Technólogia Vol. 1 - Pt. 4

Technologia

05.

 まるで水の底にいるような、或いはヒドすぎて逆に辛くない時の二日酔いみたいな気分だった。もう少し解りやすく言うと、風邪で高熱を出して寝込んだ後にようやく熱が下がった時のような気分という事だが。
 実験を始めた時にも前の晩の酒のせいで意識が朦朧としていたのだが、その影響だろうか?ただ今はあの時と比べものにならないぐらいに体が重たく感じる。
 上体を起こすとそれまで体の中で固まっていた体液が溶けて全身に流れていくような感じだった。さっきは横になったまま結構な勢いで扉を叩いたりしたのだが、そういうことよりも体を起こすという動作は大変な事なのだろうか。そんな気もしたが、さっきはパニックだったし、自分でも自分がどんな状況だったのかは良く覚えていない。でも手足だけを動かすよりも、人間の重要な部分がある胴体や頭が動くと体は目覚めるための準備を始めるのかも知れない。
 起き上がって全身に血が流れていくような感覚を味わいながら、蚊屋野はサナギから成虫になった昆虫の気分を想像していた。アレは彼の知っている数少ない生命の神秘のうちの一つでもある。昆虫の変態にはどんな意味があって、どうしてあんな面倒なことをして全く違う形に生まれ変わるのか。蚊屋野にはその辺の理由はどうでも良かったが、あの劇的な変化に比べたら人間の成長には大した感動はないとも彼は思っていた。
 起き上がった時の体の反応のせいでどうでもイイ事を考えてしまったが、蚊屋野はある意味で生まれ変わったような感覚を覚えながら辺りを見回していた。
 しかし、これまで考えていた生命の神秘とか、そんなものは全てどこかへ消えていた。生まれ変わったのは自分ではない。蚊屋野は周りを見回しながらそんな事を考えていた。あの機械の中で寝ている間に世界は全く違うものに姿を変えてしまったのだろうか?
 蚊屋野は辺り一面の瓦礫を見つめながらそう思っていた。ここがどこなのか解らないが、蚊屋野がさっきまで入っていた円筒形の装置が置かれていた建物は恐らく崩壊してしまったのだろう。それで装置が外にあって倒れていて、辺りは瓦礫の山となっているに違いない。
 だがそれだけではない。ここが大学か何かの研究施設だとしたら周囲にも街のようなものがあったはずだが、あたり一面が荒野である。そして、そのいたるところに今彼が立っている場所のような瓦礫の山を見る事ができる。なんだかテレビで見た空爆された街のようである。
 寝ている間に何が起きたのか。この光景から考えられることは巨大地震か?しかし、それは違う。ここにある瓦礫は長い間放置されていたようで、砂埃をかぶっている。そこに気付いた蚊屋野は振り返ってさっきまで自分の入っていた装置を見たのだが、それも同様に砂埃をかぶっていた。
 ということは巨大な嵐かなにかだろうか?とも蚊屋野は思ったのだが、考えたところで結論は出るワケでもなかった。ここにいても何も解らないのだし、とにかく何かを探すしかない。一体何を探せば良いのかは解らないが、動き回っていれば誰かに出会えるかも知れないし。そうすれば大体の謎は解明するだろう。
 自分の体に何が起きたのかも解らなかったが、蚊屋野は一歩踏み出すたびにフラついて、倒れないようにバランスをとるために両手を広げなければいけなかった。そんな状態で瓦礫の中を歩くのは困難だったが、二日酔いの時とは違って無理して歩いても吐き気を催すとか、そんな事が無いのが彼にとっては良い事に違いなかった。
 それは同時に彼がすでに実験前の二日酔い状態からは回復しているという事を意味しているのだが。だとすると、今の彼がフラフラしている状態はあの実験のせいなのだろう。こんな状態はそのうち治るのものなのか解らないのだが、もしも治らないとしたら、あの教授にはどうやって仕返しをすべきか。やっぱり、そんな事を考えないと歩くための活力が生まれてこないようなそんな状況でもあった。
 いずれにしても歩かないと何も起きそうにない。歩いても、この瓦礫だらけの荒野では何も起きないかも知れないのだが。とにかく今視界の中にある荒野以外の何かが見える場所まで歩いて行かないといけない。蚊屋野はそう思いながら、なかなか動かない重たい足を前に進めていった。
