Technologia
30. 病院
それは人と言えば人だったが、大まかな部品が人のように配置されているから人にように見えるだけとも思える。壁に丸い染みが三つあると人の顔に見えたりするのと同じで、今見ているのは人のようだが人でないのかも知れない。だがその動きは人に似ている。人が走る時のように手を振っているが、それが行き過ぎてしまった感じで、手を振り回しながらこちらに向かってくる。そして、その顔は。なんと表現したら良いのか解らないが、まったく表情のない顔だった。口だけを大きく開けて昨日の夜に聞いたあの叫び声を上げている。むき出しにした歯が見えて歯茎からは血が出ているようにも見えたが、それは蚊屋野の思い込みだっただろうか。
とにかく、ドアのガラスを破って飛び出してきたものはアッという間に蚊屋野の目前まで迫ってきている。目の前にそれがやって来るまで、どうすれば良いのか考える間は全くなかった。
「蚊屋野さん!」
背後で花屋の声が聞こえたのに気付いて蚊屋野は我に返った。人間のようで人間ではない何者かに襲われそうになっていたと思ったのだが、そこにはなにもなく蚊屋野はただ尻餅をついた状態で固まっている。
今のは幻覚だったのだろうか?蚊屋野はまだ起き上がれないまま考えていた。幻覚だとしても、どうしてそんなものを見たのか。そのおかげで話はちょっとだけ盛り上がったのだが、それよりも他に何か意味がありそうな気もする。何かが飛び出してくる時に割れたはずの扉のガラスは元のままである。そういえば、あの女の子はどうしたのだろう?
「大丈夫ですか?」
気付くと花屋はすぐ後ろまで来ていたようだ。
「ああ、なんか滑っちゃった」
いまいち意味の伝わらない返事だったが、尻餅をついた体勢のままだったのでそんな事を言った蚊屋野だった。そのなんとなく緊張感のない言葉に花屋は少しムッとしたようで、ちょっとした怒りが両目の間に表れた。
「離れないように、って言ってあったはずですよ。勝手な行動はしないでください」
それは知っていたのだが、蚊屋野としては一人で確かめたいこともあったりしたのだ。それはあの女の子の事だが。だが、まだ詳しいことを他の二人に話すつもりはない。
「でも、ちょっと気になることがあって。その建物って病院だよね?」
蚊屋野が立ち上がりながら言うと花屋も建物の方を見たのだが、その建物の入り口を見て花屋は何か気になることがあったのか、少しの間表情が固まっていた。蚊屋野が「なんだろう?」と思っていると、堂中とケロ君も近寄ってきた。
「なんかあったんすか?勝手に行動したらダメっすよ」
「まあ、そうなんだけど。ちょっと確認事項っていうか…」
蚊屋野がまた適当に誤魔化そうとしているのを聞いていたのかどうか知らないが花屋がその言葉を遮った。
「ここ、来たことある気がする」
花屋が建物の入り口を見つめたまま言った。他の二人もつられてなんとなく入り口の方を眺めてしまった。彼らが見ても来たことある気はしなかったが。二人がなんとなく入り口を眺めている中を花屋がそこへ向かって歩いて行く。蚊屋野はさっきの幻覚のような妄想のような、あの恐ろしい光景を思い出して花屋のことを止めようとしたが、なぜかそうする必要はないように思えた。もしもあの「何か」が中にいるとしたら、暴れ回って物音がしているはずだ。それに、この建物自体が妙に静まりかえった雰囲気なのだ。
花屋がドアの取っ手に手をかけてあけよとしたが、ドアには鍵がかかっていた。花屋は取っ手を触った時になんとなく握りづらいと思ったので自分の手を確認した。すると取っ手に付いていた埃が手について手が真っ黒になっている。それで手が滑ったのだろう。
「ずっと誰もいなかったのかな?」
花屋が埃で真っ黒になった自分の手を見せながら言った。
「でも病院だったら誰か来てるはずっすよね」
