Technólogia Vol. 1 - Pt. 30

Technologia

34. 適切な処置

 堂中が時々スマートフォンで地図を確認しながら彼らは急ぎ足でチカを追いかけた。蚊屋野が20年前に見た人間型のロボットは歩く事は出来ても走ったりするのはまだ得意ではなかったようだし、速く歩く事すら上手く出来なかった。それらのロボットに比べてチカはかなり人間に近い動きをしていたが、やはり走ったりするのは苦手なはずだった。堂中もまだ人間のように走れるロボットは見た事がないと言っていたし、研究室のコンピュータを使ってチカの動きを追跡した結果から考えても、早くは動けないに違いなかった。
 しかし、チカに追いつく前に蚊屋野達は街のはずれまで来てしまった。街のはずれといっても、昔はこの先も街だったのだが、ここからは灰の影響で建物が崩れて廃墟ばかりの場所が続いている。
「これじゃ追いつけない」
「ボクらが歩きづらいんだったらチカならなおさらっすよ」
花屋は悪路で追跡の速度が遅れる事を心配したが、堂中にはまだ余裕があった。そして、その余裕も出任せではなさそうだった。
「ほら、あれ…!」
そう言って、堂中が振り返ると口に人差し指を当てて静かにするようにと合図をした。
 少し離れたところから、瓦礫の山が崩れたような音が聞こえてくる。だが、周囲は完全に倒壊していない建物に囲まれて、見通しが悪くどこから音がしたのかは解らない。
「(ああ、確かになんかいるな。多分こっちだ。ついてきな)」
ケロ君の後を蚊屋野が追いかける。そしてケロ君が何をしたいのかをちょっと考えた後に花屋と堂中がその後に続いた。蚊屋野が半分崩れた塀の脇から向こう側を覗いている。後から来た二人も壁の後ろに隠れるようにして蚊屋野の隣まで来た。
「いたよ。あそこ」
蚊屋野に言われて二人も塀の向こうを覗いた。すると少し離れた場所にある建物にチカが入っていくのが見えた。建物と言っても地上部分は半分以上崩れていて、中も外と変わらないのだが、地下はまだ元のままのようだ。
「行ってみましょう」
花屋が歩き出そうとすると蚊屋野がその前に手を伸ばして彼女を制止した。
「ちょっと、様子を見てみない?」
「何でですか?」
「せっかく見付けたんすよ。それにここからじゃ様子は解らないっす」
花屋も堂中もどうして様子を見る必要があるのか?と疑問に思っているようだった。だが、蚊屋野はチカの姿を見て再び何か形にならない恐怖のようなものが胸に沸き上がってくるのを感じていたのだ。「みんな殺されちゃうよ」って一体どういう事なのか。ここに来て急にそれが気になってきたのだ。
「おかしいと思われるかもしれないけど、これは言っておく事にするよ」
蚊屋野の表情があまりにもこわばっているので、花屋と堂中は少し驚いて彼の顔を見ている。
「真智野先生はどうしてチカの機能を止めたんだと思う?」
蚊屋野が言ったが、それはすでに堂中が推測していた。
「さっきも言ったっすけど。チカの警告がうるさかった、って事だと思ってるっす」
「ああ、そういえばさっき言ってたっけ。…でも、もしその警告を気にせずに治療を続けて、それで住民達が全員おかしくなってしまった、って事になったらどうなってたんだろう?」
「それが今の状態なんじゃないですか?マモル君が言ってたように、チカが住民達に適切な処置をするためにここに来ている。それをちゃんと見届けないと私達は次に何をすべきか解らない。そういう事なんじゃないですか?」
「それもそうなんだけど」
蚊屋野は今、二人から面倒な人だと思われているに違いないと思っていた。だが、もしも彼の頭をよぎった恐ろしい光景が現実になるかも知れないと思うと、そんな事にはかまっていられない。
「その処置っていうのが、まともに見届けられないようなものだとしたら?ってことなんだよ」
「ハッキリ言ってください」
花屋は思わぬところで時間を取られて少し苛立っている様子だった。こうなるとハッキリ言うしかない。
「つまり、適切な処置っていうのが、住民達を全員殺す事だとしたら」
花屋は驚いて一度言葉を詰まらせたが、何とか口を開いて反論した。
「だって、ロボットは人に危害を加えたり出来ないようになってるんでしょ?」