 蚊屋野がゆっくりと歩いていると次第に体の血の巡りが良くなっていって、体が軽くなるような気がしてきた。これで蚊屋野は少し安心できた。これまで生きている間にやって来たのと同じように、体を動かして体がほぐれてくるように感じるということは、今のところ彼は健康体ということに違いないのだから。
 彼は調子に乗って飛び跳ねたりしようかとも思ったのだが、そういう余計な事をして失敗するのにはもうウンザリでもあった。もっと堅実に生きないとダメなんだ。こんな事を思うようになったのはいつからなのか?もしかすると、さっきからかも知れないが、意味のない事をして失敗するというのは人生において何よりも避けなければいけない事に違いない。
 ただ、その失敗の結果が今の彼の状態であるということに蚊屋野が気付いているのかは謎だが。ゆっくり歩いて、体も元の平衡感覚を取り戻してきたのか、蚊屋野はやっと普通に歩けるような状態に戻ってきた。そうなってくると辺りの様子もハッキリと把握する事が出来る。辺りは相変わらず彼がこれまでに見た事もないような荒野と廃墟と瓦礫といった感じだ。
「いったい何なんだ?」
蚊屋野は立ち止まって、元は建物の外壁だったであろう場所に背をもたせて一休みすることにした。
 辺りを見回すと、さっき彼が目覚めた場所からはそれほど歩いていないようだった。フラフラしながら歩いたのだからそれは仕方ないだろう。しかし、これからどこへ向かえば良いのだろうか?蚊屋野は別の場所を眺めながら思っていた。
 少し歩けば何か違った光景が見えてくるとも思っていたのだが、少し歩いたぐらいでは見えるものは荒野と瓦礫と廃墟ばかりなのだ。そして、この光景から蚊屋野が連想するものはなにか?それは最終戦争後の世界。恐怖と暴力に支配された核の炎に包まれた後の世界。
 まさか、そんな事はないだろうな?と思った蚊屋野だったが、その時あまりにも良いタイミングで崩れた壁の向こうから人が現れて、蚊屋野は心臓が止まるほど驚いていた。
 いや。もしかすると本当に心臓が止まってくれていた方が楽だったんじゃないか、と思えるぐらい本格的に驚いた後というのは心臓の鼓動が激しくて息が苦しいし、最悪な感じではある。それよりも、そんな事を考えている場合ではない。
 一瞬の間に色んな事を考えてしまった蚊屋野だったが、今は目の前に現れた誰かに注意を向けていた。そして、かなり「ヤバい」と思っていた。
 蚊屋野の目の前に現れたその男は、彼が目覚める前にいた場所では決して見かけないような格好をしていた。普通の綿か何かの服の上に革製品をつなぎ合わせたようなものを着けてアメフトの防具のようにしている。ついでに言うと、スネとヒザのところには野球のキャッチャーのような防具を着けている。片方のヒザのところにあるのは恐らく、小型のフライパンであろう。
 それだけだったら変なヤツが来た、ということで済むのだが、ヤバいと思ったのはそれ以外の事があったからだ。蚊屋野の前に現れた男はその格好でさらにその手には槍のような武器を持って、それを蚊屋野の方に突きつけていたのだった。
「ィアネァウクッァワイアギック ウボジアッド」
さらにヤバい事になったようだ。男が何かを喋っているのだが、何の言葉かさっぱりなのである。
「あ、アーユー…あ、ドゥーユー、あー…イングリッシュ?」
これは現れた男ではなくて蚊屋野の言葉である。槍を向けられているので、何となく両手を挙げていた蚊屋野だったが、自分で言った言葉に自分で落胆していた。「英語が話せるか?」と英語で聞きたかっただけなのに。そんな簡単なフレーズも出てこない。中学から高校、そして彼の場合は大学でも(しかも4年以上!)英語を勉強していた時間は積み重ねるとどれくらいになるのだろうか?それは途方もない時間になっているに違いないが、さっきのほとんど意味をなさないフレーズによって全てが無駄であったと思い知らされてしまったのだ。英語なんて勉強しないで他の事に時間を使えば何かを成し遂げられたんじゃないか?とか、そんな気もしたが今はそんな事を考えている場合ではないのだ。
