Technólogia Vol. 1 - Pt. 7

Technologia

08.

 何でいつもスマートな感じに物事が進まないのだろう?そんなことで頭を一杯にしたまま蚊屋野は例の荒野を歩き出していた。あの地下の施設から思っていたよりも簡単に出られただけでなく、出る時には中にいた男が扉を開けてくれたり思いも寄らず親切だった。そこでも蚊屋野は調子を狂わせていたが、それよりも決定的な出来事があった。
 蚊屋野は今、実験のために着ていたツナギのスーツからバックパックに入っていた自分の服に着替えて少し懐かしい気分になっている。自分の家に戻るのにあの格好はおかしいので、着替えるのは当然かも知れないのだが、着替える時に教授から聞かされた話に腹立たしいような悲しいような、そんな気分にさせられていたのだ。
 教授によると、あのスーツはある特殊なレンズを通して見るとスーツの向こうが透けて何も着ていないように見えるそうだ。その特殊なレンズというのはアウトドア用のサングラスなんかにも使われている偏光レンズというやつで、特殊と言っても手に入れるのは簡単なものである。
 それを聞いてさっき花屋(カヤ)が自分を見た瞬間に目をそらして後ろを向いた理由が解ったのである。蚊屋野は男なので自分の裸を見られるぐらいなら何とも思わないのだが、その後の花屋の目つきや態度の理由がそこにあったのだと思うと何とも言えない気分になる。
 男というのは、自分に関わる女性にはどんな場合でも自分に対して特別な何かを感じていて欲しいとか、そんなことを思ったりするものである。もちろん蚊屋野のような平均的な見た目の男には、そんなことが起こるのはほぼないのだが。ただ、蚊屋野はあの時の花屋のそれがそうに違いないと思い込んでいたので、そこに恥ずかしいのか悔しいのか良く解らないものを感じていたのである。
 そんな時には「どうせ女なんて誰でも一緒なんだ」と考えて自分ではなくて、他人のせいにする蚊屋野であったが。とにかく色んな納得の行かない状況の中で冷静に科学的に考えるとかいう話はすっかり忘れて、どうでもいいことにイライラしながら歩いていた蚊屋野だったのだが、ふと我に返って立ち止まった。
 辺りはまだ一面の荒野である。あの地下から出てきて何も考えずに足の向く方向へ歩いてきてしまったのだが、自分はどこに向かっているのか?その前に、ここはどこなのだろうか?
 人間の方向感覚、あるいは帰巣本能というのがどんなものなのかは解らないが、これまでの経験からして、知らない場所から地図も見ないで帰ることが出来る事もあれば、地図なしでは無理なこともあった。それは持って生まれた能力というよりは、勘が冴えていたかどうかという事に違いない。運が良ければ今進んでいる方向は家の方角だし、そうでなければどこまで行っても家には着かないだろう。今のところはどこか大きな道か知ってる街に出られれば良いのだが。それでも闇雲に歩いているだけでは時間の無駄である。
 こういう時のために人間は本能を退化させる代わりに文明を発達させたのだ。蚊屋野はバックパックの後ろに付いているポケットからスマホを取り出した。実のところ、これまでこのスマホが便利だと思ったことはほとんどなかったのだが、持っていればいつか役に立つ時が来るものである。そう思いながら蚊屋野はスマホに現在地の地図を表示させた。
 最初は蚊屋野が最後に地図アプリを開いた自宅の周辺の地図が表示されたが、しばらくするとスマホが自動的に現在地を取得して地図がその場所を表示した。その結果によると、今彼のいる場所は静岡県。
「ハェァ?!」
思わず出てきた変なオドロキの声が妙に大きかったので自分で驚いたりした蚊屋野だったが。これはどういうことなのか?ここから東京の自分の家にどうやって帰れば良いのか?という感じだが、とにかくここは静岡県。
 しかし、冷静に考えればこの広大な施設というか、作られた荒野みたいな場所を土地の少ない東京に作るのは無理がある。といっても静岡でも結構な資金が必要に違いないのだが。それよりもなんとかして帰らないといけない。幸いにも地図に表示されている現在地は神奈川県に近い静岡である。とりあえず海の方へ向かえば街に着きそうだし、警察に事情を話せばなんとかなるに違いない。とにかく、この一面の荒野みたいな場所からは早く抜けだして、普通の人間のいる場所に辿り着かないといけない。
 蚊屋野は歩きながら地図を見て自分がどの方角を向いているのかを確認した。歩きながらだとスマホが自分の動きを感知して向かっている方向をより正確に示してくれる。そうしながら海の方角を確認すると、瓦礫が散らばっている間をその方角へと歩いて行った。
 そうしている間にも、おかしな事には色々と気づいていた。しかし蚊屋野は冷静なのか慌てているのかわからない感じで、ただ黙々と地図の示す海の方向へと歩いて行った。

