Technologia
03.
蚊屋野は実験のための特殊なスーツに着替えさせられた。それまで着ていたものは一度全部脱がなくてはいけないという事だったが、他に誰もいなかったので彼はその場で着替えて、脱いだ服をさっきまで自分が寝ていたソファに置いた。ただ自分の部屋でもないのに、ソファの上に薄汚れた服と下着が置いてあるのは何となく違和感があったので、そのすぐ近くに置いてあった自分のバックパックに服を突っ込んだ。一応大学生なのでバックパックの中には筆入れとノートが入っているのだが、五回目の四年生になった今年はそれらを一度も使った事はなかった。
それよりも蚊屋野はバックパックを開けた時にハッとしてしまった。酔っ払うと存在を忘れがちになる携帯電話と財布はどこにあるのだろう?蚊屋野は一度バックパックにしまったズボンを取り出すとポケットの中を探ってみた。後ろのポケットに財布は見つかった。
だが、携帯電話はどこにあるのか?蚊屋野はこういう時に妙に腹が立つようなやるせないような気分になる。どうして電話をなくさないように四六時中気にしてないといけないのか。それは携帯電話をなくしたら、そこに記録されている様々な情報が誰かに知られてしまうかも知れないとか、或いはそういう事がないように急いで携帯電話の会社に連絡してなんとかしてもらうとか、そんな面倒な事があるからなのだが。携帯電話で便利になった事と、面倒になった事のどちらが大きいか?というと、ほとんどの人にとっては便利になったことの方が大きいのだが、蚊屋野にとってはその限りではなかった。
蚊屋野はバックパックの後ろに付いている小さなポケットの中に携帯電話を見つけて安心した。スマートフォンと呼ばれるものを皆が使うようになって、蚊屋野もそうしたのだがアレはどうにも大きくてズボンのポケットには入らないので、こうして探すのに余計な手間がかかる、と思っているところへ教授の声が聞こえてきた。
「おい、着替えはすんだのか?タイミングを間違えたらそれで終わりだからな。時間には余裕を持っておきたいんだが」
蚊屋野は服を詰め込んで膨らんだバックパックをソファの上に置くと教授の方へ近づいた。すると教授は自分の方へ手を差し出して人差し指を下に向けてグルグルと回した。これは多分後ろを向けという合図だろう。いきなりこんな事をされると大抵の人はムッとすると思うのだが、この時の蚊屋野はまだ昨晩の酒の影響が残っていたので、そういう合図に対して反射的に動いてしまう。
「よし。ちゃんと着られたようだな」
教授は彼の着た実験用のスーツをちゃんと着ているかどうが確かめたかったようだ。
蚊屋野の渡されたそのスーツというのは体全体をすっぽり包む上下が一体になったツナギみたいなものだった。体にピッタリしていて最初はきついと思ったのだが、すぐに慣れて今では何も着ていないような気さえする良くできたものだった。
そしてピッタリはしているが全身タイツのような恥ずかしいものではなくて、体の線がそのまま見えるようなものでもない。昔のSF映画に出てくる宇宙船の乗組員という感じもして、蚊屋野としてもこれを着ているのはそれほど悪い気分ではなかった。
「それじゃあ、中に入ってくれ。こっちの準備はほぼ終わっている」
そう言うと、教授は部屋の中で一番大きくて目立っていた機械の前に行ってその扉を開けた。蚊屋野が思ったとおり、その大きなドラム缶みたいな形の機械は人が入るためのものだったようだ。教授に促されると蚊屋野はまたしても反射的にその中へ入った。
中は人が一人ピッタリ収まるスペースがあった。なんとなく棺桶を連想しそうな感じはするが、周囲から自分に向かって設置されている筒状の装置が付いていたりするので、棺桶というのはちょっと違うかも知れない。ただ棺桶以上にそういった装置が不吉に思えない事もなかった。
中に入るとそれ以外の体勢にはなれない、という感じだったので蚊屋野もその装置の作りに従って扉の方に体の正面を向けて立った。頭の後ろには歯科医にあるあの治療用の椅子のヘッドレストのようなものがあるし、腕と脇の下の間には縦長の仕切りがあって、さらに両手の辺りには掴むのにちょうど良い取っ手がついている。全身を支えられている感じで、この装置の作りに従って立っていると安心感がある。
そう思っていると教授が彼のところにやってきた。装置の中を最終点検という感じで見回してから蚊屋野の目を見て頷くと、その装置の扉を閉めた。
扉を閉めても蚊屋野の顔の前には透明の窓があって外の様子は良く解る。蚊屋野はその窓から教授が作業をしている様子を見ながら言いしれぬ不安に襲われていた。どうしてそんなに不安なのかは彼のほとんど酔っ払いの頭脳では解らなかったが、彼の体が本能的に危機を感じ取っているのかも知れない。
