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20. フォウチュン・バァの館
溺れる者は藁をもつかむ、というのはこういう時に使うのかどうか。厳密に言うと違うような気がしたが、蚊屋野としては今の彼を悩ませている一番の問題をなんとか解決しなければならない。それで市長の家での夕食のあと、この「フォウチュン・バァの館」へとやって来たのだった。
花屋と堂中が彼がここに来ることを良く思わなかったのは無理もない。二人とも能内教授のようなキッチリとした科学者から教育を受けたということで、まじないじみた事ははなから信用しないようになっているようだ。それに、そうなる前の堂中はここでフォウチュン・バァに怪しいことを吹き込まれて恥をかいたようだし。
その辺に関して蚊屋野は全く違うのかというとそうでもなくて、適当に生きてきた蚊屋野にとっても、占いなんてものは信じたい人が信じれば良いものだった。しかし、彼らがここへ来た時にフォウチュン・バァに言われた「異界の声を聞くもの」という言葉が気になっていたのだ。その昔に堂中がここへやって来た時にも言われたという事だし、フォウチュン・バァにとってその台詞は客を呼ぶための宣伝文句みたいなものかもしれない。しかし、この世界で目覚めてしばらくしてから、蚊屋野はずっと彼にしか聞こえていない声を聞いている。もしかするとフォウチュン・バァが何かを知っているのではないか、と思わないわけにはいかないし、やれることは何でも試してみるべきなのだ。つまり「藁をもつかむ」って事なのかも知れないが。
まだ人で賑わっている通りから薄暗い細道に入って、蚊屋野がフォウチュン・バァの館の前にやって来るとドアについたステンドグラスから色つきの光が漏れている。そして、入り口には紋章のようなものが浮き彫りにされた木のプレートが飾ってある。その紋章は四匹の鳥が同じ格好で円を描くようにして形作られたものである。
この四匹の鳥がスズメということだと…。そんなダジャレみたいな紋章に変な気分にさせられるのはイヤなので、蚊屋野はそれがスズメではないと決めつけることにした。
蚊屋野はドアに手をかけようとしてからいったんその手を止めた。占いなんかで頭の中の声のことが解決するワケはない。そんな事を考えたのだが、もう引き返すには少し遅かったのかも知れない。蚊屋野がドアに手をかける前にドアが開いて、怪しい笑みを浮かべるフォウチュン・バァが顔を出したのである。
「良く来たな旅の者。さあ入るが良い」
なぜ自分が来たことが解ったのか?と思って蚊屋野は少しゾッとしていた。
館とはいっても占いのための小さな小屋という感じなので、中は広くない。そしてカードや水晶玉といった占いには欠かせない小物や、呪術に使いそうな人形や彫像が雑然と並べてあった。謎めいているが、それらがあまりにも「占いアイテム」っぽいので逆に胡散臭い。やはり来ない方が良かったのだろうか、と蚊屋野は辺りを眺めながら思っていた。
「旅の者。まずおぬしの未来を見るにあたって偉大なるスズメの王を呼び出す。その手にあるモバイルを渡すのだ」
「モバイル?」
「そうじゃ。…あぁ、昔の言い方だと…なんて言ったか。アレだ。こういう小さいの」
フォウチュン・バァが両手の間に隙間を作ってその大きさを示したので蚊屋野がモバイルというのがなんとなく解った。
「これですか?」
蚊屋野がポケットからスマートフォンを取り出すと、フォウチュン・バァが頷いて手を差し出してきた。そうされると蚊屋野もなんとなくフォウチュン・バァに持っていたスマホを渡してしまう。そしてすぐに「しまった!」と思った。しかし、フォウチュン・バァはそそくさとそれを持って部屋の奥に行き、何かの機械に蚊屋野のスマホをかざした。
スマホを機械にかざすと、蚊屋野がこれまでに聞いたことのないピロピロという短い電子音が聞こえた。何だか心配になってくる。
「ちょっと、何してるんですか?」
「偉大なるスズメの王は前払いしか受け付けんのじゃ」
ということはどういうことか?と思ったが、今のは多分電子マネーみたいなことだろう。
