Technólogia Vol. 1 - Pt. 63

Technologia

69. 光の中へ

 中野賢蔵は窓の外にあるスフィアを見つめている。彼の後ろへ近づいて来たのは能内教授だった。
「長い道のりだった」
賢蔵はスフィアから目を離さずに言った。能内教授もスフィアの方に顔を向けて眩しそうに目を細めた。窓の外は夏の西日が射しているように明るいが、それはスフィアが太陽の光を反射しているためだった。ただ反射しているだけでなくて、スフィア自体からも強烈な光が発せられているようにも感じられるが、あまりにも眩しいためにそれを確かめることは出来ない。
 外から差し込む光によって窓際に立っている二人は真っ黒い陰にしか見えなかった。それで時々喋っているのがどっちなのか解らないこともあった。
「命をかける価値は充分にあったな」
「あれは我々になにも与えず、奪っていくだけだった」
「だが、全ては決まっていたのかも知れないね。人の運命というのは生まれた時から決まっているのか。時々そんなことを考えてしまうよ」
「あなたほどの科学者がそんな事を考えるとは。しかし、確かに考えてみると妙ですな。大幅に予定を変更しなければならなかったあの時に、たまたま研究室に潜り込んでいたあの学生が自ら進んで犠牲になってくれるとは」
「きっと彼にも解っていたのだよ。一人の犠牲で大勢の命が救えるということを。我々はその死を無駄にはできない」
この二人は何を話しているのか?と思っていた。だが蚊屋野はなんとなく恐ろしくてその会話の意味を確かめることが出来なかった。ただ黙って二人を見ていると能内教授が蚊屋野の方を向いた。
「キミはあの時死にたがっていたよね」
確かにあの時は最悪の気分だったが、死にたいと言っている人間がホントに死のうとするのか?というとそうでもない。死にたいというようなことを言う人は、少しも死ぬなんて事を考えていないものなのだ。あれは「オレは落ち込んでいるのだから、誰かが同情して慰めてくれないとオレは死んじゃうよ」というある種の脅迫みたいなものなのだ。
「死にたいっていっても、あれはあの時の気分でそういう…」
蚊屋野が弁解しようとしていたのだが、言い終わる前に遮られた。
「それに、私の娘に対する責任もあるんだよ」
なぜか知らないが蚊屋野はギョッとしてしまった。自分に何の責任があるのか解らないが、賢蔵の言葉を聞いて急に不安になって、走ってどこかへ逃げ出したい気分になっていた。
 責任をとるためにはどうすれば良いのか。これまでの話を考えると自分は死ぬ事になっているのではないか?と蚊屋野は思ったのだ。
 なぜだかは解らない。それに能内教授がここにいるのも理解しがたい。蚊屋野達は彼のいた居住地から何日もかけてやっと東京に辿り着いたのに、どうして彼は…。蚊屋野は考えようとしたが、そのときにアッと思って我に返った。

 ウワッと小さな悲鳴を上げながら蚊屋野は飛び起きた。夢だった…、と安心したいところだが、まだ夢の中で感じていた恐怖が彼にのしかかっていた。どうせならこの世界でのこと全部が夢だったという「夢オチ」が良かったのだが、そうするにはここまでの話は長すぎる。
「どうしたの?大丈夫?」
蚊屋野の隣に寝ていた葉奈は急に飛び起きた蚊屋野に少し驚いていたが、ゆっくりと体を起こして蚊屋野の肩に手をかけた。さっきの夢のことを思い出すと葉奈の手が冷たく感じられるようにも思えたが、蚊屋野はなるべくそういう事を思わないようにしていた。
「きっと緊張しすぎなのよ」
葉奈に言われた蚊屋野はただウンと頷いただけだった。
 だが本当は少しも緊張などしていなかった。昨日眠りにつくまでは。スフィアの近くまで歩いて行って観測装置を置いてくる。それだけで英雄になれるなんて、そんなウレシイ話はないと興奮してはいたが。
 だがヘンな夢を見たせいで蚊屋野の頭の中は不安だらけになっていた。最初に能内教授から説明を聞いた時に、彼は観測装置を置いた後の事を説明しただろうか。
 良く考えてみれば、あの強烈な光を放っているように見える得体の知れない巨大な球体に近づくのは簡単なことではないように思える。それに、あの球体は電波のようなものを出しているということだが、そういうものが人体に悪影響を与えるという話は昔から良く聞く。