そう言ってから堂中の方を振り返った花屋だったが、堂中の頭の中では様々な可能性がグルグル回っているような状態だった。蚊屋野の言う事にも一理あるような気もする。堂中の頭の中にある考えは、どれも「なくはない話」なのだが、その中でどれが一番「ありそうな話」なのかを選択しているような感じだ。そして結論が出た。だがあまり言いたくないものでもある。
「変わり果てた住民達が他の人間を襲うって事になると、その辺の判断は難しくなるっすよ」
堂中が言うと花屋の顔色が青ざめていった。あの女の子の姿をしたロボットが住民達を殺していく姿は想像したくもない。
「だったら、なおさらこんなところにいるべきじゃないですよ」
「でも、もしそんな事が起こるとして、チカを止める方法が解んないっすよ」
「そんな事を考えてるうちに住民達が助からなくなる」
確かにそれもそうだ。何が起きてもその場で対処するしかないのか。堂中は仕方なく花屋に従う事にした。蚊屋野はまだ気が進まなかったのだが、ここはついていくしかない。
 三人はチカが入っていった建物へと向かった。
「(悪いがオレはここで見張りをやるぜ)」
蚊屋野はケロ君がちょっと羨ましいと思いながら、入り口の前に座ったケロ君の頭を撫でてから中に入っていった。
 その建物はかつて大きなスーパーマーケットのような場所だったのか、部屋が細かく別れている様子はなくて、フロア全体が大きなスペースになっていた。恐らく地下に降りてもそんな感じに違いない。彼らは天井が崩れ落ちて月明かりに照らされている場所に地下に降りる階段を見付けた。
 チカの姿はどこにも見当たらないが、なるべく気付かれないように、松明に火を付けずに階段を降りていく。手探りで、ユックリと階段を進む。ここで足を滑らせて転んだりすると、わざわざ暗い中を進んでいる意味がなくなる。三人ともそれは解っているので慎重に足下を確認しながら階段を最後まで降りていった。
 地下に降りると三人は足を止めて辺りの様子を窺った。真っ暗で何の音もしない。チカはまだここに来ていないのだろうか?
 外の明かりは階段の下までわずかながら届いている。その明かりで目の前にドアがあるのが解った。
「開けるの…?」
蚊屋野が小声で聞いた。開けなければ他に行く場所はないのだし、開けるほかない。
「蚊屋野さん」
そう言って花屋が蚊屋野に松明を一本渡した。明かりをつけろという事ではなくて、何かがあったらそれで応戦しろという事のようだ。蚊屋野が頷いてそれを受け取った。そして、蚊屋野と花屋が松明を持って構えている前で堂中が扉を開けた。
 ゆっくりと扉が開くと、その先に黒い空間が広がっていく。目をこらしても何も見えない。そして、最後に堂中がドアノブから手を離した時に、回していたドアノブが自動的に元に戻って、その小さな音がカチャッと遠くまで響いた。
「入るの…?」
入らないと意味はないというのも知っていたが、気が進まないという意思表示だけはする蚊屋野だった。
 中に入るともうほとんど何も見えない。仕方ないので一度立ち止まってまた様子を窺った。ここはあまりにも静かだ。
「誰もいないんすかね?」
声をひそめて言った堂中だが、その声が大きく感じられる。
「じゃあ、明かりをつけてみましょう」
花屋が言うと、オイルライターに火を付ける音がした。するとすぐに松明が燃え上がり大きな炎が辺りを照らした。花屋がそのまま松明を高く掲げた。
 そして次の瞬間、三人は絶望的な気持ちになるのだった。
 誰も何も言わない。あるいは声が出ないのかも知れないが、声を出して確認しなくても自分達の状況はすぐに解った。この広い地下室のいたるところに住民達がいて、彼らは膝を抱えてうずくまった姿勢で不意に灯された明かりの方をじっと見つめているのである。
 松明の明かりが届く範囲だけでも数十人の住民がいるようだ。実際にこの地下室がどのくらい広いのかは解らないが、元々の街の規模から考えても住民のほとんどがここにいるに違いない。いったい真智野先生はどういう方法で彼らに治療を施したのか。数百の人間が魂が抜けたようになって、ただ周囲の物事に反応して動いているような状態だ。
 そして、今なにかが起これば昨日の夜のように彼らが暴れ出して、蚊屋野達もどうなるか解らない。
「ゆっくり…。ゆっくり動いて。ドアの方へ行きましょう」
花屋は冷静になろうとしているようだったが、その声はほとんど震えている。ただ、この場合そうやって声を出して指示が出来るだけでも充分に彼女の役割は果たせている。
