Technólogia Vol. 1 - Pt. 58

Technologia

64. エンドゲーム

 多摩川を越えて蚊屋野は東京に到着したと思ったのだが、周りの反応を見るとまだ到着したという感じではなかった。この世界ではここがまだ東京ではないとするとまだ神奈川県なのだろうか。しかし、世界が崩壊して東京の周りの県が広くなるというのもヘンな話だ。それに東京から外に出る時を考えてみると、ここの人達は昔の県境を越えた時点で隣の県に入ったとは思わないに違いない。
 大きな居住地の間にあるこういう場所は、きっと「何でもない場所」ということに違いない。いずれにしても、灰の影響でまともに使える建物もないし、長時間滞在することも出来ないような場所なので、こういう場所に意味がないと思われているのも仕方がない。
 だとすると、どこまで行けばゴールということになるのか、と蚊屋野は思っていた。河原の土手を登ると、かつての街が一面に広がっていた。この辺りは都市部からは離れた住宅街だったので、大きな建物も少なくて、遠くまで見渡せた。ボロボロになった廃墟がずっと続いているように思えるが、この中でも人の住める場所があって、そこが居住地になったりしているということだった。そして、その向こうには東京の中心部が見えている。
 蚊屋野はそこが本当に中心部であって欲しいとも思っていた。もし、そうでないとすると歩いて行くのには時間がかかりすぎてしまう気がしたのだ。もしもこの世界の人にとっての東京が、遠くに見えているビルの密集している辺り(かつて山手線の内側と呼ばれていた辺り)ではなくて、もっと遠い場所だとしたら。しかも、東京とはいっても多摩地区とか、そんなところだとしたら。灰の影響で昔の都市部は危険で住めないということだとしたら、そんな可能性もなくはない。なんとなく心配になってくる。
「ダイジョブっすか?」
堂中に聞かれて蚊屋野はふと我に返った。
「ああ、大丈夫だけど。間に合うかな、とか思って」
「間に合いますよ。もう少し行くと地下道に入れるっすから。順調にいけば夕方までには着けるっす」
その言葉を聞いて蚊屋野はホッとしていた。この世界でも東京の中心は東京の中心のままだったようだ。三人ともそろそろ体力が限界に近づいているのだし、出来ればすんなりと到着出来ればいいのだが。
 地下道というのはやはり地下鉄の線路だった場所を利用したものだった。蚊屋野達が河原をあとにして、一度多摩川のところで分断された「国道」へ戻ってからしばらくすると入り口に到着した。この辺りは住む人もほとんどいない上に、灰の影響もかなり受けている地域なので、それが都心部まで続く長い地下道の入り口だとは気付きづらい見た目でもあった。
 崩れた瓦礫が片付けられた小さなスペースに上げ蓋式の入り口がある。元々普通の建物の出入り口に使われていた扉を横にして置いてあるその入り口は、蚊屋野が最初に見た静岡の居住地の入り口と同じタイプだった。
 この地下鉄の駅は住宅地にあって、昔の世界でもそこに駅があるのか解らないような駅だった記憶があるが、その辺はこの世界でも一緒なのだと蚊屋野は思っていた。扉を開けると、中は蚊屋野も良く知っている感じの地下鉄の駅だった。電力もどこかから送られてくるようで、充分な明るさもあった。
 この安全な地下道を歩けると解って蚊屋野はすっかり気を抜いていたのだが、都会を良く知る花屋とディテクターさんはこの先にもまだ危険があるかも知れないと考えていた。それはこれまで遭遇してきたような、灰の危険や、崩れ落ちてくる瓦礫の危険とはまた違うものだった。
 都会には人が多い。特に東京はこの世界でも異常なほどに人が集まってくる。地下道の入り口を入った時にはほとんど人の姿はなかったのだが、東京の中心部に近づくにつれて地下道は人だらけになっていった。