 しかし、昨日賢蔵に聞いたところによれば痛いことも苦しいこともないと言っていたのだ。きっと大丈夫に違いない。蚊屋野はそう思い込みたかった。だが今はそんなふうには思えない。
 今となっては昨日賢蔵が言った意味は「痛みも苦しみも味わうことなく死ねる」という事としか思えなくなっている。確かにそんな風に苦しまずに死ねたらまだマシかも知れないが、蚊屋野はまだ死にたくない。今は生きていた方が絶対にマシなのだ。少し歳をとってしまったが、美しい葉奈が隣に寝ている今の状況では。
 だが待てよ!蚊屋野の頭に更にある考えが浮かんできて、重苦しいものがジワジワと彼のこめかみの辺りを締め付けているような気分になった。もしも全てが蚊屋野を陥れるための罠だったとしたら。花屋や堂中が彼のためにしてくれたことも、花屋が彼の娘だったと言う話とか、葉奈が彼の事をずっと待っていたこととか。全てが嘘だったとしたら。
 科学者達は何も言わないが、本当はスフィアに近づくと死んでしまうのだ。それを悟らせないためにみんなで嘘をついて自分をスフィアに向かわせようとしているのだ。
 蚊屋野の不吉な想像がどんどん膨らんでいって、彼は再び眠ることが出来ずにいた。一つ良い事が起きたら、その何倍もの規模の悪いことが起きるに違いない、と蚊屋野はいつもそう思っているので彼がそんな状態になるのも仕方がない。

 何度かウトウトしたもののほとんど眠れないまま朝になった。まだ起きる時間ではなかったが横になっていても気分が落ち込んでいくばかりなので、蚊屋野は起き上がって部屋を出た。
 大人はまだ誰も起きていなかったが、子供達の朝は早い。しかも新しい友達と遊びたくてウズウズしていたのだからなおさらである。研究所の出入り口近くにある少し広くなったスペースに作られたケロ君用の寝床のところに子供達が集まっているが、ケロ君はもう少し寝ていたいようで呼ばれても顔を上げただけで、寝床から出てくる事はなかった。
 子供達は仕方なくケロ君の横にしゃがんで頭を撫でたりしていた。そこへ蚊屋野がやって来た。
「(ああ、丁度良いところに来てくれたな。子供は嫌いじゃないんだがな。一日中相手をしないといけないんじゃかなわないぜ)」
ケロ君は寝床から出てきて蚊屋野の足にまとわりついた。どこかへ避難させて欲しいという事なのだろう。
「ケロ君はオシッコがしたいみたいだな。散歩してくるからね。まだ外は薄暗いしキミ達は中で待っててね」
蚊屋野が子供達にそういうと、子供達は不満そうだったが大人しく言うことを聞いた。
「(オマエはオレを連れ出す時にそればっかりだな。オレがいつでも小便したがってるみたいじゃないか)」
外に出るとケロ君が言ったが、蚊屋野は幽かに微笑んだだけだった。
「(なんだオマエ。やけに早く起きたと思ったら寝ぼけてんのか?)」
「そうじゃないんだ。ボクは多分殺されるんだと思う」
「(ああ、そりゃ良かったな)」
「殺されるって言ってるのに、そんな反応なの?」
「(もっとビックリした方が良かったか?でもオレは自分に嘘はつけないからな)」
「まさか、キミも知ってたのか?!ボクが殺される事を」
「(なに言ってんだよ。驚かないのはそんな事が有り得ないからさ。オマエはいつでも悩んでるか悲しんでるかのどっちかだしな。それって、そういう人間がよくなる、なんとかって病気だぜ、きっと)」
ケロ君の言ってるのは多分心の病気の事だろうと蚊屋野は思った。その昔はノイローゼとか呼ばれていた病気だが、時代が進むにつれて色んな病気が発明されて、ケロ君の言ってるような症状がどういう病名なのか良く解らないが。
「じゃあ、これはボクの思い込みだってこと?」
蚊屋野が聞くとケロ君はガクッと頭を下げてうなだれたような仕草を見せた。
「(人間が犬にそんな事を聞くって変だと思わないのか?)」
「なんていうか。…人間はみんな信用できないから」
「(可哀想だな)」
「同情はしなくて良いよ」
「(なに言ってんだよ。オマエじゃなくて他のみんながだよ。こんなやつに大事な役目を任せるなんてな)」
