Technólogia Vol. 1 - Pt. 59

Technologia

65. 東京の一等地

 東京には喜びも感動もなかった。こんな事なら間違いだったとしても多摩川を渡った時に大喜びしておけば良かったと蚊屋野は思っていた。羽江という男に連れられた警官達に囲まれてしまった蚊屋野達は、そのまま東京の中心部にある警察署の留置所に入れられてしまった。今度の留置所は元から警察署だった建物の中にあるので、これまでのような即席のものとは違う。誰かに鍵を開けてもらわない限り、簡単には出られないような牢屋である。
 殺人犯とされてしまった三人の中で花屋だけは牢屋に入れられなかった。代わりに彼女は羽江がオフィスと呼んでいる建物へ連れて行かれていた。そこは東京の一等地と呼ばれる場所だった。一等地といっても、この世界では灰の降ってこない場所に価値があるので、昔の世界の一等地とは別の場所になっている。
 高層ビルはほとんど無い地域だが、五階建てぐらいのビルはどれも壊れずに使える状態になっていた。数年前までここは誰の所有物でもなく、自由に使うことが出来た。付近の住民の集会所だったり、外からやって来た人が寝泊まりする場所でもあった。それが近年になって現れた「お金持ち」達が金銭と引き替えに建物を独占するようになったのだ。
 羽江は「オフィス」の最上階の部屋の窓から外を眺めていた。
「やっぱりビジネスをやるには高い場所にいないとね。イイでしょ、この景色」
羽江が振り返って花屋を見た。シャワーを浴びて綺麗な服に着替えるように、と言われた花屋だが羽江の言うことは聞かずに、ここにやって来た時のままのホコリにまみれた服を着ていた。羽江はそれが不服でもあったが、花屋の足下にはケロ君がいて、彼女に近づきすぎるとケロ君が唸り声を上げるので、その点については何も言えないでいた。
「こんな継ぎはぎだらけの街なんて。わざわざ見る事もない」
花屋の言った「継ぎはぎ」というのは半分崩壊した状態の東京を比喩的に言い表した言葉ではない。東京は大部分が布で出来た屋根に覆われている。灰の影響を少なくするためだったり、灰の心配のない場所でも灰を恐れる人々のために、ビルとビルの間に布を張って屋根にしているのだ。灰の降る場所では布はすぐにボロボロになってしまうし、そうでなくても普通の服に使われるような布なので、長い間使い続けることはできない。それで文字どおり継ぎはぎだらけになっているのだった。
「今は綺麗に見えないかも知れないけどね。もっとエネルギーが必要なんだよ。昔の東京は夜でも昼のように明るかったって。昔の中心部にあるビルの廃墟は崩れなければ今の二倍の高さだったんだぜ」
「東京が綺麗になったって、根本的な問題を解決しないとまたすぐに今と同じ事になるのは解ってるでしょ?」
「想像力が乏しいんだな花屋は。あの廃墟のビルの二倍だよ。灰の降ってない場所にそれと同じものを作ればイイんだよ。沢山作れば住む場所も、商売をする場所も確保できる。労働力なら問題ないよ。キミもロボットを見たはずだけど、あいつらは今着々と成果を上げているからね。ロボットのテストが済んだらまずは原発を作らせて。そうしたら、生み出される電力で新しいロボットの生産だって出来るかもしれない。ロボットが増えたら高層ビルなんてアッという間だよ」
花屋はこんな事を言う羽江に想像力についてとやかく言われて腹が立っていた。花屋にしてみたら、羽江の言っている事は想像というよりも、都合の良い理想ばかりを並べているだけに思えた。想像力を働かせたら、そんな簡単に物事が進むはずないのはすぐに解る。
 羽江の父親は優秀な科学者である。その父親が他の科学者達と協力して問題を解決していくのを見ながら羽江は育ったはずだが、どこかでそれを間違って受け止めてしまったのかも知れない。普通の人から見ると科学者のやることは時に魔法のようでもあるのだが、羽江は科学者にとってさえ魔法のようなことを本当に実現可能だと思っているかのようだ。
