Technólogia Vol. 1 - Pt. 36

Technologia

41. 交渉人

 蚊屋野はハッとして目を開けた。こういう目覚め方はある種の緊張感の中で眠っている時に良くあることだった。例えば、いつもより早く起きないといけない用事があるのに寝過ごしてしまったような気がしてハッとして目を開けるとか。実際には起きる予定の時間の前だったり、思ったとおり寝過ごしていたり、その時によって様々ではあるが、緊張している時にはそんな目覚め方をするのだ。
 外はもう明るくなっている。昨晩はなかなか寝付けなかった蚊屋野だが、それまでの疲れもあって一度眠ってしまうと一瞬で朝になった感じがする。蚊屋野は横になったまま急に目覚めた理由を考えていた。誰かが自分のことを呼んだようにも思えたのだが、気のせいだったのか。そんな事を考えていると隣の部屋からケロ君が低めの音で小さく吠えているのが聞こえて来た。確かに呼ばれていたのかも知れないと思って蚊屋野は起き上がった。
 まだ寝起きでボーッとしている状態で服を着たりしていた蚊屋野は、その間に何度かケロ君が吠えるのを聞いた。そうしているうちにどこか不安な気分になってくる。ケロ君が吠えているのに花屋が何もしないのは変な気がする。もしかして花屋に何かがあってケロ君が吠えているのかも知れない。蚊屋野はハッとして目を開けた時のあの感じを思い出すと急いで部屋を出た。
 部屋を出るとここの住人達が数人いて、彼らの視線が蚊屋野に向けられたのに気付いた。彼らはたまたまそこにいるように振る舞っているが、蚊屋野達を監視しているのは大体解る。蚊屋野は視線を感じながら隣の部屋の前まで行くと扉をノックした。
「花屋さん、起きてる?」
蚊屋野が大きめの声で言った後、耳を澄まして中の様子をうかがっていた。しばらくすると「うーん…」という返事が返ってきた。それは「起きてなかったけど今起きて、そしてそろそろ起きないといけない時間なのは知っているがまだ寝ていたい」という意味の「うーん…」だと思われる。
「花屋さん。ケロ君が吠えてるみたいなんだけど…」
蚊屋野が言うと中ではケロ君がさっきよりも大きく吠えた。
「ちょっと待ってて」
という花屋の声がしたあとにさらにケロ君が吠える。どうも何かが起きているのは花屋にではなくてケロ君の方のような気がしてくる。
 部屋の扉が開くと花屋が毛布をマントのようにして体をくるんで立っていた。起き上がってはいるがまだ寝ているような顔で、やっとのことで目を開けているようにも見える。その足下をケロ君が通り過ぎて部屋から出て来た。
「ケロちゃんどうしたの?」
花屋が聞いたがケロ君はそんな事は気にせずに蚊屋野の足下に飛びついてくる。
「(ああ、助かったぜ。早く外に連れてってくれないと、ここを小便の海にするぜ)」
そういう事だったのか、と蚊屋野は拍子抜けした感じがしたが、ケロ君にとっては一大事でもあった。
 蚊屋野はケロ君を連れて塔を降りて外に出た。塔から出る時に扉のところにいた警備役の男にどこに行くのか聞かれたが、イヌの散歩だと言うと特に怪しまれずに出ることができた。だが部屋を出た時に監視されていると感じたり、出入り口には警備をする人間がいたり、ここではあまり自由に動き回れないようにも思えた。そこを考えると花屋ではなくて蚊屋野がケロ君を連れ出したのは運が良かったのかも知れない。
「もしかしてボクを呼ぶために部屋で吠えてたりしたの?」
人のいない茂みの中に入った時に蚊屋野がケロ君に確認してみた。
「(何言ってんだ。わざわざオマエに外に連れて行ってもらおうなんて思わないぜ。花屋には珍しく物音がしても全く目を覚まさなかったからな。オマエが気付いてくれて良かった)」
恐らく花屋が起きなかったのは昨夜の食事に入っていた「眠り薬」のせいだろう。何が入っていたのか知らないが、そうとう効く薬だったに違いない。
「でもそのおかげでわざわざ面倒な作戦を立てる必要がなくなったけどね」
「(何の話だ?)」
「どうもここで起きている事はそんなに単純じゃないようなんだよね。それでキミにも手伝ってもらいたいんだけど」