 これまでの事を考えると、このまますんなり東京の中心部まで着けるとは思えない。本当はそうあって欲しくないのだが、花屋にはどうしたって問題が発生するように思えた。それで、人混みの中に怪しいものはいないかとあらゆる方向に注意を向けていた。しかし、そんな事をするまでもなく、しばらくすると蚊屋野達は行く手を遮られることになった。
「やっぱり、そう来たか。この地下道であんなことは滅多にしないんだがな」
ディテクターさんは立ち止まってそう言った。すぐ後ろを歩いていた蚊屋野は危うくぶつかりそうになった。ディテクターさんはそんな事は気にしていない様子で、通路の先を見ながらアゴに手を当てて考え事をしているような仕草をしていた。
 そんなに考えなくても、通路の先で何が起こっているのかはすぐに解るのだが、ディテクターさんとしては、そういうポーズをとるのがイカしていると思っているのだ。
「あれって検問ですか?」
ある程度のことは覚悟はしていたのだが、この障壁はかなり越えるのが困難な気がしたようで、花屋の顔色がすぐれなかった。普通に検問を通ろうとすれば自分達の顔を見られるし、逃げたらそれはそれで怪しいということになる。
「心配するな、お嬢さん。こういう時のためにオレがいるようなもんだからな」
ディテクターさんはそう言うとこれまでどおり先に進んでいった。蚊屋野達も良く解らないままその後に続いた。
 地下道の先では警察がいて検問をやっている。検問といっても特に持ち物の検査などはしていないのだが、通行人の顔を確認するために、一度警官の前に立ち止まらなくてはいけないようだ。地下道が急に人だらけになったように感じたのはこの検問のせいでちょっとした渋滞が出来ていたからかも知れない。ゆっくり進む行列の最後尾に蚊屋野達が並ぶと、地下道の壁に張り紙があるのに気付いた。それは、三人組の殺人犯の似顔絵が描いてある、あの張り紙の最新版のようだった。
「(おい、見ろよ。犬のことも追加されてるぜ!)」
そう言われて蚊屋野が張り紙を見るとケロ君の言うとおり、犯人の三人が犬を連れいていることと、似顔絵の隣に犬の絵が追加されているのが解った。だが今はそんな事で盛り上がっている場合ではないのだが。
 犬というのは仲間意識の強い動物である。逆に言えば自分だけが仲間はずれにされたような状態が気に入らないという事でもあるのだが、その点でケロ君は自分の事が張り紙に書いていなかったことを気にして、多少落ち込んでいたのだった。それが最新の張り紙で修正されていたので、この状況に関わらず無性に嬉しくなってしまったようだ。
「ケロ助はなんか嬉しいことあったんすかね?」
堂中が自分の前でケロ君が尻尾を振っているのに気付いて蚊屋野に聞いてみた。
「嬉しいというか、東京を目の前にして高ぶってるってことじゃないかな」
「(…おっと、すまねえ。オマエ達、今はピンチなんだったな)」
ケロ君は自分が無意識に尻尾を振っているのに気付いて落ち着く事にした。ただ犬の尻尾は制御不能な部分が多いので、止めたつもりでも勝手に動いていたりもした。
 そんな事をしているうちに蚊屋野達は警官の前に来てしまった。蚊屋野は余計な事を考えていたせいでこの場をどうやって乗り切るのか、ということは全く考えていなかったのだが。ディテクターさんが大丈夫だと言ったのだし、ここは彼に任せるしかない。
「顔が見えるようにゴーグルとマスクを外してください」
前に逮捕されそうになった時にも思ったのだが、ここの警官は誰でも棒読みというか、感情がないような話し方をする。そういう話し方をした方が言うことを聞いてもらい易いということなのだろうか。無表情なのと、ちょっとへりくだったような調子なのと、どっちが良いのか。それは時と場合によるな、と蚊屋野は思っていた。
 それはどうでもイイのだが、警官がそう指示すると、蚊屋野達三人と警官の間にディテクターさんが割って入った。
「すまないが、それは出来ないんだ。この人達はここの汚れた空気に直接触れると具合が悪くなるたぐいの病気にかかってるんだ」