「そうじゃないよ。ボクを選んだのはスフィアに人が近づいたら死ぬからだよ。だからどうでもイイ人間を選んだんだよ」
「(やっぱりオマエの事も可哀想になってきたな。オマエは何にも解ってないじゃないか。オマエをここに連れて来るのに花屋もマモルも命がけだったはずだぜ。それを考えたら普通はオマエみたいなことにはならないと思うけどな)」
ケロ君の言葉が蚊屋野の胸に刺さった。続けて蚊屋野は自分が犬に説教されているということに気付いて恥ずかしくなった。
 蚊屋野が黙り込んでしまったので、ケロ君は少し気まずくなってきた。それで辺りを歩き回って落ちているもののニオイを嗅いだり、オシッコをしてみたりしていた。それでも蚊屋野はまだ黙っているので、そろそろ声をかけるべきじゃないか?とケロ君が面倒な気分になっていたのだが、その時地下の研究所に続く階段を登ってきた人影があった。
「良かった。お散歩だったんだ」
階段を上ってきた花屋が蚊屋野とケロ君を見付けて駆け寄って来た。ケロ君は良いところに来てくれたと思ってチョロッと尻尾を振っていた。
 花屋はケロ君の横にしゃがんでケロ君の頭を撫で始めた。
「子供達がケロちゃん気に入ってたでしょ。だからいつでもみんなと遊べるように部屋の外にベッドを作ったんだけど。なんだかケロちゃんが逃げ出しちゃうような気がして。それで気になって見てみたらベッドにケロちゃんいないからビックリしたよ。でもお利口さんで良かった」
そう言いながら花屋はケロ君に抱きついて頬ずりをしそうな勢いだった。ケロ君はこういう時の犬らしく嬉しいような迷惑なような表情をしていたのだが。
「(なあ、見ろよ。これがこれから父親を見殺しにしようとしている人間の態度だと思うか?)」
ケロ君に言われて蚊屋野の目が潤んできた。嬉しいのか悲しいのか、彼がどういう感情によって目頭を熱くしているのか解らない。だが涙というのは感情が高ぶった時に出てくるものでもあるので、きっと分類不可能な良く解らない感情が高ぶったということだろう。
 涙が溢れ出てこないように蚊屋野は顔を少し上げてみたり、目を大きく開いたり、あるいは半分閉じたりして頑張っていたのだが花屋がそれに気付いてしまった。
「どうしたの?」
「なんでもない…」
蚊屋野がなんとか涙をこらえてそう答えたのだが、それは泣いてる人の声そのものという感じで、プルプル震えている声だった。これでは涙をこらえていた意味が無いと思った蚊屋野は、自分で自分の事がおかしくなってニヤニヤ笑い始めてしまった。
 花屋は気味が悪いと思っていたのか、怪訝な表情だったので蚊屋野はそれに気付いて笑うのをやめて真顔になった。
「大丈夫。もう大丈夫」
そう言いながら蚊屋野は彼が泣くほどにまでした未知の感情を理解したような気がした。これってもしかすると幸せってやつかもしれない。だとしたら、蚊屋野にとって未知の感情であってもおかしくはない。
 一方で花屋は何だか解らないままちょっと不安にもなっていたのだが、蚊屋野が大丈夫と言っているので大丈夫に違いないと思うしかなかった。

 やがて大人達も起きてきて大事な一日のための準備を始めた。昨日東京の中心に着いたばかりなのだが、休む間もなく次の行動に移らないといけなかった。蚊屋野達が東京にやって来た事はもう証明できたので議会の方で定められた期限は気にしなくても良くなったが、これまでこの世界が受けてきたダメージを考えると一日も無駄に出来ないということだった。
 慌ただしい感じで朝食をすませると一行はスフィアのある場所へと向かった。スフィアは各地に点在しているが、東京の中心部から一番近いものは多摩川をさかのぼっていった、以前の調布だった辺りにある。基本的に移動手段が徒歩のこの世界にもすでに慣れているので、早めに出発する理由も蚊屋野には解った。途中で灰が降ってくるのをやり過ごしたり、あるいは灰の心配のいらない地下道をユックリ進んだりしなければいけないのだ。
 三人と一匹だけで旅をしてきたこれまでと比べると、この移動は研究者と葉奈や賢人のような関係者、それに興味本位でついてきた研究者の知り合いなどもいて、かなりの大人数だった。それにくわえて、スフィアへの道は旅の途中で通ってきた荒野のような場所ではなくて、管理されているので安全面などで心配することは一つも無かった。