「(ああ、そのことか。昨日オマエ達がボソボソ喋ってるのは聞いてたぜ。オレは最初から変だと思っていたがな。それで、オレにどうしろっていうんだ?)」
「ボクらが街に交渉に行ってる間にこの街のことを色々と嗅ぎ回って欲しいんだけど。予言者様は表向きには指導者って事になってるけど、裏にインチキな科学者がいて悪いことを企んでるらしいんだよ」
「(なんだスパイか。あんまりコソコソするのは性に合わないんだが)」
「コソコソしなくても、誰もイヌが見聞きした事を人間に報告するとは思ってないから大丈夫だよ。あちこち歩き回って彼らが何か言ってたりしたら聞いておいて欲しいんだ」
「(まあ、やってみるさ。オレもこんなところで足止めはごめんだからな)」
蚊屋野とケロ君が茂みの中で作戦会議を終えて出てきた時だった。頭上で鉄を打つカーンという音がして彼らはビックリして音のした方を見上げた。見ると塔の屋上に男がいて、屋上に突き出でている鉄骨を鉄の棒で叩いている。一定の間隔で響いてくるその音は何かの合図なのだろうか。
「(やっぱりここのヤツらはちょっと変わってるな)」
ケロ君には鉄の音が耳障りなのか、鉄を打つ音が聞こえる度に耳がピクッと後ろの方に動いていた。鉄を打つ音はさらに続いた。蚊屋野は次第に塔の周りに住人達が集まってきているのに気がついた。何が始まるのかと思っていると、塔の屋上に予言者様が現れた。
 例のガウンのような和服のような服を着ている予言者様がそこで両手を広げると、広い袖の部分が垂れ下がって鳥の羽のように見える。その状態で予言者様はユックリとした動きで円を描くように屋上を歩いている。歩くと言うよりは踊っているのかも知れない。高齢の予言者様なのでその辺は良く解らないが。
 その姿を見て下にいる住民達は両手を胸の前に組んで祈るようにしている。これはきっと予言者様の有り難い鳥の舞という事なのだろう。
「確かにね」
蚊屋野は住人達に聞こえないように小さな声でケロ君に返した。

 その後すぐに蚊屋野達は朝食のために大きな部屋に通された。夕食は彼らの部屋で食べたのだが、朝は忙しいのでこの食堂のような場所でみんなで食べる、というこのシステムがなんとなく旅館みたいだと思った蚊屋野だが、それはどうでもイイ。
 それなりに豪華だった昨晩の夕食とはちがって、朝食はこの世界の人達の主食である味のしないあの食糧だった。ここで朝食を食べている人達はこの塔で予言者様のために働いている人ということなのだろう。尾山という大男の姿もあるし、蚊屋野達の部屋に食事を運んできた平山さんと盛山さんの姿も確認できた。彼女達は敢えて蚊屋野達の方を見ないようにしているようだったので、蚊屋野も彼女達をジロジロ見るのをやめた。
 彼女達がそんな様子だということは、この中に裏で糸を引いているインチキな科学者というのもいるのかも知れない。蚊屋野はもっと周りを確認したいと思ったのだが、ここにいる全員が黙々と食事をしている状況なので横を見たりしているだけでも目立ってしまう。ここは周りに合わせて黙って食べるしかなさそうだ。だが、この食糧は黙って食べるのが辛くなるほど味がしない。やはり気を紛らさせるために目線だけでもあちこち動かしていた蚊屋野だが、前に座っている花屋の襟元にフォウチュン・バァのペンダントがあるのに気付いた。
 あのペンダントをもらった時には迷惑そうだったし、これまでもそんなものを付けていたのは見た事がないが、どうして今朝に限ってそんなものを付けているのか。ここの人達全員が自分達を監視しているような状況の中で、花屋はその行動によって何かを伝えようとしているのではないか?と思った蚊屋野はそこが気になってきた。おかげで味のない食糧は考えている間に食べ終えることができたのだが、その謎に関してはまったく答えが見えてこなかった。そして、もっと他に考えるべき事があったはずだと、すこし後悔してた。