そんなたぐいの病気があるのか?と思ったが、その辺が正確かどうかはどうでも良い事だった。
「それは許されません。顔を見せてください」
感情のないように見える警官は自分の仕事だけをする。
「まあ、そう言わずに。オレがそう言ってるんだから、それで良いじゃないの」
ディテクターさんがそう言いながら警官に名刺を渡した。その時の様子を見て、この警官にも感情があるということが初めて解った。警官は少し驚いた様子で、名刺を隣にいたもう一人の警官に見せた。二人の警官がコソコソ話し合ったあとで、蚊屋野達の通行が許可された。
 検問所から充分に離れた場所まで歩いてくると花屋がディテクターさんにお礼を言った。
「世界を救うためだ。どうってことないさ。だが、問題はこれからだな。この方法がいつまで通用するか解らないし。オレの名刺も無限にあるわけじゃない」
例によってディテクターさんのカッコイイと思っている喋り方だったのだが、後半部分については良く意味が解らなかった。ディテクターさんの名刺を見て相手の態度が変わるというのはコレで二度目なので、彼がそれなりの地位にあるというのは解る。だが、彼の言ったことからすると、もしかして彼の地位じゃなくてその名刺に何か秘密があるのではないか?とも深読みしてしまいたくもなる。
 ただ「ディテクター」とだけ書かれたその名刺に何かがあるとは思えないし、実際に名刺を貰った蚊屋野も、それを見て何かを感じたりはしなかった。ということは、彼らはやはりディテクターさんの地位を知って態度を変えたに違いない。ということは、これはディテクターさんに言うべきだろうか?蚊屋野は思ったことを言うかどうか迷っていた。
「いちいち渡さないで見せるだけにしたら良いんじゃないですか?」
蚊屋野が迷っていると、同じようなことを考えていた花屋が先に言ってしまった。
 ディテクターさんはまた急に立ち止まって、花屋の方に振り返った。蚊屋野が発言を躊躇していたのはこのためだったのだが。もしもディテクターさんが彼の名刺に関して、他の人が思いもしないようなこだわりを持っていたりすると、下手に名刺の渡し方に関して意見をしてはいけないのだ。ディテクターさんみたいな人には特に。
 ディテクターさんは眉間にしわを寄せたまま鋭い視線を花屋に向けている。もしかして、彼の気に障ることを言ってしまったのだろうか。
「その手があったか…」
幸いなことにディテクターさんは怒っているわけではない。だが、これまでずっと名刺は見せるだけでも良かった、ということには気付いていなかったらしい。そこにやっと気付いて、感心したということで真剣な表情を花屋に向かって見せていたようだ。
「あの、ボクにくれた名刺ならまだありますけど」
「いや。大丈夫だ。この先に必要な分ぐらいはまだあるさ」
ディテクターさんは人差し指を立てた右手を蚊屋野の向けてそう言うと、元の方向に振り返って歩き始めた。その後ろを蚊屋野達三人がニヤニヤ笑いならが着いていった。

 検問所を過ぎてしばらく歩くと地下道はこれまでよりも明るくなり、少し広くなったような感じもあった。それと同時に人は更に増えて、急いで歩くのには人が邪魔になることもあった。しかし、これだけ人が多ければさっきのような検問をするのも困難になる。恐らくこの先で検問はもうないだろう。その点ではこの人混みは有り難くもある。
 蚊屋野はこの人の多さに戸惑いを感じたりもしていた。この世界で人間の数は半分以下になったということなのに、ここにいる人の数を見ると、昔より増えたような気さえする。今いる場所は、恐らく昔の世界の五反田駅の手前辺りなのだが、これは蚊屋野の知っている五反田に出来るはずはなかったような人混みである。
 しかし、良く考えてみれば、人のいられる場所も減っているのだし、この辺りにいるほとんどの人間が、この狭い地下道に密集しているのだ。人は減っても狭い場所に押し込められた状態なので、やはり東京は東京ということになるようだ。