 住民達に見つめられる中で三人はゆっくり後ずさって行く。出来れば走って逃げたい気もするのだが、今は彼らに刺激を与えるのはマズい感じだ。理由は解らないがとにかくそんな雰囲気なのだ。
 一番最後に入った蚊屋野が今は一番先頭ということになる。体は部屋の中の方に向けて、住民達に背を向けないようにして歩いているので、時々振り返って扉の方を見ないといけない。ゆっくり進んでいるので、扉がスゴく遠くに感じる。そして、また部屋の中を向いてからもう一度扉の方を確認する。そこでまたギョッとする事になった。
 蚊屋野が止まったので、後ろに注意を向けたままの二人が蚊屋野にぶつかった。何かと思って扉の方を向くとそこに人の影が見える。階段の方から幽かに射している光のなかに浮かび上がっているのは髪の長い女の子。
 あれはチカなのか、それとも生きていないはずの千歌のほうなのか。どっちでもイヤなのだが蚊屋野は出来れば今は幽霊の方の千歌であって欲しいと思った。しかし、後ろの二人もそこにいる何かに気付いているようなので、あまり期待は出来ない。
 前に進むのか後ろに戻るのか。
 立ち止まって考えている間に物事は勝手に進んで行く。扉のほうからブーンという低く唸るような音がしたかと思うと、そこにいた人影の目の辺りが光り出した。思ったとおり、そこにいたのは幽霊ではなくてロボットのチカだった。
 チカの目はどうして光っているのか。それは周囲を照らすためではなさそうだ。だとすると目的は一つしか考えられない。そこに気付いた時に蚊屋野達の背後の暗闇から耳に刺さるような叫び声が聞こえた。体育館で聞いたあの恐ろしい叫び声がすぐ近くでしている。
「走って!」
花屋に言われて蚊屋野は何も考えずに走り出した。扉までは走ればすぐなのだが、そこにはチカがいて目がチカチカ。ホントにこのまま走っていても良いのか?と思っていると、今度は「閉めて!」という花屋の声がした。「なんで?」と思った蚊屋野だったが、パニック状態なので言われたとおりに体が動いてしまう。やっている本人も、なんとなくそうした方が助かりそうな気がしたのも確かである。
 蚊屋野が勢いよく扉を閉めると、その音が地下室に響き渡った。とりあえずチカの姿は見えなくなった。扉の所から部屋の中を振り返った蚊屋野は、花屋の持っている松明の明かりの中に住民の一人が走ってくるのを見た。マズいと思ったが、彼らの手前でその住民は立ち止まった。もうLEDの光がないと解ると、走っていた時とは全く違った様子で力なくうなだれると、また暗闇の中へと引き返していった。
 とりあえず一安心と思って蚊屋野は扉に背をもたせかけて息をつこうとしたのだが、その時に外からチカが扉を叩いた。途中まで出ていたため息が変な悲鳴になって、奇声を発しながら蚊屋野は肩で扉を押さえた。
「ち、チカ。研究室に戻りなさい」
扉を押さえながら蚊屋野がチカに命令した。
「現在、非常事態モードで動作中。音声によるコマンドは受け付けません」
扉の向こうからチカの声が聞こえた。それからチカが蚊屋野の体ごと扉を押した。開いた扉の隙間から少しだけチカの腕が見えたが、蚊屋野が慌てて足を突っ張って扉を押し戻した。それでも向こうからさらに強い力が加わっているのが解る。花屋と堂中も慌ててやって来て扉を押さえた。
 三人で押さえればロボットといえどもさすがにかなわないようで、扉は完全に閉まった。それを確認してドアノブを握っていた蚊屋野がそこについているツマミを回して鍵をかけた。
 鍵がかかってもチカは諦めていなかったようで、何度か扉をガタガタと動かしていた。それを見ながら蚊屋野はあの鍵をかけるツマミって何て名前なんだろう?と思ったりして、さらにこれってどこかで見たかな?とかも思っていた。蚊屋野がそんな事を考えているとチカはどっこかへ行ってしまったのか、扉は動かなくなった。
 ただ、これで一安心と言う事ではない。三人はここに閉じ込められている。どんな時に暴れ出すか解らない数百の「住民」達と一緒に。そしてチカは本当に住民達を殺しに来たのだろうか。
 三人とも、どうすれば良いのか考えていたが良い案が思い付かないので何も言わない。しばらくの間沈黙が続いていた。
 住民達はLEDの光がないと全く動かない。生きているのかも解らないぐらいに静かである。彼らはみな痩せ細っているのだが、もしかすると何も食べない代わりにほとんど動かないで体力の消耗を抑えているのかも知れない。ただLEDの光が恐くて、電灯が光ると暴れて壊そうとするのだが、それ以外はじっとして生きている。そんな気がした。