 大丈夫。大丈夫に違いない。自分が今手に持っているのは科学の結晶。このスマホがそうだと言っているのだから間違っているワケはないのだ。しかし、もうこれ以上は無理だと思って蚊屋野は一度立ち止まった。あの施設を出てからもう 10km 近くは歩いたはずである。しかもスマホの地図上ではいつくかの街を通り過ぎたはずだった。しかし、そんなものは一つも見なかったし、あたりは相変わらずの廃墟と荒野だけなのである。何もない荒野をそこにあるはずの道や建物を無視してまっすぐに突っ切ってきたのだ。
 これは一体どういうことなのか?これまでの蚊屋野の考えが正しいとすると、あの教授を預言者と呼んでいるカルト教団は相当広い土地を手にしてそこのこの廃墟と荒野を作り出したという事になる。しかし、いくらなんでもそれは無理な話だ。ここまで歩いてきて見てきた感じからすると、この荒野は街一つというレベルではない大きさに違いない。そんな規模で架空の荒野を作り出すことが出来るだろうか?
 怪しい団体に騙されないように科学的になろうと思っていた蚊屋野だったが、逆に科学的に考えるとこの荒野は本物であるような感じがする。しかし、科学的に…いや、常識で考えて、そんなことは有り得ない。蚊屋野は自信がなくなってきて「科学的」という言葉を使うのをやめた。それはともかく、あの実験の前日もちゃんとニュースは見たし、ネットのニュースにも一通り目を通したのだが、静岡県が廃墟になったなんて話はどこにも出てこなかった。
 ということはつまり…。
 だが、あの教授の言うことだけは信じられない。あの日から20年経っているとか。どうして自分だけが元のままで20年が経過するのか?というところからして怪しい話だし。それに、20年経ったらどうして静岡県が廃墟になるのかも解らない。
 そう思った蚊屋野だったが、この場所から見える光景を見てさらに進む気力もなくなっている。向かう先は完全な平地ではないので、遠くまでは見渡せないのだが、見える範囲に街とかそういう彼が見慣れているものは見えていないのだ。
 あの地下の施設を出たのはまだ朝だったが、今はもう午後になっている。このまま歩いても日が暮れるまでにどこかにたどり着けるのかは解らない。蚊屋野は近くに腰を下ろすのにちょうど良い瓦礫の山を見つけてそこに座った。今はまだ暖かいが、夜になったら今の服装では凍えるかも知れない。空は良く晴れていて、広大で青い。それはつまり、夜は寒そうだということなのだが。早く動き出すべきだが、今はまだそんな気分にはなれない。