 昔よりも酷い混み具合ではあるが、昔と違うのは全体的にオットリした雰囲気なところかも知れない。蚊屋野達を除けば時間に追われて急いでいるような人もいない。この辺りに来ると、横浜で見たのと同じように地下道の道ばたにも露店のようなものがあったりする。そこに珍しいものがあれば人々は立ち止まってそれを眺めたりしていた。そんなところには観光地の市場みたいな感じもあった。
 更に進むと、周囲はこれまで以上に平和な感じになっていった。平和という表現があっているのか解らないが、なんとなく和やかということだろうか。地下道の所々に液晶ディスプレイが設置されていて、暇な人が周りに集まって映像をみているのだ。それを見ている人達の間で時にはウワーッと言う歓声が上がったりしていた。
 こんな光景はこれまで見なかったが、この辺は東京ならではという事に違いない。他の場所ではなるべく電気の無駄遣いは避けるべき、ということになっていたのだが、ここでは状況が違うようだ。色んな種類の発電機があって、その使い方を知っている人も多いから他より沢山発電できるということかも知れない。
 蚊屋野はディスプレイに何が映されているのか気になっていたので、歩きながらずっとそれを見ていた。遠目には真っ白い画面しか映っていないように見えたのだが、良く見るとそれは昔の世界のフィギュアスケートの映像だった。誰かが昔の世界で録画されていた映像を見付けて、それを流しているのだろう。
「あんなのが流行ってるの?」
蚊屋野はディスプレイを見つめたまま言った。
「ああ。アレっすか。ここじゃスケートリンクなんて珍しいっすからね。映画なんかよりも人気があるんすよ」
気候に関しては昔も今も変わっていないようなので、スケートが出来るほど寒くならない東京ではスケートリンクは珍しいのかも知れない。それに、氷がどれくらい滑りやすいのか、ということを知らなければ、あのフィギュアスケートの動きは昔の人が思う以上に超人的に違いない。
 蚊屋野がなるほど、と思っていると、また歓声が上がった。映像の中でスケーターが技を決める度に歓声が上がるようなのだが、近くで聞くと「ウワー!」ではなくて「イナバウワー!」と言っているのが解った。
 回転しても、ジャンプをしても、どんなワザでも「イナバウワー!」なので、誰かが間違った情報を広めてそれが定着してしまったのかも知れない。映像に実況や解説みたいな音声がついていないのも問題なのかも知れないが。もしも自分がこの先有名人になれたりしたら、その辺を訂正しないといけないと思った蚊屋野だった。
 蚊屋野がいつものようにどうでも良い事を考えていると、また目の前を歩いていたディテクターさんが急に立ち止まった。今度は完全に気を抜いていた蚊屋野だったので、気付くのが遅れてヘンな体勢でディテクターさんの背中に鼻をぶつけた。
 歩いている時に前の人とぶつかるとヘンな体勢になるのは、歩く速度ならなんとか止まれるかも知れないと思うからだと思うが、とにかく蚊屋野はヘンな体勢でぶつかった。この際それはどうでも良い事なのだが、気を抜いている時に限って急に何かが起こったりする。しかも大抵の場合は良くないことが。
 ディテクターさんが今度は何に気付いたのか、と蚊屋野はディテクターさんの見ている方に目を向けた。この辺りはもうどこを見ても人だらけという感じなのだか、人々の頭の上をどこかで見た事のあるものが動いている。あれは何だっけ?と思って見ていると、それは蚊屋野達の方へ近づいてくる。鉄の輪っかを半分にしたようなもの。それが頭の上に浮いているのではなくて、下から棒に支えられているのだが。それはつまり棒の先に半分にした輪っかが付いている道具に違いない。この説明は視点を変えただけで同じ事を二回繰り返しているだけなのだが、二つめの視点で考えた時に蚊屋野にはやっとそれがなんなのかが解った。
 アレは刺股に違いない。一つではなくて、いくつもの刺股の股の部分が人々の頭の上をこちらに向かって近づいてくる。ということは刺股で取り押さえるべき人物がここにいるということだが、それはどう考えても蚊屋野達のことなのだ。