「ビルを作るのには資材が必要なのよ。それに灰の降る場所が変わらないって保証もないし。もし出来たとしても東京中の人を住まわせる大きさもないでしょ」
「住めない人は今までどおりに地下とかぼろ家に住んでもらうつもりだけど。その辺はビジネスとして仕方ないよね。ビジネスで成功したら良い暮らしが出来る。今みたいにみんなで分け合う必要もなくなるし」
羽江の言うビジネスの何がどうビジネスなのかは謎であるが、花屋を納得させるような言葉ではなかったのは確かである。
「なにより、原発が危険な事ぐらいあなただって知ってるでしょ?大きな事故があって大変なことになったって習わなかった?」
「それは知ってるよ。でも危険なのは条件がそろった時だけだって気付いたんだよ。一つめは原発のある場所と、その原発で作られた電力を使う場所が違っていたこと」
「それ、どういうこと?」
「自分で使う電力を発電する場所ならちゃんと管理するけど、自分に関係のない施設の管理なんて面倒だからね。だから管理がいい加減になって危険ってこと」
羽江は得意になって話しているが、花屋はどうにも納得がいかなかった。だが二人ともちゃんとした発電所のあった時代のことは知らないので、それが正しいか間違っているかはなんとなくしか解らなかった。
「二つめはね」
羽江は相変わらず得意げだった。
「地震が起きるってこと」
「地震だっていつ起きるか解らないって聞いてるし…」
「それは年寄り連中が言ってることだしね。オレの知る限り、地震なんて一度も起きてない」
そう言われると花屋は何も言えなかった。世界が崩壊を始めたあの日から地震は一度も起きていないし、台風のような自然災害も発生したことはなかった。地球が活動を止めてしまったかのような、そんな状態が続いていたのだった。充分な観測機器がなかったり、その他の問題に対処するためにその辺の調査はほとんど出来ないままなのだが、地震が起きていないのは確かな事だった。
「だからキミ達には余計な事をして欲しくないんだよ」
羽江の自信に満ちた表情というのはどうにも気に入らない。花屋には反論をするだけの論拠がないだけであって、羽江が正しい事を言っているワケではないのだが。そこには気付かずに羽江はさらに調子に乗って来た。
「キミ達がスフィアのことを調べたりして世界が元に戻ったりして、また地震が起きるようになったら困るんだよ。これはオレの我が儘で言ってるんじゃないよ。東京のみんな。いや、日本中のみんなが思ってることだよ。ザ・バードの教えでみんな目を覚ましたんだよ。大量の電力を消費しながら豊かに暮らすこと。キミ達はそういう夢を壊そうとしてるんだよ。そんな事も解らないの?」
解ってないのは自分の方だ!と思った花屋は、もう理屈で説得することを諦めたようだった。
「ケロちゃん、行こう。その人が追いかけてきたら噛みついて良いからね」
花屋はそう言いながら振り返ってドアのところへ向かった。花屋は羽江が慌てるかと思ったのだが、彼は落ち着いていた。
「あ。そういえば、オレ達このビルに閉じ込められてるみたいだよ」
羽江は何を言っているのか?と思って花屋がドアの前で振り返った。
「私を監禁するってこと?そんな事できないの解ってるでしょ。あなたが罰せられることになる」
「監禁なんてしてないよ。ただ、このビルの出入り口に鍵がかけられてるだけなんだよ。残念ながらオレも、このビルに居る他の人間も鍵をもってないんだ。多分、明日の議会が終わる頃に開くかも知れないね。あ。ってことはキミ達の計画の中止が議会で決定されたあとってことだね」
それを聞いた花屋は食いしばった歯を振るわせながら羽江を睨み付けた。
「そんなに怒ることはないよ。まあ、キミ達は今と同じく殺人犯扱いってことにするけど。でも昔の約束を思い出してオレのお嫁さんになってくれるんだったら、花屋だけは助けてあげるよ」
花屋は羽江の言うことを最後まで聞かずに部屋を出て行った。
「(アイツのこと噛みついてやっても良いんだけどな)」
