Technólogia Vol. 1 - Pt. 15

Technologia

16. 灰の休憩所

 これは悲惨なことに違いない。
 蚊屋野は歩きながらそう思った。東京までの旅はあと何日かかるのか解らないが、その最初の夜の失敗で二日目から最悪の雰囲気である。前を歩いている花屋と堂中は怒っているに違いない。少なくとも寝不足のために機嫌が悪い事は間違いない。ほとんど喋らない二人と一緒に歩いているのは、ある意味では一人でいるよりも孤独を感じる。
 何か気の利いた事でも言って少しでも場を和ませたいのだが、この状態で何を言えば良いのか。或いは思い切って二人に謝ったりした方が良いのだろうか?しかし、自分のした事はそうやって大げさに謝らないといけないほどの失敗だとも思えない。
 こうなった原因はあの時に聞こえて来た謎の声のせいでもあるのだが。幻聴が聞こえるという事がこんな感じだとは知らなかった。蚊屋野の想像していた幻聴というのは、物音が人の声に聞こえてしまうといった聞き間違え程度のものだったのだが、そうではなくてアレはハッキリとした言葉として聞こえて来た。しかも何となく自分のやっていることに反感を持っていそうな事を言っていた。
 蚊屋野は平常心を保っているつもりだったのだが、ここまでの受け入れがたい真実のために、ついにおかしくなってしまったのかと思っていた。そんなふうに考えるとさらに不安になって、さらに症状が悪化するのではないか?と思って、さらに不安になって…。こんな感じはどうやって耐えたら良いのだろうか?と、またさらに不安になる。
 花屋と堂中にこの症状の事について相談してみたい気もするのだが、自分でもこんなふうだとは思ってもいなかった幻聴なので、二人にも解ってもらえないに違いない。幻聴が聞こえると言ったところで、それは学校のテストの時に良くいる「全然勉強してない」って何度も言う人とか「徹夜して全然寝てない」って言ってばかりの面倒な人みたいに扱われそうだ。何でも良いからかまって欲しいだけの人。機嫌の悪い二人にそんなふうに思われたら状況は悪化するばかりだ。
 これはどう考えても悲惨な事に違いない。
 しかしふと気がつくと、あの幻聴は朝出発する時に聞いて以来聞こえていないのだ。これはもしかすると良い兆候かも知れない。こうやって頭の中で色んな事をダラダラと考えているから、変な声を聞く余裕がないという事なのだろうか。とにかく、少しでも状況を良くするために考えなくてはいけない事は沢山あるのだ。頭の中の変な声を気にしているヒマは無い。
「少し休みましょう」
考え込んでいた蚊屋野はこの声に驚いたが、それは花屋の声だった。ずっと黙って歩いて来たので、その声も多少喉に詰まった感じだったが、今のは花屋の声で間違いない。しかし、ここで休憩とはどういう事だろうか?
「もう休憩?まだ昼には早いけど…」
そう言ってから蚊屋野はマズいと思った。もしかすると昨日の夜のあの騒動で眠れなくて疲れているのかも知れない。もしそうだとしたら、さらに二人に嫌われることになる。
「ここを過ぎたらしばらく隠れる場所がないっすから。予報だともうすぐ灰が降ってくるんすよ」
灰というのは、あの人体に悪影響のある恐ろしい灰のことだろう。こういう事があると、ここは元の世界ではないということを思い知らされる。そういう事なら屋根のある場所で休憩ということなのだが、気になる事もあったりする。
「予報って?」
「これっすよ」
蚊屋野が聞くと堂中が彼の持っているスマートフォンを蚊屋野に見せた。それで電話が出来るのか解らないので、スマートフォンと呼んで良いのか解らないし、言ってみれば小型コンピュータだが。蚊屋野が画面を覗くとそこには天気予報っぽい画面が表示されている。レーダーで観測した雲の動きを表示するみたいな、そういう感じで地図にデータが重ねて表示してある。
「これって、どういうこと?」
色々と謎に思った蚊屋野が聞いた。
「風向きとか湿度とかである程度は灰の降る場所を特定できるんすよ。観測を続けた結果、どういう条件が揃うと灰が降るのかは大体解るんす」
「そうかも知れないけど。それって誰が配信してるの?」
蚊屋野の頭の中には、20年前に有名だったいくつかの天気予報サービスを運営している会社が思い浮かんでいる。しかし、そんな会社はこの瓦礫だらけの世界にはありそうもない。
「誰、って。研究者達っすけど」
堂中はどうしてそんな事を聞くのか?と不思議そうにしている。確かに、この世界ではそれ以外に誰がそんな予報を配信するのだろうか。それよりも、20年前の蚊屋野のような人達はどうして天気予報なんかを調べていたのだろうか。台風が来たり大雪でも降らない限り天気が生活に影響を与える事もない蚊屋野のような学生が天気予報を見たりするのは、ただ雨に濡れないようにするだけだったり、次の週末が良い天気かどうかを知るためだけだったのか。そのために色んな会社が天気予報を配信していたというのは少しおかしな気もしてくる。或いは、天気が仕事を左右するような人のための天気予報をついでに蚊屋野のような人達にも提供していたという事かも知れないが。