さっき市長の家で聞いたのだが、この世界では貨幣と電子マネーの両方が使えるらしい。貨幣のほうは20年前までと同じものが使われているのだが、新しく作られることはないので、紙幣はボロボロになって使えなくなり、今ではコインだけが使われているようだ。つまり500円玉が一番偉いという事になったのだ。ただし価値としては20年前の一万円相当ということにしないと色々とバランスが悪い。そこで一円よりも少ない単位の貨幣が造られたりもしている。そういうものにはゲームセンターのコインなどが使われているのだが、いずれにしてもコインだけを持ち歩くのはかさばるし重いので評判が良くない。ということで今では電子マネーの方が一般的になっているようだ。
「まだ何も言ってないのに、お金だけは取るんですか?」
「なに、これは入場料みたいなもんじゃ。それにあんた、どうせ自分のお金じゃないんだろう?」
たしかに、さっき市長のところで占い代として電子マネーを入金してもらったりしたのだが、なんでフォウチュン・バァに解ったのだろうか。
「まあ、そうですが…」
「ほれみろ。お前が来るのはずっと前から解っていた事なんじゃ」
おぬしとか、あんたとか、お前とか、人の呼び方が色々と変わるのが気になってしまいそうな蚊屋野だったが、余計な事を考えているとまた失敗しそうなので、ここは集中しないといけない。占いを聞くのに集中するというのもおかしな話だが。
フォウチュン・バァは蚊屋野のスマートフォンを彼に返した。その時ふと気付いたのだが、フォウチュン・バァは老婆のような姿をしているが、近くで見るとそれほど年寄りという感じではなかった。若いとは言えないが老婆ではない。老婆みたいな見た目も演出のうちなのかも知れない。
「では、始めるぞ。旅の者。そなたの旅の行く末を…」
「あの、ちょっと待ってください」
「なんだ?気が散ると偉大なるスズメの王が帰ってしまうぞ」
「それはそうですけど。こっちの話とか、そういうのは聞かないでいきなり占うんですか?」
「なんだ?何か相談したいことでもあるのか?まさか恋愛の相談じゃないだろうな?今じゃ恋バナなんて誰もしなくなったが。あぁ、昔が懐かしい…。だが気をつけるのじゃ。愛は噛みつくぞ」
フォウチュン・バァは自分で恋愛相談の事を話して少し盛り上がったと思ったらすぐにウンザリしたような様子だった。元々はそういう占いが好きだったのだが、灰の影響で人々がそういう事に悩む必要がなくなった、という事かも知れないが。そんなことはどうでもイイ。
「そうじゃなくて…」
「じゃあ、あれか?もしかしてスフィアの意味が知りたいんじゃないか?」
「それでもないです。というか、何て言われるか大体知ってますし」
「いやまて。パターンはいくつかあるからな。おぬしの知らないスフィアの意味もあるかも知れないぞ」
「いや、結構ですよ」
「じゃあなんだ?まあ、なんでも聞くが良い。一つ占うだけなら料金は変わらない。二つなら料金も二倍。三つなら三倍。じゃが五つ以上なら少し割安になるがな」
「一つで良いですけど。それで、聞きたい事というのはですね。あなたが言ってた異界の声を聞くもの、ってやつのことなんですが」
「それがどうしたというのだ?」
「いや、だから。ボクには異界の声が聞こえるんですよ」
「そうだろう。だから異界の声を聞きにここへ来たんだろう?」
「なんだか意味が解りませんが」
「何が問題なのか解らないが、とにかく異界からの声。偉大なるスズメの王の声を聞くために人々はここへやって来るのだ」
「あぁ…。そういうことだったのか…」
蚊屋野はなんとなく力が抜けてしまった。やっぱりあの台詞は宣伝文句に他ならなかったようだ。頭の中で彼にしか聞こえない言葉が聞こえるからおかしな想像が膨らんでしまったが、結局「異界からの声」というのは占いそのものということなのだ。
「そうか、旅の者よ。解ったぞ。そちにはありきたりな占いは必要ないのだな」
蚊屋野がいきなり落胆した様子だったのでフォウチュン・バァの言い方には彼を引き留めようとしている感じがした。
「それってどういう事ですか?」