花屋にケロ君の言うことが解っていたら喜んで許可していたに違いない。だが今は復讐を考える時ではない。全てが終わるまでは、あの惨めな自信家のことよりも自分のやる事だけを考えるべきなのだ。

 警察署の牢屋では予想どおり蚊屋野と堂中が途方に暮れていた。そして、そうすることが当たり前であるかのように、顔の前にある鉄格子二本を両手でつかんで、外へと続く通路の方を眺めていた。ここに入れられたばかりの頃はつかんだ鉄格子が壊れないかと、両手に力を入れて揺さぶるように動かしてみたりもしたのだが、ビクともしなかった。本物の留置所なのでそれが頑丈なのは当たり前なのだが。
 更に悪いことに、ここには看守のような人がいなかった。閉じ込めた人間が逃げ出したり、悪さをしないように見張るのが看守の役目なのだが、こういう場合は別の役割が割り当てられていたりもする。間抜けな看守を騙して牢屋から抜け出すのは冒険物語の常套手段である。しかし、その看守がいないのでは何も出来ない。もしかすると、この世界の警察は過去の映画などから看守を置くことのリスクを学んだのかも知れない。
 もう出来ることは何もないと思って先に鉄格子から手を離したのは堂中だった。彼は牢屋の奥にある簡単な腰掛けに座った。黙っているのは諦めたからなのか、あるいは抜け出す方法を考えているからなのかは解らない。
 一方で蚊屋野は相変わらず鉄格子をつかんだまま外の通路を眺めていた。眺めているといっても、そこに誰かが通るワケでもないし、実際にはなんとなくその辺に目線がいっただけで、頭の中は全く別の事を考えていた。
 ここで終わってしまうのか?このままだと、恐らくここで終わってしまう。だがそんな事では納得がいかない。これまで散々苦労してきたのに、最後になってチョロッと現れた嫌味な金持ちのお坊ちゃんみたいなのに台無しにされてしまう。それだけはどうしても避けたい。
 こういう時にはどうすれば良いのか。恐らくこれまでの経験がここで活きてくるのだ。経験は人を強くするし、賢くもするものだ。そう思って蚊屋野はこれまでしてきたことを思い返してみた。この世界で最初にした事はなんだったか。そう思った時に蚊屋野はアッと声を出しそうになった。
 この世界で目を覚ました時に、蚊屋野は転送装置の中にいたのだった。そして、扉を押して開けようとしても開かなくてパニックになったのだが、実はその扉は横に開くタイプだったのだ。もしかして、こんな簡単なことだったらどうしよう?と、蚊屋野は盛り上がったのだが、牢屋の扉は前後にも左右にも動かなかった。
 そんな簡単ではなかったようだ。
 ここで気を取り直して、更に考えてみた。最初の居住地では能内先生の言ってることが信じられずに、あちこち彷徨って、それから本格的に三人で出発して。箱根ではスフィアが何だと思うか?とか聞かれて困ったり、フォウチュン・バァに占ってもらったり。
 あとはケロ君と出会って、その後は灰から逃げたりしながら、恐ろしい姿に変わってしまった住人のいる街とかに行った。もしかすると、この辺の経験が活きるかな?と思ったが、閉じ込められるような状況はなかった。蚊屋野はあの街のことを思い出したついでに、あそこで見たロボットではない女の子は誰だったのか?と考えてゾッとしてしまった。だが今はそこを気にしている場合ではない。
 閉じ込められたといったら、その次に足止めされていた予言者様の塔のある場所だ。だがあの時のことを思い出して蚊屋野は少し力が抜けてしまった。あの時の作戦はまさに間抜けな看守を騙す作戦だったのだ。すでに一度やっているのならここでもう一度出来るはずもない。なんとなく蚊屋野はそう思っていた。
 困ったことに、これまでの経験がなかなか活きてこない。残るはラストスパートという感じだった横浜から東京までだ。変装したり、三人で離れて歩いたり。それから中年になった友達のところにも行ったのだが。
 本当にこれだけなのか。これまでの苦労はこの状況で全く意味がないのだろうか。だがまだ何かを忘れている。蚊屋野は記憶を少しだけ戻してみた。最後の方は急いでいたので見逃していたり忘れていることもあるはずだ。