 蚊屋野が余計な事を考えている間に朝食の時間は終わり、すぐに彼らは出発しなければならなくなった。もっとこれからすべき事を考えておくべきだったかも知れないが、大体のことは昨日の夜に堂中と話し合っていたし、なんとかなるだろう。なんとかならなければそれまでだが。その前にどうして彼らがこんな事に巻き込まれているのか、ということからして謎なので考えても結論は出ない話でもある。
 それでも、準備のために一度部屋に戻った蚊屋野は花屋が着けていたフォウチュン・バァのペンダントが気になったので、自分もカバンの中からペンダントを出して着けてみた。
「珍しいっすね。そんなの着けるなんて」
堂中に聞かれてなんとなく気まずい感じもする蚊屋野だった。
「なんていうか。何かが見えてくるんじゃないか?とか思ってね」
そんなもので何かが見えたりしたら、そんなに楽な話はないということだが、時々こういうものにすがりたくなることもあるということだ。
「じゃあ、せっかくだしボクもつけようかな」
そして堂中でさえもそんな気分ということのようだ。何が起きているのか解らない状況で、街の人に東京との関係を絶つように説得し、なおかつ予言者様を裏で操る偽の科学者の思いどおりにはさせない。そんな器用な事をするのは、まともに考えると無理に思えてくるので、堂中みたいな人間でも占い師のお守りペンダントを着けてしまうのだろう。

 蚊屋野達三人が塔の出入り口を出ると尾山が待っていた。昨日よりもずいぶんやつれているように見えるのは、彼が昨晩ほとんど眠れなかったからに違いない。体は大きいし灰の影響を受けていない健康体ではあるのだが、彼の性格を考えるとこの交渉という任務は彼には少し荷が重すぎるのかも知れない。
 睡眠不足ということでは蚊屋野と堂中も同じだったが、尾山の顔色の悪さはそれ以上である。その中で眠り薬のせいで深い眠りにつけた花屋だけが今ではすっかり目が覚めて活き活きした表情をしている。
「遅いぞ、オマエ達」
兵隊の隊長というものは、たとえ時間どおりでもこういうことを言うものだと思っている尾山が言ったが、今日は緊張と寝不足のせいでスゴみに欠けている。それに蚊屋野と堂中も昨日の夜に聞いた話から尾山がどういう人なのか大体見当がついていた。
 どうして街を乗っ取ろうと企むような人達の兵隊長にこういう気の優しい人が選ばれるのかという感じだが、それはこういうことだ。
 子供の頃から体は大きかった尾山だが、他の子供達のように外で遊ぶのは好きではなかった。彼はいつも家の中で絵を描いたり子供向けのDVDを見たりして過ごしていた。彼の子供の頃はまだ灰の影響が知られていなかったため、外で遊んでいた子供達のほとんどが弱体化していったのだが、家の中が好きだった尾山はいつの間にか一番強い人になっていたのだった。
 今だって部屋にこもって過ごしたいと思っているのだが、皮肉なことにそういう彼の性質のために彼は丈夫な体になってしまった。そして一番彼に向いていない仕事をする羽目になってしまったのである。
 尾山はこれから自分に向いてない仕事の中でも最もやりたくない事のために街まで行かないといけない。実は予言者様からは、交渉が上手く行かなければ力で解決することもやむを得ない、というような事を言われているのだ。もちろん優しい彼はそんな事はしたくないのだが、予言者様には逆らえないし板挟みの状態なのだ。眠れずに顔色が悪いのも無理はない。
「なあ、昨日は悪かったな」
塔を離れて街に向かって歩き始めると尾山が蚊屋野に言った。蚊屋野の顔に出来たアザを見れば尾山が何を言いたかったのかは解る。
「いや、気にすることはないよ。命の危険にはこれまで何度もさらされてきたし。もっと酷い怪我も沢山してきたからね」
蚊屋野が明らかなウソを言ったが、彼らに会ったばかりの尾山はそれがウソとは気付かない。花屋は少し驚いていたが、堂中の口元がなんとなく引きつっているのを見て、ここは黙っているべきだと気付いたようだ。
「そ、そうなのか。実はな。オレ、人を殴ったのも昨日が初めてなんだ。それまではそんな事をしなくてもオレが一番強いってみんな知ってたからな。だけど、殴ってオマエが倒れた時には、なんだか取り返しのつかない事をしちまったんじゃないか、って心配になったんだが。部下達もいる手前、どうにも出来なくてな。…なあ、これからやる交渉が上手くいかなかったら、って考えると何だか恐くなるんだよな」