 そのおかげで蚊屋野は好きなだけボーッと考える事が出来た。これまでの経過からすると、関係者達全員が蚊屋野を騙しているとは考えられない。それでも何かが心に引っかかるのはあの夢のせいなのか。もしかすると何かを見落としているのかも知れない。あの夢はもしかすると潜在意識からの警告なのではないか?と蚊屋野は思い始めていた。
 あの夢に登場したのは二人の科学者とスフィア。気になる点は静岡にいるはずの能内教授が登場したという事。あとはスフィアが妙に明るかったということだろうか。そこから何が導き出されるのだろうか。潜在意識が訴えかけてきていたものとはなんだったのか。
 …全く解らない。仕方ないので今度は科学者に注目してみることにしよう。この世界での科学者は政治家的な役割も担っている。蚊屋野の考える政治家というのは「信用ならない人」の代表みたいなものなのだが。それは今の段階では気にしなくても良いのかも知れない。スフィアにの研究に関わっている科学者達は自分よりも世の中の利益を優先するタイプだと蚊屋野は思っている。
 だが、科学者のもう一つの側面というのもある。彼らは時に科学のために倫理を忘れる。もしかすると蚊屋野がSFに影響されすぎているのかも知れないが、実際にそういうことがないとも言えない。倫理は抜きにしても、一人の命を惜しんで大勢が死ぬ事になるよりは、一人を犠牲にするに違いない。
 そんな事を考えていると吐き気がするほどゾッとしてしまう。本当に大丈夫なのだろうか。あまり考えると不安で目眩がしてきそうになるので、蚊屋野はもっと安心できる事を考えようとした。あの夢の中に出てきたスフィアの明るさ。そうだ!あれは希望の光に違いない。…だが、人は死ぬと光の中を通って死者の国へ向かうとか。
 いや、ダメだ。もう夢の話は中止。現実世界の事を理屈で考えるのだ。科学的に。蚊屋野がスフィアに近づいて観測装置を置いてから無事に戻ってこられる科学的な理由。そう思って蚊屋野は考えてみた。そして、見付けた理由は花屋が蚊屋野の娘であるということだった。いくら科学者でも賢蔵博士が自分の孫を悲しませるようなことはしないはずだ。
 それが少しも科学的な理由でないことは蚊屋野にも解っていたが、もう面倒になってきたので、それで良いことにした。考えているだけでは結論の出ないことを考えているからいつもこんな事になるのだ。どんなに考えたところで、その時にならないと解らない事だって沢山あるのに。

 蚊屋野が無駄な思考に頭を使っているうちに彼らは大分スフィアに近づいて来た。気付けば旅の途中で見た時よりもスフィアが大きく見える位置まで来ている。キラキラと輝くガスタンクみたいだが、ガスタンクよりは数倍大きい。あとどのくらいで到着するのか、と思っていた蚊屋野だったが、実はもう目的地には着いていたのだった。つまり、ここから先は蚊屋野が一人で進むことになるということだ。
 最後の段階に移る前に、彼らは古いビルを改造したスフィアの観測施設という建物に入った。ここで準備を整えたら蚊屋野の任務開始ということになる。
 朝から何度かの休憩を取りながら歩いて来て、もうすぐ夕方という時間になっていた。冬の陽は早く沈むし、なるべく早く開始したいということだった。蚊屋野は準備と最終確認のために休む間もなく観測施設の最上階にある一室へ向かった。
 部屋に入った蚊屋野はいきなり重苦しい気分にならざるを得なかった。スフィアから反射する光のせいで部屋の中のものが黒い影にしか見えない。これは夢の中でみた光景とほとんど一緒なのだ。ここで夢の中で聞いたような話をされるのではないか?と蚊屋野はハラハラしていたが、賢蔵はこれまでと特に変わらない様子で準備を始めるように蚊屋野に指示をした。