 そういえば、横浜に彼らをかくまってくれた秘密結社の人のいる食堂というのがあった。それに、そういう秘密結社らしき人達というのは各地にいたりするということだったのだが。ということはつまり、ここでそういう人が都合良く助けに来てくれるのを待つしかないのだろうか。
 蚊屋野は足を動かさずに、鉄格子をつかんだまま腕を伸ばして天井を見上げた。立ったままの腕立て伏せみたいな状態で、蚊屋野は檻の中で暇をもてあましている猿のような感じだったのだが、蚊屋野の気分もそれに近いものがあったのかも知れない。
 何かがおかしい。自分はこんな狭い檻の中で何かを待つだけの人間なのだろうか。もっとスゴい事が出来るはずなのに。しかし、そう思っているのは自分だけで、結局は何も出来ないのかも知れない。
 留置所の天井は薄汚くて、所々に染みが出来ている。あの染みはカビなのだろうか?と、そろそろ蚊屋野の思考は脇道にそれ始めていた。カビだって生き物に違いないのだが、そういう生き物は灰の影響は受けなかったのだろうか。カビだけでなくて虫のような小さな生き物たちはここでどうやって生きていたのか…。
 脇道にそれて蚊屋野はやっと重要な事に気づいた。普通ならば最初に考えることでもあるのだが、重要であると同時に、蚊屋野にとってはいつしか当たり前のことになっていたので、その事をすっかり忘れていたのだった。
 あの横浜の食堂にいたゴキブリは人間の言葉を喋っていたのだ。もちろんそれは蚊屋野だけが聞くことの出来る動物たちの言葉でもあるのだが。ここにだって彼らはいるはずだ。最後の望みを託すのが彼らで良いのか?という思いは少しあったのだが、それは仕方がない。それに言葉が解るぐらいの知性があるのなら、彼らは協力を求める相手としても妥当な存在と思って良いのだ。問題は花屋と堂中には蚊屋野のこの能力について話していないことだが、話したところでどうせ信じてはもらえないだろう。ちょっと恥ずかしい気もするが、ここは気にせずにやるしかない。
「あの、誰かいますか?いるのなら聞いて欲しいことがあります。私は人間です。みなさんにとってはタダの人間かも知れませんが、実は特別な人間だったりもします。でも今ちょっとした問題が起きていてここに閉じ込められているのです。そこでみなさんの力をお借りしたい…」
「ちょっと、蚊屋野さん。なに言ってるんすか?」
堂中が呆気にとられたような顔をしているが、蚊屋野は口に人差し指を当てて黙っているようにというサインを送った。
「私は世界を元の姿に戻すことが出来るかも知れないのです。もし元に戻すことが出来れば、失われてしまった自然が蘇り、農業やその他の産業も復活して生活は豊かになるはず。これは人間だけに限ったことではないです。みなさんは知らないかも知れませんが、その昔はあなた方ももっと豊かな生活をしていたのです。人間が大量に仕入れた食べきれない食糧をゴミとして捨てるので、あなた方の先祖は食べるものに困ったことはないはずです。それに、人間が豊かになれば冬でも暖かい場所が増えます。それはあなた方が身を守り子孫を増やしていくのにも丁度良い環境に違いないのです。しかし、そんな理想の世界を望まない別の人間によって私は閉じ込められているのです。きっと彼らは自然を大切にとか、生き物を大切にとか言うくせに、あなた方を見たら必要以上の殺虫剤を使ったり、バーナーで火を付けようとしたり…。いや、これは偏見かも知れないけど。とにかく、私を助けてくれたら、みなさんにとっても理想の未来がやって来ます。これを聞いている人…じゃなくて、…もし聞いているのなら手を貸してください。お願いします」
蚊屋野の謎のスピーチが終わると、堂中は深刻な顔をしていた。蚊屋野にはなかなか目を合わせられない様子だったが、少し間を空けてからやっと口を開いた。