苦手な仕事の中でも一番やりたくない任務を前にして尾山はさらに気弱になっているようだ。これは蚊屋野達にとって好都合だ。東京と街との関係とか、偽の科学者達が何を企んでいるのかとか、そういう事が明らかになるまでは紛争状態なんてことにはなって欲しくない。もちろん事情がわかってからも争いは避けないといけないが。
「マモル君。ここではどの街でも銃が保管されているというのは本当だろうか?」
「そうですね。世界が崩壊してからは、それまで警察が管理していた銃器は警察署などの近くに出来た街でそれぞれ保管して管理することになりました」
蚊屋野と堂中の不自然なやりとりに花屋は思わず笑ってしまいそうになったが、ここで笑ったらダメなのは解っている。
「それじゃあ、ボクらのような普通の人間が銃で武装するなんて事は難しいんだね」
「そうですね。普通の人間には無理です。でも街の住人に危害が及ぶという事態になれば、街の管理者達は銃を持ち出すでしょう。それを禁止するルールもありませんし」
「そうか。それじゃあ、これからの交渉が失敗してもむやみに暴力に訴えるようなことはできないね」
「そうですよ。もし銃を使うような事態になれば、蚊屋野さんみたいな丈夫な人から狙われるでしょうね」
「それは勘弁して欲しいなあ。ただ他の人達よりも頑丈で力が強いだけなのに。銃で撃たれたりしたら、相当痛いんだろうね」
「痛いなんてもんじゃないですよ。まあ、考える間もなく死んでしまえば痛みもないですしね。即死なら運が良いと思った方が良いんじゃないですか」
花屋はそろそろ笑いをこらえるのが辛くなってきたのだが、そのとき尾山が二人の会話を遮るようにして言った。
「なあ、それ本当なのか?街のヤツらは銃を持ってるのか?」
尾山の顔は真っ青になっていた。
「みんなが持っているワケではないですよ。でもこれから会う人達か、その警護をする人は多分もっているんじゃないですか。街を明け渡せ、と交渉しに行くんですからね。こっちの態度によってはその場で射殺なんてことも…。ああ、これは考えすぎですかね」
尾山が今にも嗚咽を始めそうなほど顔色が悪いので、ちょっと調子に乗りすぎた堂中が悪いと思って話をやめた。しかし、蚊屋野と堂中の予想以上に尾山は気が小さかったので、簡単に彼を恐がらせることができたようだ。
 尾山はそれからずっと無口になり心なしか歩く速度も遅くなったようだが、しばらくすると彼らは街についた。彼らが来ることは解っていたようで、街の入り口では街の衛兵が彼らを迎えた。他の街にこんな衛兵のような人はいないのだが、この街では住民達が分裂してからはこういう警備の人がいないと安心できなくなったのだろう。
 街の衛兵達は刺股をもっていた。刺股とは元は江戸時代の道具だが、彼らが持っているのは20年前のものだ。暴漢を安全に押さえつけられるようにと、当時は小学校などにも配備されていたそうだが、そういうものを見つけ出して使っているのだろう。
 20年前なら警察が来るまで悪人を取り押さえるという目的で使えたのだが、今はどうやって使うのだろうか?もしも蚊屋野達が暴れてあの刺股で取り押さえられたとしても、警察が来るわけでもないし、いつまでもそのままのような気もするが。
 すぐに考えがあちこちに行ってしまう蚊屋野はそんな余計なことを考えてはいたが、そうしている間に交渉の時は近づいて来る。蚊屋野達は衛兵に囲まれながら街の真ん中にある市庁舎までやって来た。これまでの街と同様に、それは市庁舎として建てられたものではなくて、元からある施設を市庁舎として使っているものだ。体育館のような建物もあったのでまた学校を利用しているのかも知れないが、普通の学校にしては広すぎるので、もとは大学のキャンパスだったのかも知れない。蚊屋野の持っている20年前のスマートフォンならどこにいるのか解るので、調べてみたくなってしまったが、今こそは目の前の事に集中しなければ。