 目の前の男は蚊屋野の英語になっていない英語を聞いてポカンとしている様子だった。男はアジア人の顔だし、アジアの中でも日本人に近い顔をしている。
「ニーハオ!シエシエ。サイチェン!」
なぜか英語の時よりもちゃんと声が出ている気がするが、知っている中国語を並べてみた。目の前の男はまだ何だか解っていないようだが、唸ってるだけみたいな変な英語を聞いた時よりは何かが伝わった感じがする。
 そう思って安心しかけた時だった。今度は彼の後ろから声がして、彼はビクッと肩をすくめた。
「何してるんだ。何かあったら合図をする決まりだろう?」
後ろでそう言う声を聞いて蚊屋野が「えっ?」って思っているとさっき変な言葉を喋った前の男が返事をした。
「いや、そうなんだが。まさかホントにいるとは思ってなかったからな」
日本人なのかよ!と思って少し腹が立ったのだが、彼らの持っている槍の事を思い出して一度落ち着く事にした。
「あの、何ですか?これ」
蚊屋野としては少し落ち着きすぎた感じもしたのだが、それこそが彼の聞きたかった率直な質問だったに違いない。彼がそう質問すると後ろにいた男も彼の前に回り込んできた。もう一人の男も同じようにガラクタで作ったような防具を着けて、槍を持っていた。
「今日本語を話したか?」
もう一人の男は蚊屋野の方を見て言っていたが、彼が質問した相手は隣にいる男のようだった。
「そのようだな。ということは別の誰かじゃないか?」
「いや。それはおかしい。今日ここにこの時間に現れるのは一人だけだ。予言も予言者も、いつも大体あってるだろ」
「あってるのは天気の予言ぐらいだ。だが間違いだとしたらどうするかな?」
「どっちにしろ知らない人間がいるのは問題だからな。捕まえて閉じ込めておくか、何かしないと。でもこの服装は予言者の言っていたとおりだがな」
「ああ。だが言葉が違う」
「ああ。そうだがな。でも右からとか左からとか、そんな話によると日本語を話す事もあるって聞いたぞ」
「ああ。それもそうだ」
蚊屋野は目の前で交わされる会話を聞きながらやっぱり腹が立ってきた。自分が質問したのに二人とも何も答えないし、しかも二人が話しているのは自分のことに違いないのだ。こういうのはいじめっ子が思い付きそうな嫌がらせだし、彼はそういうのが嫌いだった。
「あの、どうでもイイですけど。日本語がわかるならボクの質問に答えてくれませんかね?」
蚊屋野がワザと大きめの声で言うと前の二人はビックリして蚊屋野の方へ注意を向けた。二人にとって蚊屋野はそれまで全く別の世界にいるような感じだったのだが、今やっとそこに存在する人として認識されたようなそんな感じがした。
「やっぱり日本語だ」
「日本語を話したらダメなんですか?」
「いや、そんな事はないんだが…。何て言うか、期待はずれだったんだよ」
「そうなんだな。今日この時のために我々はアンタが話すといわれていた言葉を一生懸命覚えてきたんだよ。だが、普通に日本語を話すし、我々が勉強した言葉は全く理解してないようだしな」
蚊屋野には何のことだかさっぱり解らなかったが、このちょっとした会話で、この二人は槍を持っているがそれほど危険な人物ではないような気がして、さっきまで挙げていた両手を下ろして少しリラックスしていた。
「それで、予言とかそういうのはどういう事?」
「まあ、なんていうかな。予言どおりにこの場所に人が現れたんだが、話す言葉は違っていた。だから我々も困っているんだがね。どっちにしろ一緒に来てもらわないといけないんだがね。ところで、アンタ名前は?」
自分のことをアンタと呼ぶのに少し抵抗はあるのだが、この人はそういう感じの人なのだろう。しかし、これまでのやりとりから考えると蚊屋野の頭の中は謎だらけになってくる。質問したい事は沢山あるのだが、予言とかいう事を言っているこの二人に何かを聞いてもちゃんとした答えが返ってくるのか怪しいところでもある。とりあえず名前を聞かれたのだし、それに答える事にした。
「カヤノだけど」
「おぉ…!」
二人が同時に静かに感嘆の声をあげた。
「じゃあ、下の名前は?」
「ソトだけど」
「おぉ!」
さっきよりも大きめの感嘆の声だった。