「あの蚊屋野さん。もしも自分で自分を責めているんだったら、それは間違いっすよ。悪いのはボクらなんすから。自分を責めちゃダメっす。全てはボクらの力不足が招いたことなんすよ」
大体想像はしていたが、堂中は蚊屋野がおかしくなったと思っているようだ。あんなことを一人で喋ったら無理もない。
「いや、そうじゃないんだよ。今のはなんて言うか、おまじないみたいなもんなんだけど…」
おまじないにしては長すぎないか?とも思うが、それはどうでもイイ。
「自分を責めてるわけじゃないし、マモル君も花屋も悪くないし。とにかく、まだ時間は残ってるんだからね。ここでイナバウワーが起きるのを待っても良いと思ってさ」
堂中には何のことだかサッパリなのだが、蚊屋野が大丈夫だと言っているのだから大丈夫なのだろうか?昔の人はみんなこんな感じなのかも知れない、と堂中は勝手に納得するしかなかった。

 羽江が「オフィス」と呼ぶビルに居た花屋は、羽江のいた部屋から出て一階に下りてきた。特に誰からも止められる事はなかったので、そのまま出入り口のところまでやって来た。そこには歳をとった男が立っていたのだが、花屋はその男を無視して出入り口のガラス扉に手をかけた。羽江が言ったとおり扉には鍵がかかっている。
「ここを開けてくれませんか」
花屋は扉に手をかけたまま横にいた老紳士風の男に鋭い視線を向けた。
「申し訳ございません。鍵を持ち合わせていないもので、開けることは不可能です」
それが本当かどうかは解らないが、どっちにしろ開けるつもりはないのだろう。穏やかな口調で断られたのが更に腹立たしかったのだが、花屋は何も言わずにビルの廊下を引き返した。
 あの老人は羽江のやろうとしている事をどう思っているのだろうか?と花屋は考えていた。見た目からすると昔の世界で過ごした時間の方が多い年齢に違いないのだが、そんな人が羽江のやることを黙って見ているのはおかしい気もする。もしかすると、この世界の生活に慣れきってしまって、その辺の感覚が麻痺しているのかも知れないし、あるいはザ・バードというものの影響なのかも知れない。
 東京に近づくにつれてその存在が明らかになってきたザ・バードなのだが、本当にみんながその内容を信じているのか。もっと大昔に流行ったとされる予言の書には結局何も書かれていなかったというのを聞いたことがある。何も書かれていないというのは間違いだが、どうとでも解釈できるような内容だったので、人々はそれを読んで好きなことを想像できる。つまり白紙のページを見て好きなように物語を作るのと同じ事で、勝手に想像すれば予言の書を読んだことになる。きっとザ・バードも同じようなものに違いない。
 あらゆることが書いてあると言われるザ・バードだが、その中でも一緒に書かれている数値が大きいほど重要ということだった。ということは数値の多いものを組み合わせて勝手に話を作れば説得力が生まれるということなのだろう。
 花屋は一人でそんな事を考えていたら少し虚しい気分になってきた。人々が勝手な想像でザ・バードを解釈している、というこの考えも花屋の勝手な想像でしかないのだ。出入り口のところにいたさっきの老紳士のところへ戻って色々と問いただしてみたい気分だったが、今は時間がないし、そうすることに意味があるとも思えない。
 花屋は振り返らずにビルの廊下を進んだ。途中にある全ての部屋のドアを確認したのだが、全てに鍵がかかっているようだった。それが解ると二階へ上がった。
 二階でも全ての部屋のドアを確認するつもりだったのだが、一つめのドアが開いてしまったので、確認する手間が省けた。花屋はそっとドアを開けてから顔の半分だけを部屋の中に入れて様子を探った。中には誰もいなかったが、まだ中には入らずに隣の部屋の方へ進んだ。その部屋にも鍵はかかっていなかった。そして、さっきと同じように中を覗いた。こっちの部屋の方が理想的だと思ったようで、思わずこぼれそうな笑みを抑えながらケロ君を連れて中に入った。
「想像力のないのはどっちだろうね?」
花屋はケロ君にそう言いながら中から部屋の鍵を閉めた。