 地下室の沈黙にもだいぶ慣れてきたのだが、その時三人のいる場所と反対の方の端から物音がした。そしてそれと同時にそこに小さな明かりがついた。
「誰だ、そこにいるのは?」
怒鳴るような声が聞こえてくる。三人は目を凝らしたが、遠すぎて誰がいるのは解らない。ただ、なんとなくそれが誰なのかは推測できていた。
「火を消せ。ここは時々ガスが発生するんだ。引火したらどうなるか解ってるのか?」
それを聞いて花屋は持っていた松明の火を消そうとしたのだが、上手く消す方法がなくて困っていた。明かりをつける事だけを考えていたので、消す方法は考えてなかった。息を吹きかけて消えるような大きさの火でもない。花屋が困っていると、堂中が近くにあった小さめの鉄のゴミ箱を持ってきた。それを上から火にかぶせると火が消えた。
 急に暗くなって目の前には火の残像がチラチラしていたが、次第に向こうから小さな明かりが近づいて来るのが解った。近くに来るとそれが懐中電灯の明かりだという事は解ったが、住民達が無反応という事は豆電球を使っている古いタイプのものだろう。
 懐中電灯の明かりが三人の前まで来ると、その人は懐中電灯の明かりが上を向くように床に置いた。さっきの松明に比べると暗すぎるが、そこにいるのがどんな人なのかはだいたい解った。
「真智野先生ですか?」
花屋が聞いた。それは恐らく真智野先生で間違いないのだが、病院にあったあの写真の真智野先生とはかなり印象が違う。髪はボサボサで髭も伸びていて、そしてゲッソリ痩せて頬や目の下に濃い影が出来ている。
「ここで何が起きたんすか?」
「いきなりやって来て街をメチャクチャにしたどこの誰かも解らない人間にそんな事を教える必要があると思うか?」
真智野先生は冷たい声で話す。花屋は真智野先生がこんな人ではないはずだと思っていた。会ったのは昔のことなので記憶が曖昧なのかも知れないが、でもこんなに恐ろしい声だったらもっと記憶に残っているはずだ。彼のしていた研究とその結果の事を考えたらそうなるのも無理はないのかも知れないが。
「あの、勝手に電気を付けたことは謝ります。私達は東京に向かっている途中でこの街に立ち寄りました。私の名前は中野花屋」
花屋は言いながら先生が自分の名前から祖父の事などを思い出してくれたら良いと思っていたのだが、先生は聞いているのかどうか解らないような態度で三人の顔を順番に覗き込んでいた。
「ここで何が起きたか、って?」
真智野先生が唐突に話し始めた。
「ここでは何も起きていないように思えるがね。私は医者としてこの街を救う事にした。そして今はその治療の途中だ。そう。適切な処置を施せば良いのだ」
「それよりも、その治療は中止にすべきじゃないんすか。この状況を見れば誰だっておかしいのに気付くはずっすよ。それに先生一人じゃ適切な処置っていっても…」
「マモル君。その辺にしといたほうが。ここは先生にまかせて、ボクらはこの辺で失礼しようよ」
真智野先生の持っているものに気付いた蚊屋野が堂中を制止した。先生は銃を手に持っている。そして銃口を三人の方へと向けた。
「まだ帰すワケにはいかないな」
銃を向けられて三人とも固まっている。
「それって、ホンモノ…?」
「試してみるか?」
真智野先生は蚊屋野に向かって銃を突き出すような動きをした。蚊屋野は思わず両手のひらを胸の所で前に向けて無抵抗の意志を示した。
「先生、こんなこと間違っていますよ」
今度は花屋の方に銃口が向けられる。
「間違ってなどいない!私は科学者だ。だからこの状況が予想と違う結果だということは解っている。だからこそ適切な処置をするというのだ。途中で投げ出して責任を誰かに押しつけるようなこともしないのだ。それが科学者だ…。おい、お前!ポケットから手を出せ!」
今度は堂中に銃口が向けられる。堂中は静かにポケットから手を出した。
「でも、それじゃあ、科学者って肩書きにかこつけてやりたいようにやってるようにしか…」
「お前はそれで説得しているつもりなのか?」
また蚊屋野に銃口が向けられる。余計な事は言わない方が良さそうだ。
「説得など無駄だ。この研究は始めるべきではなかった。だから関わったものは全員処分されなければいけない」
「処分ってまさか…」
蚊屋野はマズいと思っていた。ここにいる住民達を殺そうとしていたのはチカじゃなくて真智野先生だったのか?