 準備といっても蚊屋野がやることは、今着ている服を全部脱いで例のスーツに着替えるだけだったが。その間に賢蔵は観測装置に関する説明を始めた。これは前にも聞いているので、特に集中して聞く必要は無かったのだが、夢のことを考えるとそういうワケにもいかない。賢蔵が話の途中にボソッと重要な事を言ったりするかも知れない。説明書とか契約書の最後に小さい文字で書いてある但し書きみたいな感じで「但し命の保証はありません」とか言ったりするかも知れないのだ。
 賢蔵は蚊屋野があまりに真剣な表情なので、説明しながら「もっとリラックスするように」と蚊屋野に言った。そんなことを言っても蚊屋野の表情が和らぐはずはなかったが。
 結局、賢蔵は蚊屋野が心配しているようなことは言わなかった。話したのは観測装置のことだけ。その観測装置は大きめのビジネストランク程の大きさで、しかも持ちやすいように取っ手もついているので更にビジネストランクのような見た目だった。中には各種センサーと観測データを観測所に送るための通信装置が入っているということだが、それらは装置の外側に付いているボタンを一度押すだけで自動的に起動して観測を始めるので、特別な知識は必要なしということだった。重要なのはそれを置く位置で、スフィアの外壁にピッタリ付けてはダメで、五メートルほど離して置かなければいけないということだった。
「それで、戻る時にはどうすれば良いんですか?」
蚊屋野はたまらなくなって聞いてしまった。この質問にどんな意味があるのか理解出来なかったのか、あるいは別の理由があったのか、賢蔵は一瞬言葉を詰まらせたようにも見えた。
「それは、キミ。振り向いて歩いて戻ってくれば良いだけだが。まさかスフィアの壁に自分のサインなんて書こうとしているのか?それは良い事だとは思えないが」
ちょっとした冗談も付け加えた賢蔵の答えが返ってきた。やはり何もないのだろうか。しかし蚊屋野はまだ安心できない。あの夢にはきっと何かがある。

 準備を終えて観測施設の一階まで下りて来ると蚊屋野は一緒にやって来た大勢の関係者に迎えられた。前にこの白いスーツを着た時にも思ったのだが、これを着るとまるでSF映画の宇宙船の乗組員になった気分になれる。大勢の期待のこもった視線を浴びる中で蚊屋野は衣服が人に与える影響というのは少なからずあるものだと思っていた。ピッタリスーツを着て人々の前に立つと、これまでの不安がかなり小さくなったように思えた。
 もう蚊屋野は普通とは違う人間になっている。ここに集まっている人達に出来ないことをするために、これからスフィアへ向かうのだ。ここまで一緒に旅を続けてきた花屋と堂中の姿も見えた。二人は笑顔だった。ついでに花屋の足下にいるケロ君も笑っているように見える。それはきっと良い事に違いない。その笑顔はこの先に危険が無いことを物語っているのだ。蚊屋野は二人に笑顔を返した。
 賢蔵と一緒に観測所の出入り口のところまで来ると、誰かがスマートフォンで写真を撮った音が聞こえてきた。写真を撮っている人は先程から賢人に指示されてあちこちの写真を撮っていた。
「議会に報告するための写真を撮るんで、カメラの方を向いてもらって良いですか」
写真を撮っている人に言われて「なるほど」と思った蚊屋野は立ち止まってカメラのレンズに顔を向けた。そして撮影が終わったあとに髪に手を当てて、変な髪型になっていたのではないか?と気になっていた。
 しかし、もう撮り直しているヒマはない。賢蔵はドアのところで立ち止まって「早く来い」と言わんばかりに蚊屋野を見ていた。蚊屋野は歩き出す前にもう一度集まった人々の事を見た。全体的にザワザワしているのだが、なんとなく女子達の視線を感じるような気がする。英雄として女子達にキャーキャー言われる予兆なのか。でもボクには葉奈もいるし、まいったなあ、と蚊屋野はどうでも良い事に盛り上がっていた。
 だが英雄がそんな事ではいけない、と思った蚊屋野は気を取り直して姿勢を正し、意気揚々と外に出て行った。
「それじゃあ、頼んだよ」
外に出ると賢蔵がそう言って蚊屋野に観測装置を渡した。蚊屋野は頷いてそれを受け取った。ここに来るまでずっと考えていた「その時にならないと解らない事」は今のこの時点においてはかなり良い事という気がする。
 
 蚊屋野はスフィアに向かって歩き出した。