 蚊屋野はなんでこんな呑気な感じで、ぼんやりと考えているのか?と思ってしまったのだが、実際のところは、この群衆をかき分けて走って逃げようなんてことは少しも考えられなかった。予想外に長くなってしまった東京への旅の最終日も、朝からほとんど休むことなく動き続けていて、もう走る気力も体力もあんまりない。それは花屋と堂中も同じであった。
 彼らはアッという間に刺股を持った警官達に囲まれてしまった。こうなるとディテクターさんが仲間になってくれて本当に良かったと思える。
 ディテクターさんはまた名刺を取り出して彼らの一歩前に出た。
「キミ達。道を空けてくれないか。この人達は重要な任務のために今すぐ行かなきゃならないんだが」
ディテクターさんは自分の名刺を顔の斜め上にかざして警官達に見えるようにした。まるで水戸黄門の印籠のように、と書きたいところだが、今はその喩えが通じないかも知れない。それはともかく、名刺がここで効力を発揮して目の前の警官が道を空けるかと思われた。
 しかし、彼らが道を空けたのは蚊屋野達を通すためではなかった。警官達の後ろから誰かが歩いてくる。
「おっと。これはマズいな…」
ディテクターさんはそう言うと名刺を掲げていた手を力なく下に降ろした。一体誰が来たのか、と思って蚊屋野が見ていると、つるっとした感じの若い男が現れた。若い男なのだからつるっとしていても良いのだが、この世界でこれまでに見た同じ年頃の男性に比べても特別に血色が良くて、肌がつやつやしている感じだった。
 後ろには品の良い感じの老人を連れている。なんとなくこの地下道には似つかわしくない感じの人達だった。
「あっ。ハネエ…」
花屋が思わず口にしたのはこの若い男の名前なのだろうか。
「知ってる人?」
蚊屋野が聞くと、花屋は頷いたのか首を横に振ったのか良く解らないような感じで顔を動かした。ただ、その表情からは良くないことが起きているのが良く解る。
「やあ、みなさん。やっと会えましたね」
若い男が話し始めた。
「それに、花屋。会いたかったよ」
やはり花屋とは知り合いのようだ。ただし、ニヤニヤしている男とは対照的に、花屋は男のことを睨み付けていた。
「こんな地下道なんて使って、逃げられると思ってたんでしょ?」
男は気にせずに話し続けた。
「でも、それが甘いんだよなあ。こっちだってバカじゃないからねえ。ロボットが一体動かなくなったって情報が入ってくるでしょ。まあ、普通の人なら、そうですかってことで終わるよね。でもオレはそれだけじゃ終わらないんだよねえ。だってロボットには犯罪者を見付けたら通報する機能があるんだしさ。それが止まったってことは、どういう事か?ってのはオレには解っちゃうんだよね。通報されたら困る人がロボットを止めたに違いないんだよ。そして、今この辺りで手配されてるのは三人の殺人犯だけ。簡単なことだよね。だから、ロボットが停止した位置から考えて、この地下道を見張ってたってワケなんだよ。どう?悔しい?」
これは悔しいと言えば悔しいのだが、この羽江(ハネエ)という男の思っている悔しさとはちょっと違う。
 羽江は誰でも考えつくような、大したことない推理を披露して得意になっている。この地下道を歩いたのは成り行き上仕方のなかったことなのに、羽江は自分の思惑どおりに蚊屋野達をここに誘い込んだような、そんな気分でいるらしい。偶然を自分の手柄のようにして話している羽江のことが気に入らないのだが、この状況ではどうすることも出来ない、という意味で蚊屋野達は悔しがっている。
 少し離れたところからは、またディスプレイの中でフィギュアスケートの大技が決まったのか「イナバウワー!」と歓声が上がったのが聞こえて来た。
「そうだよな。まさにイナバウワー」
羽江もイナバウワーの意味を間違えて理解していると蚊屋野は思ったが、そこを気にしても仕方がない。
