオルで顔を半分覆っていた。そういう格好は誰もが灰を恐れているこの世界では普通なので、彼らが顔を隠すためにそうしているとは思わなかった。それに、この都会では殺人犯に関する張り紙など誰も気にかけていないようでもあった。
 20年前の世界で、テレビを見て自分の住んでいる街で殺人事件があったと知っても、なぜか自分とは関係ないように思えるのと同じということだろうか。自分の横を通る人が張り紙に描かれているのと同じ顔をしているなんて思いもしないに違いない。その辺は20年前の世界でもこの世界でも同じ事なのかも知れない。だが、どうしてそうなるのかは解らない。都会にいる人達は警察がなんとかしてくれるという安心感があるから、張り紙のことなど気にしないのかも知れない。あるいは人間が弱体化して全体的に穏やかな世界なので、殺人事件が起きたと言われても実感が湧かないのかも知れない。
 とにかく蚊屋野達は無事に店の外に出ることが出来た。店の外といってもカウンターから一歩踏み出せばもう店の外なので、厳密には外に置いてあるテーブルなどのある店の敷地から出たという事になるが。
 蚊屋野達は言われたとおりに店の裏へやって来た。するとさっきの店員が店の裏口を開けた。彼女は少し顔を出して辺りの様子を窺うようにしてから手招きをして彼らを呼んだ。
 果たしてこの店員を信用して良いのか?と花屋と堂中は一度お互いの目を合わせたのだが、大体の結論はすでに出ていた。すでに張り紙を街中に貼られているはずだし、彼女が信用できないのなら他の人はもっと信用できない。つまり彼女がダメなら全てがオシマイという感じもしているのだった。
 蚊屋野達が裏口から店の建物の中に入ると店員が扉を閉めた。彼女は特に体が大きいとか言うわけでもないのだが、女性らしからぬ力強さを感じさせる貫禄のようなものがある。歳はそれなりにとっていそうだが、中年というにはまだ早いという肌のツヤもある。
「あの…」
花屋はここでお礼を言うべきなのか、あるいはその前に聞きたいことを聞くべきなのか迷っていた。すると先に店員の方が話し始めた。
「幸か不幸か。旅人達はまだここに」
調子の良い前口上みたいな話し方に三人とも「なんだ?」と思っている。
「とにかくあなた達が無事でよかったけど。ここから先が問題ね」
「問題、って。いったい何が起きているんですか?…あっ、あの。助けてくれてありがとうございます」
今の状況にかなり混乱している花屋なので話す順番がメチャクチャになっている。店員は少し微笑んでから頷いて先を話した。
「問題。それはこの世界。この時間。限られた中で人は何かを成し遂げようとして、そして間違える」
なんだか箱根の市長と話しているみたいだ、と蚊屋野達は思っていた。店員はこれ以上この調子で続けると彼らがポカンとしてしまいそうなので、普通に話す事にした。
「東京に政治家が生まれたことが全ての間違いの始まりね」
「政治家って。それは科学者の事っすか?」
「そう。本来ならそうあるべきだったけど。あなた達が東京を離れている間に状況は少しずつ変わっていったのよ。科学者のフリをして夢を語る人達が現れてテクノーロジアの運営に口を出すようになって。夢っていっても絶対に現実しないような話なのに。だけど一部の金持ち達にはそれが都合が良かった。それに市民もその夢を信じるようになってきて、次第に彼らは影響力を強めていったの」
「でもそれはテクノーロジアの理念に反してます」
そう言う花屋の目は動揺でウルウルしているようだった。
「そう。だけど科学者と言ってもここじゃ所詮は政治家なのよ。市民の支持が得られなければ何を言っても無駄。本物の科学者の言うことはあまり聞いてもらえないような時代になって来たってことかもね。ウワサじゃ何かの宗教みたいなのが流行ってるって事だし。それと関係しているのか解らないけど、あなた達のやろうとしている計画を白紙に戻そうって話が出てるのよ。酷い話だけどね。本来ならあなた達はすでに東京に着いているはずなのに、予定より遅れているから。それで、その例の新しい政治家達が別の計画に切り替えるべきだって事を言い出してね。明後日に議会が開かれるんだけど、それまでにあなた達が東京に着かなければ、自動的に計画は中止。新しい夢のある計画に切り替えられるってことよ」
「だから、河野君の叔父さんは十日間ボクらを足止めしようとしてたのか…」
蚊屋野が言ったが、その辺はわざわざ確認しなくてもみんな解っていた。