「このフォウチュン・バァが誰にでも本当の力を見せると思っておるのか?この力はそう安売りは出来ないものなのだよ」
フォウチュン・バァの目に力がこもっている。しかし蚊屋野はなんとなく心配でもあった。
「あの、お金はあんまり使いたくないですが…」
「心配するな。追加料金などは必要ない。フォウチュン・バァの真の力はプライスレス!」
なんだか更に怪しくなってきたが、追加料金が発生しないのなら聞くだけ聞いたら良いのかも知れない。
「では、何を知りたいのじゃ?フォウチュン・バァに尋ねれば、答えは汝の目の前に」
フォウチュン・バァが水晶玉に両手をかざして蚊屋野の方を見ている。彼女の鋭い目つきに少し気後れしそうな蚊屋野だったが、とりあえず聞いてみる事にした。
「あの、実は。頭の中で声がするんです。前はこんな事はなかったんですが。ここに来てから何度もそういうことがあって。これは何か目に見えない力とか、そういうものの声なんじゃないか、とか思っているんですけど。どうすれば良いのか教えて欲しいんです」
フォウチュン・バァとしてもこんな質問は初めてだったのか、水晶玉の上でユックリ動かしていた両手が一瞬止まりかけたが、蚊屋野が真面目に言っていることを確認すると、また両手を水晶玉の上で怪しく動かし始めた。
「偉大なるスズメの王よ。異世界の声を伝えるものよ。このものに道を示したまえ!」
フォウチュン・バァがそう言うと天井のランプが暗くなった。部屋を照らすのはそのランプだけだったので、少し光量が落ちただけでも部屋の様子が変わる。蚊屋野は驚いて天井を見上げた。
「集中するのじゃ!この水晶玉から目を離すんじゃない」
フォウチュン・バァに言われて蚊屋野は水晶玉に集中することにした。しかし、集中していてもそこに何かが見えるような気はしない。薄暗くなった部屋の中でフォウチュン・バァは相変わらず水晶玉にかざした手を動かしている。
「見える。見えるぞ。そうか!解ったぞ」
そう言うとさっき暗くなった天井のランプが再び元の明るさに戻った。ただ、明るくなった時にフォウチュン・バァの足下でガチャという音が聞こえたので、蚊屋野は天井よりもそっちが気になって彼女の足下を覗き込みたくなった。しかし、その足下を見る前にフォウチュン・バァが勢いよく立ち上がったので、蚊屋野は目線を上げなければいけなかった。
「何か解ったんですか?」
「炎の狛犬じゃ!」
「炎のコマイヌ?」
「そうじゃ。この街から北に少し行ったところに古い神殿がある」
「神殿ですか?!」
蚊屋野は「神殿」と聞いて石の柱が並んだギリシャとかのああいう神殿を思い浮かべてしまった。そんな建物がこの辺にあるのだろうか?
「まあ、解りやすくいうと神社じゃ」
「ああ…」
確かに神殿ではあるが。
「そこに行くと何が解るんですか?」
「偉大なるスズメの王がそこへ行けと言っているのだ。それ以外はこのフォウチュン・バァにもわからぬ」
盛り上がりそうで盛り上がらなかった占いの館。ここでは何の解決策も見つからなかったようだ。
「もしも神殿に行くのなら明日にするが良い。夜は閉まっているからな」
フォウチュン・バァは足下の何かを片付けながら言った。そこにはガラクタにも見える占いアイテムがあったが、その近くに足で操作するスイッチがあった。そのスイッチからは壁までコードが伸びている。さっきのランプが暗くなった仕掛けがそれに違いない。スイッチを操作する時に近くの占いアイテムを倒したということのようだ。
「アンタ市長のところのお客さんだろ?」
占いが終わるとフォウチュン・バァは普通のおばさんみたいな話し方になる。
「まあ、そうですが…」
「だったら、なおさらなんだけどさ。さっき言ってた話って、どういうことなのよ」
「どうって?」
「だから、声が聞こえるとか、そういうやつよ。アンタがたまたまやって来た変わり者ってことならそれでも良いんだけどさ。そういうのって、ストレスで精神がまいってるとかさ、それじゃなかったら脳の重大な病気ってこともあるかも知れないじゃないのよ」