 夢で見たのと同じか、それ以上に眩しい。賢蔵もそうだったが、他の人々もこの光から目を守るためにサングラスをかけている人が多かった。蚊屋野もサングラスをしたかったが、賢蔵にサングラスの着用を勧められる事もなかったので、しなくても問題はないということだろう。眩しいが直視しなければ、このくらいの明るさは我慢できる。
 この場所が元々どんな場所だったのかは解らないが、今は歩くのに苦労するような瓦礫などはなかった。蚊屋野の知っている限りだと、この辺りは昔も広い土地が多かったはずだが、今歩いている場所の雰囲気はそういう感じではない。このスフィアを設置するために辺りの建物が綺麗に片付けられたような印象がある。
 地面は平らで歩くのは楽だったが、どうしてこの土地をそのように出来たのか?ということを考えると少し恐ろしくもなった。だいたい、どこからともなくスフィアのような巨大な物体が現れたというのも信じがたい話でもある。だが今はその事について考えても意味がないのは蚊屋野にも解っていた。今蚊屋野が運んでいるこの観測装置がそういう謎を解明してくれるはずだから。
 スフィアは近くにあるように見えたのだが、歩いてみるとなかなか近づけない。まだ先は1㎞ほどありそうだった。特に障害物も無い平らな場所を歩いていると、蚊屋野はどうしてもアレコレと考え始めてしまう。そうなってくると、やはり最初に考えるのはあの夢のことだった。
 夢の中で二人の科学者が言っていたこと。それはもう心配しなくても良いような気がしていた。どっちにしろここまで来たのだし、もう気にしても仕方がないことでもある。あの夢で他に印象的だったのはスフィアの発する光だった。
 今まさにその光を浴びているのだが。あの夢が警告だとしたら、それはいったい何なのか。光と影。光と科学者。そういえば夢の中では賢蔵はサングラスをしていなかったが。光とサングラス。
 そして蚊屋野はあることに気付いて赤面した。顔が熱くなって髪を掻きむしりたくなる気分だった。ふいにあの夢が蚊屋野自身に伝えようとしていた事が明らかになったのだ。
 今来ているこのスーツ。これは偏光レンズを通して見ると生地の下の体がスケスケになるということだった。それはつまり、どういうことかというと。蚊屋野がスーツをきて観測施設の一階に下りていった時の周囲のざわめき。アレはヒーローの登場にざわついていたのではなくて、サングラスのせいで蚊屋野が服を着ていないように見えたのでざわついていたに違いない。
 そうだ。そうに違いない。世界が崩壊を始めたあの頃、ドライブや屋外のレージャーに最適ということで偏光レンズのサングラスが注目されていたし、いろんなところで売られてもいた。今でも多くの人達が使っていてもおかしくない。
 あの女子達の眼差し。あれは憧れの眼差しではなくて、両手で顔を覆いながらも指の隙間からしっかりと覗いているような、そんな感じの眼差しだったようだ。監視施設から観衆が見守っていたのは裸同然の男だった。
 そんな事に気づいてしまった蚊屋野は立ち止まりそうになったのだが、今更どうにもならないので歩き続ける事にした。心を無にして。余計な事は考えずに任務を果たす。無事に観測装置を置いて戻ったら、その時は本当に英雄なのだ。裸を見られて恥ずかしいということぐらい、どうって事はなくなるのだ。
 結局最後まで惨めだったが、それもあと少しの辛抱だ。蚊屋野は一度顔を上げてスフィアの方を見た。眩しくてスフィアの本体は直視できないが、その向こうに見えるはずの空もスフィアに隠れて狭くなっている。もうかなり近づいて来たようだった。ビルにしたら何階ぐらいの高さだろうか?と考えてもみたが、すごく高いという事ぐらいしか解らない。
 蚊屋野はまた視線を地面に移して歩き始めたが、地面もスフィアからの光でギラギラしているので、スフィアの方を見た後だからといって暗く感じることはなかった。まるで四方八方から光が射しているかのような明るさで、方向感覚もおかしくなりそうだった。蚊屋野は道をそれないように着実に一歩ずつ歩いて行った。