 花屋は今の話を聞いて衝撃を受けたようで何も言えなくなっていた。怒りなのか悲しみなのか、あるいは絶望なのか解らないが、胸の奥からこみ上げてくる暗い何かに飲み込まれそうな気がしていた。
「そんなの有り得ないっすよ。だいたいボクらの到着が遅れたのは小田原の道が特に理由もなく封鎖されてたからなんすから。最初から誰かがボクらを妨害しようとしてたに決まってるんすよ」
堂中は怒りをあらわにしたいところだったが、なんとかこれまでどおり変な敬語を使い続けた。
「それは予想も出来なかった事かもしれないけど。でも科学者達も少しはそういう事態を考えていたのよ。20年以上もかかる壮大な計画だからね。政治家として目立つ場所にいる科学者たちの陰で計画の手助けをする人達もいる」
そう言って店員はまたあのペンダントを触った。
「秘密結社って、ホントにあったんだ」
なぜか蚊屋野が口を開く度に緊張感のない言葉が出てくるが、ここであまり深刻になりすぎても良くないので、それはそれで効果的だったかも知れない。
「秘密結社って言うほど大げさなものじゃないけど。テクノーロジアの科学者達に協力していても、公には関係ないことになっているから、そう言われても仕方ないわね。私は若い頃、箱根の市庁舎にいたんだけど、この計画のことを知って協力することにしたのよ。この店で東京と静岡の居住地を行き来する関係者の手助けをしてたって感じね。彼らは情報のやりとりなんかにこの場所を使ったりしてた」
それを聞いて店員が時々芝居じみた話し方をする理由が解った気がした。それから、フォウチュン・バァのペンダントと店員の付けているペンダントの形が似ている理由も。さらに、花屋と堂中がこの店に来たことがあったのも偶然ではなかったようだ。
「でも私達はあまり役に立たなかったのかも」
店員はそう言ってから花屋の方を見た。彼女はさっきから黙ったまま暗い顔をしている。今起きている事の話を聞いて花屋は自分が大きな間違いを犯したのではないかと考えていた。明後日までに東京に辿り着くなんて無理に違いないと思い始めていたのだが、それは決して口にしなかった。だがそれ以外には何も言えなくてさっきから黙っていた。
 このままではみんなが黙り込んでしまう。その後にはみんなが暗い気分になってしまう。そうなってしまうと何をしても上手く行かない雰囲気になってしまう。蚊屋野はそんな気がしていた。そして、それは間違いないことだ。しかも、そうなるまでに時間は残りわずか。蚊屋野にとっては明後日までに東京に辿り着くよりも、今すぐに何か言わなければいけないという事の方が重要に思えた。
「まあ、ここまで来ることが出来たんだしさ…」
蚊屋野は口を開いたのだが、この後に何と言えば良いのか。ここまで来られたのなら上出来?そんな事を言ってもみんなが虚しくなるだけだろう。ここまで来られたんだし、これからも大丈夫?これじゃあ楽天的すぎる。そんな事を考えているとまたヘンな沈黙が訪れてしまう。
「そうっすよ。ここまで来たんすよ」
堂中があとを続けてくれたので蚊屋野は少し助かったと思った。
「どっちかって言ったらここに来るまでの方が大変だったんすから。ちょっと頑張れば一日で着ける距離なんすから」
そうだ、ここで元気を出して乗り切れば良いんだ、と蚊屋野は思っていた。すくなくともこれでヘンな沈黙で暗い気分になるのは避けられたはずだった。
「でも、そんなこと無理です」
せっかく盛り上がるはずだったが、ここで花屋が弱気な発言。
「警察がいるんですよ。それにあんな似顔絵も。真っ直ぐ道を進んだら絶対に捕まる。遠回りしたら間に合わない」
確かにそのとおりでもある。そう考えるともう言葉が出てこなくなる。このままではやっぱり重苦しい沈黙が。蚊屋野はなんとかして会話を続けるべきだと思って頭の中で色んな言葉を選択していたのだが、ここでタイミング悪く店の方から店員を呼ぶ声がした。
「私、戻らなきゃ。今夜はここに泊まって良いからね」
店員は部屋から出て店に戻った。
 泊まる場所は確保できた。だがそれ以外は最悪な状況になってきた。店員がいなくなった後も彼らはしばらく何も話す事が出来なかった。

 結局、沈黙の時間を終わらせることは出来ずに、それからずっと誰も喋る事はなかった。誰が悪いとか、そういう事ではないのだが、こういう雰囲気になってくると自分がいけなかったのではないか?と、意味もなく後ろめたい気がする蚊屋野だった。