蚊屋野はここで急に酔いが覚めたような気がした。そして思った。「これって何の実験だろう?」と。普通ならこんな状況に陥る前に気付くのだが。ただ今回は状況が悪すぎたようだ。
これまでずっとそうだったのだが、蚊屋野は自分が何か特別な存在だと思っていた。それは彼の思い込みかも知れないし、最近になって彼もそろそろ「違うかな?」と気付き始めていたのだったが。それでもそんな思いのために、どうでもイイ事にムキになっていつの間にか五回目の四年生になっていた。
そんなダメな生活の中でも特にダメなことが昨日起きて、そして気付いたらこの部屋にいたのだ。だが、これはもしかしたら運命なのかも知れない、と思うのは蚊屋野のような人間ならありがちである。ヤツらは-----このヤツらとは誰なのか?というと誰でもないのだが、彼と同じ年に入学した元同級生とか古くからの知り合いとか、今の彼の事を影で笑ったりバカにしている連中のことに違いないが-----何も解っていない。自分のような特別な人間を目の前にしてもそれに気付かないし、そればかりか自分を見下していい気になっている。
最悪の状況でこそ希望は生まれる。そんな気分だったのかも知れないが、蚊屋野は教授の話を聞いて、これがヤツらを見返す絶好のチャンスだと思ってしまったのだ。実験の中身を知らずにどうしてそんな事になるのかは解らないが、ボーッとしてたのだから仕方がない。大抵の間違いはボーッとしている時に起きるし、ボーッとしてない人はあまり間違いを犯さないものだ。
とにかく、言いしれぬ不安を感じた蚊屋野は一度この実験を中断すべきだと思った。取っ手を掴んでいた手を離して扉を開けようとしたが、それは施錠されているのか、開かなかった。
「ちょっと!あの…!これ何なんですか?」
自分でも何を言っているのか理解できない質問を覗き窓の向こうの教授にしたが、その声は聞こえていないようだった。
教授は蚊屋野に背を向けた状態でコンピュータの画面を熱心に見つめて、キーボードから何かを入力したりしていた。そこにあるのは普通のパソコンのようなコンピュータではなくて少し大がかりな装置だったが、その装置に取り付けられたいくつかのディスプレイは蚊屋野のいる場所からも見る事ができた。そして、その一つに表示されている文字を見て彼は絶望的な気分になった。
そこに表示されていたのは「物質転送装置」という文字だった。その文字と今彼が入っている筒状の装置。そして、何かに取り付かれたようにキーボードを叩いている教授。どう考えても良い事が起きるとは思えない。
「ちょっと!中止!…中止!これ!」
蚊屋野は慌てて喚いたが、その時に彼の脈拍数が急激に増加したようで、その変化が教授の見ている画面にも表示されたようだった。恐らくこの装置には中に居る人間の状態をモニタするそういうセンサーが付いているのだろう。
「おい、どうしたんだ?落ち着くんだ。出来るだけリラックスしていてもらわないと、正確なデータがとれないんだよ」
教授の声が装置の中にあるであろうスピーカーから聞こえて来た。ということはこちらの声もマイクを通じて聞こえるのだろうか?
「そうじゃなくて、この実験は中止です!絶対に成功しませんよ!」
そう言ったが、こちらの声は教授には聞こえないようだった。何てことだ。今は21世紀だし、彼自身も自分が子供の頃には考えられなかったような技術の進歩を見てきたのだが、それとこれとは話が別である。今はまだ宙に浮いて走る自動車も開発されてないのだ。そんな状況で物質転送などあり得ない。ましてや人体を転送するなんて。
「落ち着くんだ。キミが慌てれば慌てるほど成功しづらくなる。深呼吸するんだ。実験開始まであと30秒!」
あと30秒?!蚊屋野は何となくもうダメだ、という気分になってきた。彼の気分が落ち込んでいくのに反して彼の入っている装置の周囲から出ている機械の音が次第に大きく高くなっていくのが解った。実験開始のカウントダウンが始まって色々な機械が出力を上げ始めているに違いない。
もうダメなのか?と蚊屋野が思った時だった。周囲でしていた音が急激に小さくなっていくような感じがした。それだけではなくて、覗き窓の外にいる教授が何かを言いながら髪の毛を掻きむしっている。これはトラブルに違いない。トラブルということはこの実験は中止せざるを得ない。そうに違いない。
蚊屋野は九死に一生を得たという感じで胸をなで下ろす準備をしていたのだが、その時にブーンという音とともにまた装置の上げる音が高まっていった。そして、教授も両手を挙げて喜んでいる様子だった。一体なにが起きたのだろうか?
そう思った瞬間だった。彼の目の前が真っ白になって、バーンって音がしたのか、或いはそれは目の前の出来事の印象に合わせた効果音が頭の中でしただけなのか解らないが、とにかく何かの衝撃が蚊屋野を襲ってそこでこの研究室での記憶は最後という事になったのだ。