そう言われると蚊屋野はゾクッとしてしまう。鈍感なので精神がまいるということはあまりないのだが、脳の異常ということだとそれはなんとも恐ろしい。そういうのって、ある時突然倒れてそのまま…とか、そういうタイプの病気なんじゃないか?とか、そんな話も聞いたことがある。
「まさか…。そんなことはないと思いますが…」
とは言ったものの蚊屋野はかなり動揺している。
「それなら良いんだけど。弟の知り合いに何かあったらこっちも気まずいでしょう?それに、アンタ本気で悩んでたみたいだしさ」
「えっ?…ってことは、あなたは市長のお姉さんなんですか?」
「そうなんだけどさ。これ他の人には内緒よ。あの人はあんまり気にしてないみたいなんだけどさ、街の人が知ったら良くないんじゃないか?って感じじゃないよ」
「まあ、それは大丈夫ですけど。じゃあ、ボクはこの辺で…」
「あら、そうなの。でもちょうど次のお客さんが来たところだしね」
フォウチュン・バァは部屋の奥の方を覗き込んでいる。そこには扉の外に向けられたカメラの映像が映っている。
「大して力になれなくて悪かったわねえ。じゃあ、出口はアッチだから」
「いや、大丈夫です。明日その狛犬も見てきますよ」
表に新しい客が来ているからか、蚊屋野は入ってきた時とは別の扉から出るように言われた。外に出ると小屋の中からは「良く来たな旅の者。さあ入るが良い」というフォウチュン・バァの声が聞こえてきた。
結局なにもなかった。なにもなかったどころか、自分が重病にかかっているのではないか?という新しい心配事までできてしまった。一体どうすれば良いのだろう?と思いながら蚊屋野は暗い気持ちで市長の家まで戻ることにした。
21. 藁の次にすがるもの
蚊屋野が目覚めて食堂へ行くとすでに花屋と堂中が食事を始めていた。市長は普段から早起きなのでとっくに朝食はすませて仕事前の散歩に出かけたということだ。
「ぐっすり寝てたっすから、起こすと悪いと思って」
朝の挨拶を済ませたあとに堂中が言った。ぐっすり寝ていたというよりは、昨日の夜は心配事だらけで寝付けなくて、どちらかというとまだ寝たりない感じもする蚊屋野である。ただ、そんな事は二人には知られないようにしておきたかったので、適当に返事をして食卓についた。
「それで、どうだったんですか?占いの館は」
花屋はフォウチュン・バァのあの独特の世界を蚊屋野がどう思ったのか、感想を楽しみにしているようだ。蚊屋野は自分が重病人かも知れないということに気付いたショックで、占いのことなど忘れそうになっていたのだが。
「ああ、なんかスゴかったよ。水晶玉でスズメの王がなんとかって。マモル君が聞いた話よりもスゴい事を聞いたかもね」
「マジっすか?!」
そう言った堂中だが、驚いた顔はしていない。
「それよりも、二人ともフォウチュン・バァが市長のお姉さんだって知ってたの?」
蚊屋野が言うと花屋と堂中がニヤニヤし始めた。
「ビックリしますよね」
「ボクらも、まんまと騙されたんすよ。まあ、市長が占いの代金を出してくれるってところから怪しかったんすよね」
「なんだ、そうだったのか。それじゃあ、ボクはさらにキミ達にも騙されたって…、ことか」
ここで笑う予定だった蚊屋野だったが、変な間を開けながら喋ったあとで急に顔色が悪くなった。
「あの、大丈夫ですか?もしかして、疲れているんじゃないですか?」
花屋が蚊屋野の顔を覗き込んでいる。
「ん?!いや。大丈夫。なんでもない」
そうやって言う人が大丈夫なことはあまりない。蚊屋野はさっき喋っている最中にまた例の声を頭の中に聞いて、なんとなく自分が重病人であるという考えが本当のような気がしていたのである。もしそうだとしたら自分はどのくらい生きられるのだろう?まだ出会ったばかりの新しい仲間の前で衰弱して死んでしまうのだろうか。
思えば彼らにしたことは迷惑をかけたことだけだ。それに彼らは、いや、彼ら二人だけでなくて多くの人が蚊屋野を待ち望んでいたのだ。その目的が何なのかは蚊屋野だけが知らないのだが、そんな状態で自分は何もできずに死んでしまう。そんな事を考え出すと全然大丈夫じゃなかった。