 そんな中でケロ君が「クゥン…」と悲しそうな声を出した。この雰囲気を察してそんな声を出したのかと思ってしまうが、蚊屋野だけはその理由を知っていた。
「ケロ君、お腹空いてるんじゃないかな」
ケロ君はさっきから空腹でたまらなかったのだが、みんなが黙ってしまった中で食べ物の催促をすることも出来ずに、蚊屋野に密かに彼の作戦を伝えていたのだった。喋るきっかけを作るから、その時にオレが空腹だって伝えてくれ、というようなことを。
「ケロちゃん、おいで」
花屋がケロ君を呼んだ。ちょっと前まで普通に話していたのだが、久々に花屋の声を聞いたような感じがする。だが花屋は自分のカバンからあの味のしない食糧を取り出してケロ君にあげただけで、その間はけっして蚊屋野や堂中の方を見ようとしなかった。
 ケロ君は不味そうな顔をしながらも、満足げに食糧を食べていた。そして、半分ほど食べたところでケロ君は蚊屋野の方を見た。
「(なあ、コイツはマズいよな)」
蚊屋野はそんな事は今になって知ったことではないだろう、という感じでケロ君を見ていた。その反応を見てケロ君は自分の言い方がマズかったと気付いた。
「(この食べ物じゃなくて、この状況のことだよ。花屋のこの態度さ。これはリーダーの態度じゃねえよな。これはなんとかしないとマズいってことだよ)」
そんな事は知っている。だが蚊屋野もどうすれば良いのか解らずに困っているのである。
「(なあ、このままこんな感じで終わるのか?まあ、それならオレは別の方法を考えて東京に行くけどな)」
なんとも現実的なケロ君の考えだが、このまま終わるのは良くない。これは最悪の終わり方に違いない。この終わり方だと、もしもこの後彼らがそれぞれ違う場所に住んだりしてしばらく会わずにいて、それで何年も経ってから花屋か堂中かと再開することがあっても、その時には懐かしく思い出を語ることも出来ずに、この嫌な雰囲気を思い出すだけになるに違いない。
 蚊屋野はこの状況でそこまで頭の中で勝手に話が進むのを我ながらヘンだと思っていたが、とにかくこの状況は良くないのだ。花屋はこの大事な時に自分の役割を忘れている。問題はそこにあるに違いない。なんとかしなければ。
「ねえ、なんていうかさ。こういうのは良くないと思うんだよね。せっかくここまで来たのに、簡単に諦めるなんていうのは。でも花屋さんがダメだと思うのなら、簡単に諦めるって事でもないのかも知れないけどさ。でも最後まで努力はしないといけないと思うんだよ…」
蚊屋野はそう言いながら、これは自分に言える台詞ではないと思っていたりもした。最後まで諦めずに努力するなんてことは、彼自身これまで一度もしたことがないように思えた。
 それはどうでも良いが、花屋はなにも言わずにケロ君が残りの食糧を食べるのを見つめていた。花屋はそのままなにも言わなかったが代わりに堂中が口を開いた。
「ダメっすよ。カヤっぺは心配性だから。予想外のことが起きると弱気になるんすよ」
「予想外って。これまでだって色々と予想外だったけど…」
蚊屋野がそこまで言うと、花屋はうつむいたまま両手で自分の顔を覆った。
「(ああ、こりゃマズい事になったな)」
ケロ君はけっこう無責任なことを言う。
 多分、花屋は泣いている。でも泣いている事を知られたくないので、顔を覆ったまま何も言わない。これまでと今では全く状況が違うのだ。本当はそんな事を言いたかった花屋だが、それは言い訳のようだし、かといって諦めずに方法を探すなんて気分にもなれない。もう体に力が入らないような気がしていた。そして、そのまま横向きに寝転んでしまった。声を上げたりはしないが、涙が止まらずに時々肩が引きつったように揺れていた。
 こうなっては仕方がない。自分の事を文学者とか言っていたくせに、蚊屋野には言葉で人を励ましたりするような才能は皆無なのだし。こういう結果になるのも無理はない。
 また気まずい沈黙の中で蚊屋野は壁を背もたれ代わりにして床に座った。だが、さっきまでとは少しだけ気分が違っている。この沈黙の中で何もしないでいると、どこまでも落ち込んでいきそうな気がする。
 堂中はさっきからずっとスマートフォンをいじっていた。彼はまだ諦めてはいないようだし、彼のしている事を見ているだけでも少しは気分が落ち着くかも知れない。蚊屋野は立ち上がって堂中のところへ行った。
「それって、なにやってるの?」