「全員ここから生きて出られないだろうね。それが適切な処置だ。せっかくここまで来たんだ。もっと詳しいことを教えてあげても良いがな…。いや、それはやめておこう。何も知らずに死んだ方が後悔しなくてすむ。ただし私にとってこの街は…」
後悔とは誰の後悔なのか。悪人が正義の味方を追い詰めた時に、どうせ死ぬのだからと冥土の土産として意味もなく事の詳細を語ったりする。たいていの場合、それが原因で悪人は成敗されるというオチになる。そういう事で後悔しないためなのか、それとも三人がここへ来た事への後悔という意味なのか。どうでも良いが、そんな事も気になったりする。とにかく、どういう方法で処分されるのか解らないが、もうあまり時間がない事だけは確かだ。
「二人とも聞こえますか?」
真智野先生がまだ話している途中だったが堂中がささやくように言った。二人とも返事はしなかったが堂中は先を続けた。
「これから爆弾を投げるから、逃げる準備を」
そう言うと堂中が手に握っていたものを真智野先生の前に放り投げた。それは回転しながら細い光を周囲に放射しながら先生の前に落ちた。それはキーホルダーサイズの懐中電灯だった。そしてもちろんLEDだ。さっき堂中がポケットに手を入れていたのはそれをコッソリ取り出すためだったようだ。
 部屋中から住民達の叫び声が上がった。
「今だ、逃げろ!」
真智野先生は何が起きたのか解らないままだったが、周りから住民達が迫ってくるのには気付いて両手で頭をおさえてうずくまった。先生はアッという間に住民達に囲まれた。
 三人は部屋の外に出た。念のためにまた鍵をかけてから逃げたかったのだが、外からでは鍵穴に鍵を入れて回さないと鍵はかけられないようになっていた。階段を上っていくとケロ君が吠えているのが聞こえる。
「(おい、まずいぜ。ガスのニオイだ)」
「それは多分メタンか何かだと思うけど。今はそれどころじゃないんだ」
「(そうじゃねえよ。これは爆発するヤツだ。かなりの量だぜ)」
「って、どういうことだ?」
蚊屋野がケロ君と喋っているのは、端から見ると蚊屋野が一人で喋っているように見えるので、花屋と堂中は蚊屋野がパニックでおかしくなっているのかと思ってしまう。
 それはともかく、蚊屋野は爆発するということの意味を考えていた。真智野先生は松明の火を消せと言ったが、それはもしかして彼の計画の邪魔になるから言った事だったのだろうか。本当はあの地下のフロアにガスを充満させて爆発させるのが目的だったのかも知れない。
「逃げないと。ここは爆発するよ」
蚊屋野としても確信はなかったが、ケロ君もそう言っていたし、あの先生の様子から考えてもそのくらいの事はしそうだった。
「処分ってそういことだったんすか?」
住民全員を一カ所に集めて、その場所を爆発させるのは手っ取り早いやり方である。
「あの人達はどうするんですか?」
花屋は地下にいた住民達を助けたいようだった。しかし、彼らにそこが爆発するから危険であると、どうすれば教える事が出来るのか。地下へ降りる階段の方を見ながら考えていたが、良い方法は思い付かなかった。爆発する前に三人だけで逃げるしかないのか、と思っているとあの叫び声が聞こえて来る。階段からそう遠くない場所に住民達がいるようだ。
 蚊屋野達は何が起きても大丈夫なように身構えながら階段の方を見ている。するとチカが階段を上ってくる。階段の上まで来たチカは振り返って目を光らせた。さっき地下でやっていたように、目からLEDの光線を発しているのだ。するとその目の光に反応して住民達が叫び声を上げてチカに駆け寄ってくる。住民達が近くまで来るとチカは目の明かりを消して建物の外まで移動した。そこでまた振り返ると、階段の上まで昇ってきていた住民達に向かって目を光らせる。住民達はまた叫び声を上げてチカの方へ走ってくる。チカが住民達を助けようとしているようだ。
「そうか、そうすれば良いのか!マモル君。予備のモバイルある?」