「あなたなんですか?これまで私達の邪魔をしてきたのは。あなたが命じてたのですか?」
花屋は冷静を装っているが、血管が浮き出そうなほど怒っている人というのは、隣にいると見なくても怒ってる気配がするのですぐに解る。
「ビジネスのためだよ。これから世界はもっと住みやすい場所になるんだ。そのためにはもっとビジネスを発展させないといけないんだよ。花屋。キミ達のやろうとしていることは間違っているよ」
「少しも間違ってないっすよ。まずは灰の問題を解決しないと世界が良くなることなんて有り得ないし、間違ってるのはあなたの方ですよ」
堂中からも怒ってる気配が感じられた。それでもなんとかして普通に話そうとしているのは、このいけ好かない男がそれなりの地位にあるからなのだろうか。
「灰のことはこれまでずっと科学者が研究してきたんだけどね。でも何の成果もなかった。潔く諦めたら良いのに、いつまでも権力の座に居座りたいから、結論を先延ばしにしてるだけなんだよ。科学者なんてそういうものだよ」
「それって、科学者の息子がいうことなの?そんなことして恥ずかしくないの?」
花屋がそう言ったので、なんとなくこの羽江のことが解った。そして、どうして知り合いなのかという理由も。科学者の息子ということは、この世界では政治家の息子ということになるが。そういう特別な環境では、時として間違った育てられ方をする子供もいたりする。そして、大人になるとこうして面倒なことを始めたりする。
「オレの意見だって充分科学的だよ。科学者達は古い考えに捕らわれすぎなんだよ。オレはスフィアと共存する方法を選択した。これはイノベーションだよ」
イナバウワーほどでもないが、この「イノベーション」の使い方も間違っているような気がする。しかしイノベーションの正確な意味が解らないので、蚊屋野はこんなところで思わずモヤモヤしてしまった。
「それに、そのメガネとか。こんなこと言っちゃ悪いけど、世界を救うような顔には見えないよね」
蚊屋野は顔を隠すためにメガネをかけているのを思い出した。ということは、世界を変えるように見えない顔なのは自分の事なのか?ということにも気付いた。
 これは変装用のメガネなんだし、外せばもう少しマシな顔なんだが、と思ってメガネを外そうと思った蚊屋野だが、メガネがなければ世界を救いそうな顔なのか?というと、そこまで自信はないのでメガネはそのままにしておいた。それよりも、こういうときに使われる「言っちゃ悪いけど」って言葉には何の意味があるのか。悪いと思っているのなら言わなければ良いのに、言わないことなんて決してない。
「蚊屋野君。挑発に乗らないで」
さっきまではかなり怒っていたと思った花屋が蚊屋野にそうささやいた。ということは、いつの間にか蚊屋野の方が花屋よりも更に怒っている気配を出していたに違いない。
 この羽江という男は知れば知るほど腹立たしく思えてくるタイプの人間のようだ。しかも下手に逆らったりは出来ない地位にあるみたいなので、どうすることもできない。ここはディテクターさんに望みを託すしかないのか。
 蚊屋野はそう思って横を向いたのだが、いつの間にかディテクターさんがいなくなっていた。辺りを見回すと、刺股を持った警官の横にディテクターさんがいた。
「何してるんですか?!」
「すまないな。その人には逆らえないんだ…」
これまでの妙に格好つけたディテクターさんとはまるで別人のように、小さくなっている。自分の地位を利用して好きなようにやっていたディテクターさんだが、自分より上の地位の人が出てくると何も出来ないようだ。納得と言えば納得なのだが、これは酷い話だ。「実はディテクターさんがスパイだった」という展開よりも更に酷い。
 蚊屋野はなんとなく全身の力が抜けてしまったような気分になった。抵抗する気力も萎えたということなのか。少し遠くからまた「イナバウワー!」の歓声が聞こえて来た。
 色んな事が間違っている。するとまた「イナバウワー!」が。短い間に大技を連発だ。