 またどうでも良い事を考え始めている。そんな事よりも今話題にしているその予報がどうやって配信されているのかを蚊屋野は知りたかったのだ。それに蚊屋野の持っている20年前のスマートフォンが今でもそのまま使えたりとか、その辺を気にしだしたらキリがない。
「そうかも知れないけど。その、どうやって予報を受信してるのか、とか、そんな感じだけど」
色々と気になっているので、蚊屋野の質問もしどろもどろになっている。そんなふうに何だかワケが解らないまま彼らは休憩場所に着いた。彼らはあのサービスエリアから元々高速道路だった道の脇を歩いた来たのだが、その高速道路が高架になっている部分が、山の中を抜けるトンネルにつながっているちょうど下が休憩場所になっている。高架の下の斜面に穴が掘ってあって、そこで灰をやり過ごす事が出来るようになっているようだ。
 ここは荒野のようだが、こうしていたるところに文明的なものがある。この洞穴を文明と言って良いのか解らないが、一応掘っただけではなくて、コンクリートのようなもので固めてあるし、原始的な横穴ではない。
 そんなところに感心していた蚊屋野だったが、休憩所に入って腰を下ろして一息ついた時にまた気まずい沈黙が辺りを支配しているのを感じた。灰はいつ降ってきて、どの位の間降り続くのか。空を見ても晴れているのか曇っているのか解らないような中途半端な空が広がっているだけである。
「あの、もしかして先生から使い方を教わってないんですか?急いで出発したから、そこまで話す時間がなかったのかも知れませんね」
どうやらこの沈黙に気まずい思いをしていたのは蚊屋野だけではなかったようだ。変なタイミングではあるが、さっきの話の続きで花屋はこう言ったのだろう。蚊屋野がしていた質問をどう解釈したのか解らないが花屋はこの時代のスマートフォンのようなものの使い方を知れば蚊屋野が納得すると思ったようだ。
 能内教授があの時何か言っていただろうか?蚊屋野は思い出そうとしていたが、思い出せるわけがない。あの時うわの空で話を聞いていたために、何も理解出来ずに、どうして今東京に向かって旅をしているのかさえ知らないのだから。
「ああ。あれ、言ってたかな、どうかな…」
悟られてはマズい部分を悟られないようにするとどんどん怪しくなるのだが、蚊屋野は適当な返事をしながら自分のスマートフォンを取り出した。しかし、自分のスマートフォンなら使い方を知っているのだし、わざわざ能内教授から教えてもらう必要もない。そう思った時に蚊屋野はやっとこのスマホと自分の違いに気付いた。
 20年の間、時間の流れから取り残されていたのは自分と、偏光レンズで見るとスケスケになるあの変なスーツだけで、他の荷物には20年分の時が流れているのだ。それにしてはまだちゃんと使えるし、保存状態も良い。これはほったらかされていたのではなくて、能内教授か他の誰かによってちゃんと管理されていたのだろう。
 そんな事を考えながら、蚊屋野はスマートフォンを操作して、インストールされているアプリの一覧を表示させてみた。あの地下の居住地を出た時に一度地図アプリを使った時には気付かなかったが、蚊屋野知らないアプリがいくつかインストールされているようだ。その中に「灰予報」という解りやすい名前のアプリがある。さらにいつも使っていた地図アプリとは別に「マップ2」と書かれているものがある。
 色々と興味深いと思った蚊屋野はその「マップ2」を開いてみた。使い方はいつも使っていた地図アプリとほぼ同じだったが、表示されるのは現在の地図のようだ。地上にあった街や道は今ではなくなっているものが多いので、全体的にスッキリしている。そして新しくできた居住地と思われる場所と、それらを繋ぐルートが線で示されているようだ。それから今いる場所もちゃんと「休憩所」として登録されている。20年前の世界でもスマートフォンで地図を見ながら「便利になったなあ」と思っていたのだが、そういう便利さは今でも一緒なようだ。
 そんなところに感心している場合ではなかったのだが、画面の隅に表示されている電波の受信状況のアイコンにバツ印がついたり消えたりしているのに気付いて蚊屋野は色々と思い出した。休憩所である洞穴の入り口から外を見ると予報どおりに灰が降り始めていた。
 蚊屋野は無意識のうちに首に巻いていたタオルを顔にあてて鼻と口を覆った。花屋と堂中はちゃんとした防塵マスクのようなものを付けている。それに比べてタオルで大丈夫なのか?と心配になったのだが、自分は特別な存在なのだし、そういう人間を灰の危険にさらすようなことはしないに違いないので、このタオルで充分なのだろう、と思って蚊屋野は納得する事にした。