ここではスマートフォンではなくモバイルと呼ぶのが一般的なのか。それはどうでも良いが堂中は花屋に言われると少し怪訝な表情でポケットからスマートフォンを取り出した。
「あるけど。…まさか」
「あの人達だって生きてるんだから、助けないと。マモル君はここにいて。蚊屋野さんは向こうで待ってて」
花屋は蚊屋野を建物から離れた場所に待機させた。そして自分は堂中から借りたスマートフォンを持ってさっきの建物へ入っていった。最初にチカがおびき出した数人の住人はチカを追いかけてすでに建物を出ていた。だが地下にはまだ沢山の住人がいるはずだ。
 花屋は駆け足で階段を降りて扉から地下のフロアを覗き込んだ。さらにガスの量が増えたのか、息苦しい気がする。さっきの騒動で怪我をした真智野先生がうずくまっているのが見えたが、彼は後回しにするしかない。地下は扉の外に立ってスマートフォンのライトを付けてその光を扉の中に向けた。光に気付いた住民達が一斉に叫び声を上げる。
 花屋は今すぐ走って逃げたかったが、もっと彼らを近くまで引きつけないといけない。暗闇の中で大勢が足音を立ててそれがフロアに響き渡って、建物が揺れているような感覚になる。そしてその足音はどんどん迫ってくる。
 もう少し。もう限界だと思ったが花屋はさらに待った。そして、先頭を走る住民の姿が確認出来るほど近くまで来ると急いで階段を駆け上がった。
 LEDライトを追いかける時の住民は驚くほど足が速い。花屋も足には自信があったのだが、思った以上に速くて住民達に追いつかれてしまいそうだ。だがそういう時のために上に二人を待たせてあるのだ。
 外で待っていた堂中と蚊屋野は花屋が階段を上って外に出てくるのを見た。そしてその後から住民達が大量に噴き出すかのように出てくる。
「カヤっぺ、急げ!」
堂中が声をかけたのだが、もう住民の一人が花屋に手の届きそうな所まで迫っていた。
「マモル君。取って!」
花屋が言いながら明かりの点いたままのスマートフォンを堂中の方へ放り投げた。「なんで?」と思った堂中だったがとりあえず自分の方へ飛んでくるスマートフォンを落ちないように捕った。花屋が横にそれると、その脇を住民達が走りすぎていく。向かっているのはもちろん堂中の方だ。堂中は自分の所へ住民達が走ってくるのを見て「そういうことか」と思って走り出した。向かったのは蚊屋野のいる方向だ。
 その様子を見ていた蚊屋野は、どうしてそんな無茶なことをするのか?と思っていたのだが、このままだと自分もその無茶な計画に参加する事になりそうだ。堂中と住民達の距離はかなりあったのだが、それはすぐに縮まって今は堂中の後ろに住民達が迫っていた。
「蚊屋野さん、まかせるっす」
そろそろ限界だと思った堂中がそう言ってスマートフォンを蚊屋野に投げた。蚊屋野も上手くそれを受け取る事は出来たのだが、これからどうすれば良いのか?と考えてゾッとしている。次は誰にこれを渡せば良いのか?そんな事を考える間もなく、住民の叫び声がすると蚊屋野は反射的に走り出した。
 ずっと走って逃げないといけないのか。それとも、どこかに隠れる場所があるのか。走りながら安全な場所を探したが、崩れた建物ばかりで隠れられるような場所はない。後ろからは住民達がスゴい勢いで迫ってきているが、蚊屋野の息はそろそろ切れ始めている。
 マズい、ヤバい、どうしよう。蚊屋野はそろそろ限界を感じていた。手から力が抜けてスマートフォンを落としそうになったが、落ちる前になんとか掴む事ができた。その拍子に何かのボタンを押したようで、真っ黒だったスマートフォンの画面に何かが表示された。蚊屋野は必死で逃げていたのがなんとなく恥ずかしくなってしまった。画面にはライトをオン/オフするためのアプリが表示されている。
 蚊屋野が立ち止まってスマートフォンのライトを消した。振り返ると住民達の動きも止まっていた。その後ろから花屋と堂中が走ってきた。
「蚊屋野さんは走らなくても良かったのに」
花屋に言われてやっぱりちょっと恥ずかしい蚊屋野。
「まあ、念のために遠くにいた方が良いし」