 蚊屋野達は市庁舎の一室に通された。そこにはすでに市長とその他に街の代表の二人が待っていた。これまで蚊屋野が会った街の代表者というと、最初に会ったのが人と関わるのが苦手な解りやすい科学者タイプの能内教授で、その次に会ったのが能内教授とは正反対の社交好きな箱根の市長だった。その次の街では、もしかすると市長に会っていたかも知れないが、そうだとしてもその人は人間ではない何かに姿を変えていたのだが。この街の市長は彼らとはまた違ったタイプの人間のような気がした。
 昨晩聞いた話では元からいた科学者は街を離れてしまったということだが、そう言われると今目の前にいる人は科学者には見えない。だがそれが逆に役所にいるのにふさわしい人間というふうにも見える。しかもこの世界ではあまり見る事のなかった地味なスーツまで着ている。
「どうぞ、おかけください」
市長が半分腰を上げながら手を前にある席の方に伸ばして言った。やっぱり役所っぽいと思っていた蚊屋野だが、尾山はこういう場所に慣れていないのか、モジモジしながら座ろうかどうか迷っているようだ。ここに来るまでも蚊屋野達の策略によってかなりのストレスを与えられていた尾山だが、蚊屋野はそんな姿の彼を見ると少し悪いことをしてしまった気分になっていた。
 尾山は蚊屋野達が椅子に座るのを見てから座った。
「それでは尾山さん、あとはよろしく」
尾山が座るのを見た花屋が言った。彼女は蚊屋野達がどうして途中で銃の話などをしていたのかちゃんと解っていたようだ。そして今の一言がデリケートな尾山にとってはかなりの打撃となったようだ。あとは尾山一人で話をしないといけないし、蚊屋野達は助けてもくれない。全てのプレッシャーが自分にのしかかってくる。花屋の一言にはそんな意味が込められているように感じられたのだ。
 予言者様に言われたことは守らないといけないが、そんな事をしたら、もしかするとここで射殺されるかも知れない。尾山はほとんどパニックになりながら、しどろもどろな交渉を始めることになった。話し始めの部分だけは言うことを考えていたのか、意味が解ったのだがその先は何を話しているのか誰にも解らなかった。
「というと、…えーと。どういう事ですかな?」
尾山がワケの解らない事を長々と話したあとで市長が言った。市長も困ってしまったようで、机に置かれている何かの資料をペラペラめくって見たりしているが、そんなものを見ても尾山の言いたいことは解らないに違いない。市長の隣にいる二人は、途中から蚊屋野達の事を見ながらお互いに耳打ちして何かを話し合っているようだった。尾山の話が終わった後に市長の隣にいた男が市長に耳打ちすると、市長は前を向いたまま二三度頷いた。そういうのはどうにも気になるが、それよりも尾山の頭の中が完全に混乱してしまって何も言えなくなっているので、そろそろなんとかしないといけない。
「どうやら折り合いがつかないようなので、今回はこれまでにしませんか」
堂中が言うと、尾山の緊張が少しだけ解けて彼の鼻から息が一気に吐き出る音が聞こえてきた。ホッと一息つく、というのを鼻でやったような感じだ。
「しかし、そうは言っても。キミ達はもっと我々に要求するところがあるのではないかね?」
市長はなぜかこの交渉らしきものを終わらせたくないようでもある。
「でもこちらの意見も解ってもらえてないようなので、一度帰って要求を再検討する必要があるかと思いまして」
堂中が言うと市長はまだ不満そうだったが、その時また隣の男が市長に耳打ちした。そしてさっきと同じように前を見たまま市長が頷いた。
「ならば、そうしてくれたまえ」
何だか解らないが上手く行ったようだ。この交渉では何も交渉されなかったのだが、とにかく争いが起きるような要素はまだなにもない。しかし、これだけでは時間稼ぎをしたに過ぎない。この街と予言者様のもとに集まった人々のゴタゴタをなんとか丸く収めるにはどうすれば良いのだろうか。
 とりあえず今は放心状態になっている尾山を連れて塔に帰るしかなさそうだ。

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