 もうそろそろ観測装置を置く場所に近づいて来ているような気がして蚊屋野はもう一度スフィアの方を見上げた。目の前は光っていて真っ白だし、さらに上を見上げたが空も見えていない。ということはここはスフィアの真下なのだろうか。スフィアが球体なので、その下に入り込んでしまうと見上げても空は見えないはずだが。だがなんとなく変な気もする。
 ここで失敗したくないと思った蚊屋野はなるべく慎重に歩いていたのだし、まだスフィアの真下まで来るには早いとも思ったのだ。蚊屋野は手を日よけ代わりに顔の前にかざしてスフィアの位置を確認しようとした。だが真っ白なのでそこにスフィアがあるのかも良く解らない。
 それだけではない。光を遮るために顔の前にかざしている手は影を作るはずなのだが、今見ている自分の手も光を浴びて白っぽくなっている。蚊屋野は少し気味が悪いと思いながら辺りを見回した。辺り一面が光りだった。振り向いてもそこには自分の影も出来ていない。
 これがスフィアの不気味な輝きの原因なのか、と蚊屋野は思った。スフィアの中心部から光が発せられているのではなくて、この辺りの空気か、辺りに充満している微粒子のような目に見えないものが光を発しているのではないかとも思えた。
 蚊屋野はこの光の充満した空間に圧倒されそうになってしばらくボンヤリとしてしまった。しかしマズいことに気付いて慌てて振り返った。
 振り返ったところでどうにもならないのだが、蚊屋野がこの不思議な明るさはなんなのか?と辺りを見回している間にどの方向にスフィアがあるのか解らなくなってしまったのだ。とはいっても、完全に方向が解らなくなるほど何度もグルグル回ったワケではないので、スフィアのある大まかな方向は解る。しかし、間違って元の方向に進んでしまうと、蚊屋野の姿を確認した観測所の人達がまだ任務が済んでいないのに盛り上がってしまうことも考えられる。そういう中をまた引き返していくのはなんとも気まずいので、ここは確実にスフィアの方へ進めるようにもう少し確認が必要だ。
 蚊屋野は地面に顔が付きそうなくらいに這いつくばって自分の足跡を探した。地面も真っ白に見えたのだが、顔を近づけるとなんとなく土の色が解る。きめの細かい土が多かったので、自分の足跡も綺麗に残っていた。それを確認して蚊屋野は色々と安心した。
 自分の進もうとした方向は間違っていなかった。それに安心した理由はもう一つある。地面の様子が歩き始めた時と一緒だったので、自分のいる場所は真っ白ではあるが、まだここがまともな場所であるということが解ったからだった。実は蚊屋野はいつの間にか辺りの様子が変わっていたことをちょっと気にしていたのだった。ここが死後の世界へ続く道の途中なのでは?と、ちょっとそんな気がしていたのだった。
 安心したところで蚊屋野は最後の仕上げに取りかかる事にした。スフィアの外壁まではあと数十メートルといったところだろう。このまま周囲が真っ白で眩しい状態だと壁の存在にも気付かないかも知れないし、激突しないように少しゆっくり歩く事にした。ゆっくり歩いても二、三分もすればスフィアの外壁に辿り着くはずだった。
 歩いて行くと辺りも更に眩しくなったような気がした。元から全てが真っ白に見えるほど眩しいのだから、本当に気のせいかも知れないし、蚊屋野の気持ちの高ぶりが彼にそう思わせたのかも知れない。何が起きても今はただ前に進むしかない。
 賢蔵が言ったとおり、痛いことも苦しいこともない。周囲の様子は多少異常だが。蚊屋野は自分でも意外なほど落ち着いていた。これが終われば英雄になれるとか、そういう理由があるからなのか。あるいは人類の未来を賭けたこの任務に蚊屋野の隠された能力が発揮されているとか。
 ここでまた蚊屋野の思考が脇道にそれそうになったのだが、蚊屋野は慌てて目の前の事に集中しようと努めた。一歩一歩、着実に。自分にだって一分間ぐらいは集中出来るはずだ。
 そして、蚊屋野は一分間、目の前の事にだけ集中して歩いた。だがまだスフィアの外壁には辿り着かない。仕方ないので、もう一分間歩いた。まだ着かない。さらに、もう一分。
 もう蚊屋野の周りには白しか見えなくなっている。とっくにスフィアに辿り着いていてもおかしくないのに、どこまで行っても何もないような気がしてきた。一体スフィアとは何なのだ?