蚊屋野が誤魔化したが特にどうでもイイような感じの花屋は蚊屋野からスマートフォンを受け取った。
「まだ下にいるからもう一回やりましょう」
そう言うと花屋はまた一人でさっきの建物の方へ向かった。だが少し進むと後ろからケロ君が吠えながら追いかけてきて花屋の足にまとわりついてきた。
「ちょっと、邪魔しないで」
花屋が言ったがケロ君はけたたましく吠えてやめようとしない。
 少し離れた所から見ていた蚊屋野は何をしているのか?と思っていたが、あの地下が今どういう状況なのか、ということを思い出した。
「花屋さん。もう間に合わない」
蚊屋野と堂中が花屋を引き留めようと走り出した時だった。
 爆音と共に地響きがすると、地下に続く階段から火が上がった。蚊屋野達のいる場所まで熱風が届いた。そしてゴムやプラスチックなどが燃える時のイヤなニオイが漂ってくる。花屋はさっきの場所でうずくまったままだ。
「カヤっぺ、大丈夫か?」
花屋の所に堂中と蚊屋野が駆け寄って顔を覗き込んだ。特に怪我をしている様子はなかったが、うずくまったまま涙を流している。
「(危ないところだったな)」
「ああ、良くやったな、ケロ君」
蚊屋野はケロ君の頭を撫でたが、そのあいだ花屋はずっとうずくまったままだ。
 堂中は少し離れたところにチカの姿を見付けた。辺りを見回して何が起きたのか分析しているように見える。
「オレちょっと行って調べてくるっす。ここ頼みます」
堂中がチカの所へ走って行く。花屋は相変わらず泣いたままだ。
「(花屋は優しいんだな。おい、オマエなんか言ってあげた方が良いんじゃないか?)」
ケロ君に言われるまでもなく、蚊屋野はさっきから何て言えばいいのか解らずに困っているのだった。自分達は精一杯の事をやったのだし、それで良いのだ、とかそんな感じのことを言えば良いのだろうか。
「みんな優しい人達ばっかりだと思ってたのに…。なんで先生はあんなことをしたんだろう」
蚊屋野が何か言う前に花屋が顔を上げていった。ホコリまみれの顔に流れた涙が黒い線になっている。
「まだ下には沢山人がいたのに」
そう言いながら花屋の頬にまた涙が流れてくる。
「先生のは…。真智野先生はあれも愛だったんだと思うよ」
蚊屋野の言った事は意味不明だ。ワケが解らなかったが、なんとなく伝わったのか、花屋はただ頷いた。愛とはワケが解らないものだ。

 それから蚊屋野達は学校の研究室に戻った。あの爆発の後、チカが建物の中を調べたが生存者はいなかったようだ。ガスに火を付けたのが真智野先生だとすると彼も生きていないだろう。何とか助け出した数十人の住民達はチカがLEDを付けたり消したりする作戦で先導して体育館に連れてきた。地下の研究室では堂中がそこにある機材を使って電波の変換装置を作っていた。それで壊れた電波塔を直して、ここに救助を呼ぶことにしたようだ。優秀な科学者を呼ぶ事が出来たら、生き残った住民達を元のまともな人間に戻す事が出来るかも知れない。
 これでやっとぐっすり眠れる。明日からはまた東京へ向けて旅が続くことになる。花屋も堂中も体育館から持ってきたマットの上ですでに寝てしまったが、蚊屋野だけはまだ眠れていない。疲れ切っているので眠れないワケはないのだが、やり残した事があって眠れないのだ。
 本当は行きたくないが蚊屋野は観念したように起き上がった。そしてトイレに向かった。真夜中の学校のトイレは夕暮れ時よりもさらに恐い。しかし用を足さないと眠れないので仕方がない。
 急いでも急げないあのもどかしさをまた感じながら全てを出し終えると急いで外に出て、また手を洗っていない事に気づいて再びトイレに入る。そしてようやくホッとしてまた外に出た時、廊下の先に人の姿が見えたような気がした。
 またか、と思った蚊屋野だったが、もうその後を追いかける必要はないと思って、何もせずに研究室まで戻ってきた。今はなにもこの眠気には勝てないようだ。

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