堂中は言いながら建物の横に回って窓を調べている。すると最初に調べた窓が簡単に開いた。ドアには鍵はかけるが窓は無防備だったようだ。それは恐らく、誰もいなくなる前のこの街はそれなりに安全だったという事だろう。少なくとも窓から忍び込む泥棒の心配はしなくて良かったようだ。
「今開けるっす」
そう言って堂中は窓から中に入った。そしてすぐにドアのガラスの向こうに堂中の姿が見えて、彼が鍵を開けた。ドアが開くと花屋が中に入っていった。蚊屋野はどうしてそうするのかしばらくの間気付かなかったのだが、病院だったら街の人の情報が手に入るかも知れないとか、そういう事だった。ところでさっき見たような気がする女の子だが、このドアに鍵がかかっていたということは、ここに入らなかったのだろうか?考えると恐くなりそうなので蚊屋野はなるべく違う事を考えようと努めていた。
「やっぱり誰もいなかったみたい」
花屋は部屋の中を見回してから言った。診察用の机やベッドはあるのだが、その他の医者が使うような道具が見当たらないだけでなく、机の上に病院らしいものが何も乗っていない。全体的に病院と言うにはさっぱりしすぎな印象である。
「じゃあ、ここの先生がいなくなったのは半年くらい前っすかね。その頃までの記録はあるんすけど、その後は見当たらないっすね」
堂中は早速、棚や引き出しを調べていたようだ。
「ここに来てた人達が何で来たのかとかは解る?」
蚊屋野が堂中のところに行って後ろから資料を覗き込んでいる。
「そうっすね。カルテみたいなのもあるっすけど。みんな風邪とかっすね」
「何かに襲われて怪我したとか、そういう人はいない?」
「そういうのはなさそうっすけど」
蚊屋野が言いたいのは、昨日のアレに襲われて怪我をした人はいなかったのか?ということだが。しかし、昨日のアレが現れたのは、周囲の状況からして昨日の夜が初めてだったはずなので、半年前にそんな怪我人がいたと考えるのはおかしな話である。
「まあ、そうだよね」
特に役に立つようなことも言えず、考えることもなくなった蚊屋野は診察室の中を見渡してボーッとしてしまった。そうすると、またさっきの女の子のことを思い出してしまう。あの子はこの病院に入らずに別の場所へ行ったのだろうか?診察室の中をフラフラ歩きながら考えていた蚊屋野だったが、壁に掛けられた写真が目に止まってその前に立ち止まった。
家族で撮った写真だろうか。白衣を着た男性が恐らくここで医者をやっていた人で、その隣の女性が妻ということだろう。そしてその二人の間にいる子供が…。ここで蚊屋野があっと驚くはずだったのだが、そのちょっと前に蚊屋野の後ろで同じ写真を見ていた花屋が「アッ」と大きな声を出したので、蚊屋野は驚いて息が止まった。
「やっぱりここ来たことあったんだ」
「来たことあった、って。覚えてなかったの?」
「だって、まだ10歳にもなってなかったですし」
そういうことか、と蚊屋野は思った。花屋の頭の中には、この場所と写真によって過去の記憶が蘇ってきたようだ。
「お爺ちゃんに連れられていろんな街を回ってたことがあったんです。その時にここにも来たんですね。この写真の先生がお爺ちゃんと知り合いだったの」
ということは、その医者と妻の間にいる子供もここに住んでいるということだし。蚊屋野はなんとなくあの女の子が存在することを確信し始めていた。
「この子の事も覚えてる。私よりちょっと年上だったけど、一緒に遊んでくれて」
花屋は次々に蘇ってくる記憶が懐かしくて少し興奮気味に話している。しかし、蚊屋野には理解出来ない。写真に写っている女の子が花屋より年上とはどういうことなのか。蚊屋野がこの街で何度か見かけた女の子は写真に写っている女の子とほとんど同じ姿なのだが。
「でも何かの病気にかかってたみたいで、それから何年かして亡くなっちゃったって聞いたけど…」