 蚊屋野が腰を下ろすと体中の力が抜けていくような気がした。思えばあの実験装置を出てからほとんど立ったままだった。それに気付かない程の緊張感のなかで過ごしてきたのだが、座って一息ついた事によって自分がどれだけ疲れているのかに気づいた。この場合はまだ緊張していた方が良かったのかも知れないが、あらゆる事にタイミングの悪い蚊屋野なのでそこは仕方がない。
 腰をおろして我に返ると、辺りの静けさに不安になった。このどこだか解らないような場所でただ一人。これまで一人でいることに心細さを感じたことはなかったのだが、それは本当に一人ではなかったからなのかも知れない。
 もしも、どこまでいってもこの荒野が続くとしたら。自分はどうやって生きていくのか?そんなことは考えただけで途方に暮れてしまう。孤独とはこういうことなのか。蚊屋野の全身からはますます力が抜けていく。孤独で惨めで弱い。
 一休みと思って座ったりしなければこんな気分にはならなかったのだが、今ではもう立ち上がる元気もなくなっている。そして、嫌なことだけは良いタイミングで起きる。
 蚊屋野がうつむいた姿勢で目の前の何もない地面をぼんやり眺めていると、そこへ何かがフワフワと舞い落ちてきた。白くて軽いもののようだったが、それは地面に落ちるとすぐに見えなくなった。
 もしかして、雪が降ってきたのだろうか?
 こんな状況にタイミングが良すぎると思って、空に向かって恨めしい目を向けようとした蚊屋野だったが、空は相変わらず青い。夕暮れが近づいて多少暗くはなっているが、雲はどこにも見えない。しかし、さっき落ちてきたような白い物体があたり一面に落ちてくる様子はまるで粉雪が降っているようだ。
 なんだか解らないものが降ってきたが、蚊屋野はこの最悪の状況にダメ押しみたいな雪ではないというのがちょっとした救いでもあった。それよりも、この降ってくる謎の物体が何なのかを気にするべきなのだが、絶望の淵に近づきつつあった蚊屋野だったので、その辺の反応は少し遅れたようだ。
 蚊屋野は自分の腕に落ちてきたその白い雪のようなものを指先でつまんでみた。しかし、彼の手が触れるとそれはバラバラ崩れて、宙を舞いながら細かいチリになって消えてしまった。一体何なのだろうか?蚊屋野はまた別のところに落ちてきたもので同じことをしてみたが、結果も同じだった。
 もう一度空を見上げると、それはまださっきと同じように降り続いていた。しかし、地面には降っただけの量が積もっている様子もない。蒸発して気体になるようなものなのだろうか?蚊屋野はもう一度物体の正体を確かめようと、今度は腕に落ちてきたその物体を触らずに、腕ごと目の前に持ってきて観察してみた。じっと目を凝らして見ていても何も起こらない。するとその時だった。
「蚊屋野さん!」
背後から突然自分の名前を呼ばれて驚いた拍子に、鼻息でその物体を吹き飛ばしてしまった。そんなことにかまっている間もなく、蚊屋野はギョッとして振り返った。今まで周囲には何の気配も無かったし、近くに人がいるなんて少しも思っていなかったのだから慌てるのも仕方がない。
「蚊屋野さん。その灰は危険です」
そう言っているのは中野花屋だった。例のつば広の帽子とゴーグルを着けているが彼女であることはすぐに解った。そして、ゴーグルを見た蚊屋野はハッとして両肩をすぼめて体を隠そうとしてしまったのだが、今は透けない服を着ているのを思い出して、不自然な体勢のまま立ち上がった。
 色んな意味で慌てふためいている蚊屋野であったが、花屋の方も今はかなり慌てているようだった。立ち上がった蚊屋野の方へ駆け寄ってくると、持っていたタオルを蚊屋野に渡してから彼の手を引っ張って、元来た方へと向かおうとした。
「それで鼻と口を隠して。この灰を吸い込まないようにしてください」
蚊屋野はそう言われるがままにタオルで顔を覆ったが、ふと思い直して立ち止まった。これも蚊屋野を騙すための演出のうちだとしたら?と思ったのだ。
「ちょっと待ってよ。これは一体どういうことなの?納得のいく説明がない限りボクは…」
「死にたくなかったら早く隠れて!」
死ぬって、どういうことだ?と思った蚊屋野だったが、花屋の様子を見ていると説明をしているヒマもなさそうだったのでとりあえず彼女の後についていくことにした。
 花屋は瓦礫の高く積み上がった場所へ走って行くと、そこにあった板を持ち上げた。その下にはあの地下の居住地みたいな入り口があるようだった。
「早く中へ!」
ほとんど怒鳴るような声で花屋が言うので、蚊屋野はためらう間もなく中へと入った。そのすぐ後に花屋も中に入って頭の上の板で作られた扉を閉めた。
 またこんな感じだ…、と蚊屋野は心のなかでつぶやいていた。