「今日はまだ小田原の方が封鎖されてるみたいっすから、一日様子を見ることにしてるんすよ。蚊屋野さん疲れてるみたいっすから、今日はユックリしてた方が良いっすよ」
「ああ、そうだね」
蚊屋野はなんとか笑顔を作って答えたが、その顔は薄暗かった。
フォウチュン・バァのところに行った蚊屋野は藁にもすがる思いだったのだが、結局は余計に深いところへ沈んでいったような気がしている。それでもどうして良いか解らない人間は今度は神の力にすがるしかないのか。蚊屋野は昨日の夜フォウチュン・バァに言われたとおり、炎の狛犬がいるという神殿へとやって来た。
花屋と堂中も以前はフォウチュン・バァのところに行ったことがあるのだし、その頃なら神殿にも多少は興味があったはずだが、今ではまじないじみたことに無関心なのが幸いだった。どうにもならない窮地に陥って「神様、なんとかしてください!」ってやってるところを二人に見られるワケにはいかない。
神殿へは街の中から伸びている小さな道を辿っていくとすぐについた。山の中腹にある街から更に高いところへ登る途中にあった神社が今は神殿と呼ばれているに違いない。入り口には鳥居があって、その先に急な石段が山の上の方へと続いている。20年前の神社と違うのは鳥居の下にゲートがあって、そこに係員がいることだ。20年前にも中に入るのに入場料のいる神社というのがなかったワケではないが、その辺は抜け目がないというか。多分こういう場所も灰の影響で他には少なくなっているから、入場料を取っても見に来る人がいるのかも知れない。
蚊屋野が神殿へ行く予定だと言った時、花屋からあまり無駄遣いしないようにと注意されていたので蚊屋野は電子マネーは使わずに、自分の財布から50円玉を取り出して係員に渡した。まだ綺麗な状態の50円玉を係員は珍しそうに見ていた。
蚊屋野はゲートを抜けて石段を登っていった。途中に脇道があって小さな社がある神社というのもあるのだが、ここはまっすぐな石段が頂上まで続いている。頂上といっても山の頂上ではなくて、山の尾根にあたる部分だが、今登っている石段からみると頂上みたいな感じだ。
そんなどうでも良い事を考えながら蚊屋野は炎の狛犬に出会うために石段を登り続けた。そして、一番上に着くとすぐに炎の狛犬に会うことができた。
「これで良いのかな…」
あまりにあっけない感じだったので思わずつぶやいた蚊屋野だった。それは炎の狛犬といっても、蚊屋野がいつも見ている狛犬と大して変わらない。その目つきとか、たてがみのような装飾が「炎」という雰囲気を出しているのかも知れないが、これは普通の狛犬だ。
20年前まで、ここにお参りに来た人達はここにある狛犬よりも、その奥にある神様のいる社を目指してやって来たはずなのだが。この頂上の開けた空間にはただ狛犬が二体安置されている。そして、かつて社があったであろう場所にはフォウチュン・バァの館の前で見た鳥の紋章が立て看板のようにして掲げられている。
「つまり、これもフォウチュン・バァの演出の一部なのか」
と、蚊屋野は考えて暗い気分になってきた。本来ならばフォウチュン・バァの館で占いを聞いて、そして占いに従ってここへやって来ると炎の狛犬に会うことができる。今の人達にしてみればそれは娯楽として成り立つのかも知れない。蚊屋野だって状況が違えばそれを楽しめたはずなのだが、今の彼は死に瀕している。というか少なくとも彼はそう思っている。そんな状況で狛犬を見せられてもどうすれば良いのか。
蚊屋野は目の前がどんどん暗くなっていくように感じていた。そして目の前の狛犬の台座に手をついて、そこに顔をうずめた。そのままさらに今の自分の問題について考えていたら、情けない声を上げながら泣いていたかも知れない。変な期待をした自分が恥ずかしい。そんな事も思っていた。
「おいおい、なんだよ。こんなところで泣いてんのか?」
蚊屋野はハッとして顔を上げた。まだギリギリ泣き出す前だったが、今は泣いてるかどうかは関係ない。また声が聞こえたのだ。
「珍しく朝から人が来たと思ったのによ」
また声が聞こえて蚊屋野は振り向いた。
「キミか?!キミがさっきから喋ってるのか?」
蚊屋野は目の前を凝視しながら絞り出すような声で言った。