蚊屋野の顔がみるみる青くなって、イヤな汗が背中とかこめかみの辺りに流れてきた。花屋の言うことが本当だとすると、それはつまり昨日から蚊屋野が見たと思っているあの女の子は、この世に存在しない人ということである。蚊屋野にはハッキリと見えていたのに。しかし、よく考えるとそこにいたはずなのに姿が見えなくなったりもした。ますます、ソレっぽい感じがしてくる。
「ちょっと、大丈夫っすか?」
蚊屋野が真っ青になって固まっているのに堂中が気付いたようだ。
「あぁ…。まあ…」
全然ダメそうな返事である。花屋は蚊屋野が度々こういう状態になるのを好ましく思っていなかった。見るからに蚊屋野はただ事ではないという顔色の悪さなのに、その原因が花屋には解らない。何かを隠しているのは、蚊屋野にとって都合が悪いからなのか、それとも自分が信頼されていないからなのか。そんなところにも苛立ちを感じてしまうのだが、いずれにしても蚊屋野を無事に東京まで連れて行かないと花屋達がこれまでしてきたことが全て無駄になるのだ。
蚊屋野としてもワザとそうしているのではないのだが。一度目は彼にしか聞こえない謎の声の事で悩んでいたのが原因だった。それは普通の人間には聞こえない動物の声だったということが解って解決した。今度は死んだ人間の姿が見えている。実際にはそうではなくて、そんな気がするだけなのかも知れないが。今回もそんな事を簡単に言い出せる感じではない。亡くなったはずの女の子を見たと言って二人が信じるワケもなさそうだし。ただ二人を恐がらせたりとか、あるいは蚊屋野自身が信用を失うのではないかという恐れもある。
蚊屋野はぐったりして無意識のうちに近くにあったデスクチェアに腰掛けていた。堂中はまだここにある資料を調べている。花屋は写真の前から離れてこの病院の調査に加わった感じだった。ただ、その表情からは苛立ちが隠せない様子だった。その原因が自分にあることも蚊屋野にもなんとなく解っていた。
「ねえ、あの。いきなりこんな事言うのもアレなんだけど」
蚊屋野が迷ったあげくに口を開いた。一人で悩んだりしないでなんでも話して欲しい、と箱根の街で花屋に言われていたことも、今の状況を打ち明ける理由の一つであった。だが理由はそれだけでもなかったりする。昨日学校であの女の子を見たこと。そして、今日その女の子を追いかけてこの病院を見つけると、そこにその女の子の写真があったこと。さらに、花屋がここに来たことがあるということも。今回の場合はなんとなく全てが繋がっているように思えた。ただの怪談話ではなくて、全てに理由があってこうなっているような。
ハッキリとした理由があるワケではないが、みんなで考えたら答えが見つかるような気がしたのである。
「さっき、その女の子を見たんだよ。さっきだけじゃなくて、昨日もなんだけど…」
堂中と花屋は記録を調べる手を止めて蚊屋野の方を見た。二人の視線に蚊屋野は言葉が出なくなりそうになる。こういう感覚は久しぶりだったが、小学校のクラスで先生に簡単な問題を出されたのに答えに自信がない時のあの感じに似ている。下手なことを言うと大笑いされて恥をかくんじゃないか?とかそんな感じで答えられなくなったりするのだ。
そんな頃から何年も経って、恥ずかしい思いも沢山してきたのだが、結局こういう時にもあの時と同じように恥をかくのを恐れてしまったりする。周りの人間は彼の事を完璧だとは思っていないし、間違っていても気にしなかったりするのだが。
「でも、その子って亡くなったんすよね」
何の話か良く解らないという感じで堂中が聞いた。
「そう。だけど、いたんだよ。だから話してるんだけど。…解ってるよ。キミ達は科学を信じているみたいだし。ボクだってそういうことはないと思ってるんだけど。だったらボクの見たものは何なのか?って事だし…」
「もしかして、幽霊を見たって言うんですか?」
蚊屋野はなるべくその言葉は使いたくなかったのだが、花屋が「幽霊」という言葉を使うと、またゾッとして汗が出てきた。