 そして、灰のせいで受信状態が悪くなっているので思い出したある事の方を気にする事にした。この電波はいったいどこから来ているのか。そういう事はスマートフォン設定画面から「ネットワーク」というところを開いたら見られるはずだった。
 設定画面を見ると、そこも20年後の仕様になっていたのだが「ネットワーク」という項目は以前と同じようにあった。そこを調べたらこのスマートフォンと無線で接続されている中継局のようなものの一覧が見られるはずである。それを見ただけでは、この世界でどのようにして無線のネットワークが構築されているのかまでは解らないだろうとは思っていたのだが、別の意味で蚊屋野は驚愕することになる。
 そこに表示された接続先の名前を見て蚊屋野はギョッとしている。20年前の市街地だったらそこには近くにある無線LANのアクセスポイントがずらっと表示されていたのだが、ここではそれは一つだけだった。それは周りの状況を見れば納得がいく。しかしその名前が問題なのである。
 そこには「sphere51」と書かれていた。この綴りは確かスフィアと読むはずだ、と思った蚊屋野はこれをどう考えて良いのか困っていた。確か能内教授はスフィアに辿り着けるのは蚊屋野だけだとか言っていたはずである。それがネットワークのアクセスポイントということなのか?いや、もしかするとスフィアというのは何かの象徴みたいなものかも知れないし。これは早くこの旅の目的を聞き出さないと謎は深まるばかりである。
「大丈夫ですか?」
蚊屋野があまりにも深刻な表情をしているので花屋が心配して声をかけた。
「ああ、まあ…」
また適当に返事をする蚊屋野だったが、この時危うく「スフィアって何?」って聞いてしまいそうになって慌てて口を閉じていたのだった。
「灰が降ってる時には電波が届きづらくなるんすよ」
蚊屋野がネットワークの設定画面を見ているのに気付いた堂中が言った。これはさりげなくスフィアについて聞くチャンスかも知れない!
「へえ…。アクセスポイントが一つじゃ仕方ないよね」
この聞き方で大丈夫だろうか?
「一つってワケじゃないっすけどね。実際にスフィアはいくつもあるんすけど。でもそこら中にあるってワケでもないっすから」
おぉ!今スフィアって言ったぞ!
「この辺りだとスフィア51番すかね。前にアンテナのメンテナンスを手伝ったからちょっと詳しいんすよね」
「アンテナって?」
「スフィアから出てるものはそのままじゃ使えないから、それを変換する装置にアンテナがついてるんすよ」
良く解らないが、やっぱりアクセスポイントとして表示されていたスフィアというのは、蚊屋野にしか辿り着けないと言われたスフィアなのだろうか。これ以上聞くと蚊屋野が何も知らないということがバレてしまうので聞く事が出来ない。
 なんとか少しだけ前進した。少し機嫌の悪い花屋と堂中から少しでもスフィアについて聞けたのだから、これは十分な成果だ。蚊屋野は一人で心の中で盛り上がっていた。しばらくして灰は降り止み、彼らは出発する事になった。
 洞穴の休憩所から出る時には、入る時より少し空が明るいような気がした。灰は雲から降ってくるワケではないので、晴れている事と灰が降り止んだこととは関係がないのだが、蚊屋野としては少しだけ明るい気分になれた。そして洞穴を出た蚊屋野の目には大きな富士山が飛び込んできた。朝からずっと彼の背後に富士山は見えていたのだが、ここでやっと気付いたらしい。厳密には彼がこの世界で目覚めてから何度も見る機会はあったのだが。とにかく、そこに富士山があって、それは今も昔と変わらず雪を抱いた美しい姿でそびえていた。
「わぁ!富士山!」
蚊屋野が思わず口に出すと、花屋と堂中は少し驚いたように顔を見合わせてからニヤニヤしていた。
「なんか今来たばっかりみたいっすね」
「いやあ。昔から変わらないものを目にするのは嬉しいものだからね」
確かにそのとおりという感じで蚊屋野は嬉しそうな表情を堂中に向けたのだが、堂中が言いたかったのはそういうことではない。それを見ていた花屋は笑うのをこらえるのに必死だった。
「さあ行きましょう。日が暮れる前に着きたいですから」
笑いで震えそうな声で花屋が言うと、蚊屋野と堂中は振り返って頷くとまた歩き始めた。
 この人達はきっと良い人達だな。と蚊屋野は思って物事が好転しているような手応えを感じていた。きっとなんとかなりそうだ。そう思った時である。
「まるで観光客気分だな」
「ついでに五合目まで登るか?」
背後で聞こえた声に振り返って蚊屋野の気分はまた暗く沈んでいった。振り返ってもそこには誰もいない。またあの声が聞こえたのだ。
 頭上で聞こえたバサバサいう音に驚いて見上げると、そこには高架の梁にとまったカラスの姿があった。やっぱりまだ問題だらけだ。