 羽江はビルの一階だけに見張りを置いていたようだ。出入り出来るのは一階だけと思い込んでいたのか。あるいは、この世界の人間は二階の窓から外に出るなんてことはしないと思っているのかも知れないが、とにかく二階から上の階は全く無警戒だった。そして、旅の途中でどんなことがあっても対応できるように準備してある花屋の荷物についても、中身を調べることはなかった。
 花屋は部屋の窓を開けて下の通りを見下ろしてみた。一等地なだけあって瓦礫もなく綺麗な道だった。
「ケロちゃん、おいで」
ケロ君は言われたとおり花屋に近づいていったが、少し心配そうな顔つきでもあった。花屋は自分の荷物の中から長袖のシャツを取り出した。そのシャツの背中の部分をケロ君のお腹に当てて、そのままケロ君を包むようにしてケロ君の背中のところでシャツのボタンを留めた。
「(なんだか嫌な予感がしてきたぜ…)」
ケロ君の言葉は通じなくても、表情で花屋にもケロ君の言いたいことは伝わっている。
「ちょっと恐いかも知れないけど、我慢してね」
そう言いながら、今度は荷物から一束のロープを取り出した。そのロープをケロ君に着せたシャツの余った部分と両袖に結びつけた。花屋が試しにロープを持った手を上にもっていくと、三点で支えられたケロ君が宙に浮かんだ。
「(何がしたいか、だいたい解ったが…。これ途中でほどけたりしないだろうな?)」
ケロ君は更に心配になったのだが、花屋は成功を確信した表情だった。
「いい?じっとしててね」
花屋はケロ君がパニックになって暴れることだけを心配していたのだが、不安な状態が長く続けば余計にケロ君を恐がらせるだけなので、あまり考える時間を与えずに脱出作戦を決行する事にした。
 ケロ君がロープに吊された状態でゆっくりと下の道路へと降ろされていく。ケロ君の目は一点を見つめたまま動かない。
「(じっとしてるぜ。じっとしてれば大丈夫なんだろ)」
ケロ君がそう繰り返していると、足が地面に着いた。それでもしばらくはケロ君はまったく身動きをしないで人形のようになっていた。
 ケロ君を降ろすと花屋は持っていたロープの端を部屋にある机の脚にくくり付けた。次にその机を窓のギリギリのところまで動かしてきた。これで花屋がロープにぶら下がっても彼女の体重を支えられるに違いない。
 本当は二階からだったら飛び降りても大丈夫だとは思っていた花屋だったが、足をくじいて動けなくなるのも困るので慎重にやることにしたようだ。しかし、途中までロープで下りてくると面倒になって来たので、残り半分のところで花屋は壁を蹴ってそのまま飛び降りた。
 ケロ君に着せたシャツを脱がせたらやっとケロ君は動き出した。
 さて、これからどこへ行けば良いのか。夢中でビルから脱出した花屋だったので、まだそこまでは考えていなかった。それでも一つだけやりたいことがあった。
 花屋はビルの正面の入り口に走って行った。ビルのガラス扉の向こうにはやはりさっきの老紳士がいた。それを確認すると、花屋が外から手を振った。中の老紳士は何が起きたのか理解出来ずに一瞬動きを止めていたのだが、慌てて扉を開けようとした。
 しかし、老紳士はポケットから鍵を出したものの何も出来なかった。それを見て花屋は老紳士に向かってあかんべえのポーズをしてからビルから遠ざかっていった。
 花屋の思ったとおり、やっぱり老紳士は鍵を持っていた。しかし鍵を使えば、鍵がないから花屋を監禁した事にならないという理屈が崩れてしまう。それで老紳士は扉を開けて追いかけてくることが出来なかったのだ。花屋を監禁していないということを証明するには彼らは明日までこのビルの中にいなければいけないのだが、羽江はどうするのだろうか。
 ビルの中では老紳士が観念したという感じで笑みをこぼしていた。その笑みには警告とか挑発とか、そんな意味はない。恐らく心からの笑みだ。きっとこの老紳士も本心では羽江のやるとこには賛成できないのだろう。花屋はそれを見て安心すると少しニヤニヤしながら次にとるべき行動を考えていた。