 蚊屋野は立ち止まってから辺りをグルッと見回してみた。白い光以外のものは何も見えない。あと一分歩こう。蚊屋野はまた歩き出した。あと一分歩いて何もなかったらそろそろ恐くなってきそうなのだが、そうするしか道はない気がした。何もせずに引き返して、みんなから白い目で見られる方がもっと恐いはずだし。
 また一分間ほど歩いたところで蚊屋野は立ち止まった。今度はなにも起きなかったワケではない。スフィアの壁には辿り着いていないが、前方に何かが見えたような気がしたのだ。
 真っ白い中でなにかが動いている。光の中で陽炎が揺らめいているだけにも思えたが、凝視しているとそれが次第にハッキリとした形になってきているのが解る。ということはそれは蚊屋野の方へ向かってきているという事にもなる。
 このままジッとしていても良いのだろうか?と蚊屋野は考えていた。だが頭の中のどこかにはこのままジッとしているべきだという考えもあった。どうしてそう考えるのかは良く解らないが、もしかすると恐怖と背中合わせの好奇心というやつかも知れない。
 蚊屋野はそのまま前方で動いているものを見つめていた。眩しくて頭が痛くなりそうだったが、そこから目を離すわけにはいかない。見ているとそれは次第に人のように見えてきた。そう見えているだけではなくて、実際に人のようである。
 ただ、その人影のようなものも周囲の光に包まれているので、うっすらと輪郭だけが見えているような状態だった。それでも近づいてくるにつれて、その輪郭もハッキリしてきた。
 それは確かに人間のようであった。しかし、蚊屋野にはそれが人間でない別の生き物であるような確信があった。人間よりも大きめの頭に人間よりも細長い手足と体。
 蚊屋野は本能的に逃げなければいけないと思っていた。しかし、なぜか体が動かない。それは決して恐怖のためではない。頭の中の理性の声が「恐れることはない」と蚊屋野に告げている。それ以外の全身の器官は必死で逃げようとしているのだが、なぜかこの理性の声には逆らうことが出来ないようになっているかのようだった。
 だったら悲鳴ぐらいは上げても良いだろうと思った蚊屋野が叫んでみようと思ったのだが、それさえも理性の力によってただの「あー…」という声になってしまった。頭と体が完全に別の働きをしている。これはなんとも気持ちが悪い。
 そんな状態のまま蚊屋野が動けないでいると、近づいて来た何かの姿が明らかになってきた。やっぱりそうだ。大きな顔に大きくて真っ黒い目が付いている。細く尖ったアゴに小さな口と鼻。その灰色の肌をした生き物は「宇宙人」と聞いて多くの人が思い浮かべるあの姿そのものだった。
 気がつけばその生き物は蚊屋野の目の前までやって来ていた。そうなっても蚊屋野の理性はこの生き物を恐がることを許さないようだった。だが頭以外が恐怖でこわばっているので、上手く声を出すことも出来ない。
「ああ、来ましたね。その機械はここに置いておけば良いでしょう」
生き物が言った。しかし、その口は動いていなかったように思えた。だが、その声の聞こえた感じからして、蚊屋野にはどうやって声が聞こえてきたのかが解った。それは蚊屋野が動物の声を聞く時と同じような聞こえ方だったのだ。
 生き物が手を差し出すと、蚊屋野は持っていた観測装置を渡した。そして、生き物はそれを光で真っ白になっている地面に置いてから装置に付いているスイッチを押した。
「行きましょう。ちょっとした問題が発生したのです」
どういうことか?と思いたかった蚊屋野だがそう思うことも出来ない。そして、もう逃げたりすることは諦めるしかないと思うと急に体が自由になった気がした。
「問題ってどういうことですか?」
蚊屋野はやっと声を出すことが出来た。この生き物を恐れる必要がないということを体が受け入れたらロックが解除されたような感じだった。
「それは眩しくないところで説明しましょう」
そう言うと生き物は元来た方へ向かって歩き出した。この生き物にとってもここは眩しいようだ。
 蚊屋野は仕方なく彼についていった。それを「彼」と呼んで良いのかは解らないが、頭の中に聞こえて来るのは男の声のようだった。
 光の中で彼を見失わないようにしながら歩いて行った。そしてしばらくすると彼が唐突に振り返って言った。
「ああ、そうそう。ようこそ、エコロージアへ!」
それは一体どういう事だ?
 もう頭の中まで真っ白になってきそうだった。

TO BE CONTINUED