「ダメっすよ。蚊屋野さんは寝ててください。こうなったらボク一人で蚊屋野さんを東京まで連れて行くっす」
「そういうのは良くないよ。こういう時には力を合わせないとね」
「でも蚊屋野さんはこの世界のことには詳しくないんだし…」
「そうかも知れないけど。でももしかすると、ここから東京までの道に関してはボクの方が詳しい事もあるかも知れないんだし」
堂中は蚊屋野が何を言っているのか?と一瞬考えたが、20年前の世界では蚊屋野がこの辺りの大学まで毎日通っていたということに気付いた。
「東京から自転車で来たことだってあるからね」
蚊屋野は得意げに付け加えたが、堂中はそれがスゴい事なのかどうか良く解っていない。(実際にはそれほどスゴくはない。)
 それから蚊屋野も自分のスマートフォンを取り出して、それぞれが地図を見ながら警察に見つからずに東京まで早く到着できる道順を探していた。それは気休めにしかならないことだったに違いない。花屋が言うとおり、警察に捕まるか、間に合わないか。それでも彼らは二人して小声でボソボソと話し合いながら東京までの道のりを調べていた。それがどのくらい続いたのか解らないが、それほど長くはなかったはずだ。結局何も決まらないまま、疲れ切っていた彼らはいつの間にか眠っていたのだった。

 深すぎる眠りは一瞬で終わる。このせいでせっかくグッスリ眠れたにもかかわらず少しも眠った気がしない。蚊屋野は「起きてください」という花屋の声で目を覚ました。スマートフォンで道を調べていたまま寝てしまったので、寝ていたことすら忘れていたのだが、ハッとして目を開けると、かなりの時間が経過しているのに気付いた。
「朝なの?」
辺りを見回してみたが、大きな窓のない部屋なので時間が良く解らない。
「まだ日の出前ですけど。動き始めるなら早い方が良いです」
そんな事を花屋に言われた蚊屋野だが、ユックリと起き上がりながら「なんか変だな」と思っていた。
「諦めたんじゃなかったっけ…?」
寝ぼけ眼の蚊屋野が思った事をそのまま口にしてしまった。花屋は少しムッとして蚊屋野を軽く睨み付けた。
「昨日、蚊屋野君が適当なこと言って腹が立ったから行けるところまで行くことにしたの」
蚊屋野はまた余計な事を言ったと思って、今度は寝ぼけ眼のままうなだれた。
「カヤっぺ。もっと素直にならないとダメっすよ」
堂中が笑いながら言った。彼は蚊屋野よりも早く起きて色々と準備を整えている最中だった。
「だって、ホントの事だもん」
そんな事を言われても、蚊屋野は自分の発言のどこが「適当」だったのか気になってしまう。今考えてみると全体的に適当だったのだが。それはともかく、花屋は言葉を続けた。
「でも、ちょっとは悪かったと思ってる…」
最後の方が曖昧で小さくなっていったが、花屋は謝った。昨日は自分の役割を投げ出していたという意味でリーダらしくなかった。今の言動も同じくリーダーらしくなかったが、昨日とは少し違う。この旅のリーダーであり、居住地でも若者達のリーダーであった花屋だが、今はそうではない普通の女の子としてそこにいるようだった。そんなところに蚊屋野は愛らしさを感じていたりもした。
 蚊屋野はまだ寝ぼけ眼だったが、花屋は彼の表情がちょっと緩んだのを見て色々な事が元に戻ったのが解った。彼女はまたこの旅のリーダーとして行動を開始することにした。
 蚊屋野と堂中が夜に使っていたスマートフォンは充電器に繋がれて充電が完了していた。どうやら店員が床に置きっぱなしの彼らのスマートフォンに気付いて充電してくれていたようだ。これだけで彼らは秘密結社の有り難みを心から感じていた。
 彼らは礼を言いたかったが昨日の店員は自分の家に帰ったようで、今は別の店員が開店に向けて準備をしている。今いる店員も秘密結社のメンバーなのだが、一緒にいるところはあまり見られない方が良いということだった。だから別れの挨拶などは抜きでコッソリここから出て行くように、と蚊屋野達は指示されている。
 まだ若干眠そうな蚊屋野のまぶたもだいぶ開いてきて、彼らは出発することになった。最後の一日になる。厳密には、一日で到着しなくても期限は明日までだし、一日以上かかることもあり得るから、最後の宿泊だった、ということかも知れないが。とにかく旅の終わりは近いのだ。
 蚊屋野達は夜明けの近づいた灰色の街を歩き出した。

Copyright (C) 2018 Little Mustapha. All Rights Reserved