「それが幽霊なのか何なのかはともかく、ボクがあの女の子を追いかけてここに来て、そしてここが花屋さんも知っている場所だった、ってことに何か意味があるんじゃないか、って。そんな事を思ったから」
これが蚊屋野の文学者的感覚。こういう変な因縁じみた事をダラダラと考えていたから、何度も大学四年生を繰り返す羽目になったとも言えるのだが。それは今の状況とは関係のない事だ。しかし、今ではすっかり科学者である堂中もそういう話を全て否定するようになったワケではない。
「じゃあ、この病院に何かあるってことっすか?」
そういうことを聞かれると蚊屋野も困ってしまう。彼の言ったことには根拠になるようなところがあまりないのだし。
「病院というか…。うーん…」
これまで色々な記録を調べていたようなのだが、特に何も出てこなかったのだし、やっぱり蚊屋野の言うことには説得力が欠けている。
「もしかして、調べる事が間違っているのかも」
蚊屋野が困っていると花屋が何かに気がついたようだ。
「ここで住民の記録を探してたけど、そうじゃなくて先生とかあの子の事を調べるべきだったんじゃないですか?」
花屋が言ったが堂中はおろかこの話を切り出した蚊屋野もなんとなく確信が持てない感じだった。花屋の言うことが正しいとすれば、蚊屋野の話した幽霊とその因縁に関する話が正しいということでもあるのだ。それを根拠にするには、なんとなく不安定な気がする。それに、それを調べるのに時間をかけても良いのだろうか。
どうするのか決めかねて全員が口を閉じると、時間が静止したような静けさを感じたのだが、その時玄関の方でケロ君が吠えだした。これまでとは違う少し興奮したような吠え方だ。三人は慌てて玄関の方へ向かった。
ケロ君はガラスの扉の外に向かって吠えている。色つきのガラスだが、中からだと外が明るいのでその向こうがよく見える。外には特に変わったところはないようだった。
「ケロちゃん、どうしたの?」
花屋がケロ君の横にしゃがんで落ち着かせようとしている。それでもしばらくケロ君は吠えていた。
「(ああ、すまねえ。なんていうかアレだよ。理由もなくミョーに恐くなるってやつだ)」
そういう理由よりも「外に何かがいた」とかいう事の方が良かったと蚊屋野は思った。何があるのか解らなければ何の対策もできない。
「外に誰かいたんすかね?」
「いや、それだったらこんなに吠えないと思うよ」
蚊屋野だけはケロ君の吠えた理由を知っているのだが、それをそのまま言っても信じてもらえないだろう。
「なんだか気味が悪いですね」
誰もいない外の道を見つめながら花屋がつぶやいた。今起きている事を理解するためには何かが足りない。そして、その何かは花屋達がこの世界で科学者達から学んできた事とは全く違うもののような気がする。
「やっぱり、先生達の事を調べましょう」
他の二人の意見を聞く前に花屋は奥の部屋へと歩き出していた。蚊屋野と堂中も得に異論はなかったようでその後についていった。
「(土足で悪いが、ここは恐いからオレもついていくぜ)」
ケロ君もちょっと済まなそうにしながら後に続いた。
ケロ君に限らず蚊屋野もちょっとだけ後ろめたい感じがあった。さっきまでいたのは病院の待合室と診察室だったのだが、今向かっているのは普段は家の人間しか入らない場所に違いない。どっちにしろ無断で空き家に入っていることは変わらないのだが、なぜか奥にある部屋に入るのは悪いことをしている気がしてしまう。
一階は主に病院でつかう部屋があって、先生の書斎などは二階にあるようだった。花屋が二階にあるいくつかの部屋の扉を開けて書斎を探し出した。
「これはスゴいっすね」
花屋の後ろから部屋の中を覗いた堂中が言った。確かにスゴい部屋だった。コンピュータとその周りに積み上げられた書類の山。ただの町医者の書斎には見えない。なんとなく、何かがありそうな雰囲気でもある。