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45. 侵入者
塔の夜は静かである。そして塔の夜はたいていの場合やる事がない。この塔にある発電施設では無駄に使う電力は作れないというのが主な理由だ。最低限の明かりだけでは何をしようにも暗すぎる。なので夕食が終わってしばらくすると塔の住民はみな床につく。
今は廊下にいて「なんとなくそこにいる人」のフリをして花屋や堂中の居る部屋を監視している住人も、普段はとっくに寝ている時間なのでそろそろ眠くなっている。眠らないように廊下を行ったり来たりしてみたりもするが、頭の中はすでに寝ているような状態でもある。
今が行動を起こす時に違いない、と花屋は思った。あまり早すぎるとまだ寝ていない住民に見つかる可能性もあるが、遅すぎると自分達の時間も少なくなっていく。こういうタイミングを計るのは意外と難しいのだが、最終的には自分の勘に頼るしかない。焦っていれば早過ぎになるし、慎重すぎてもいけない。平常心を保つ。これもまた難しいことだが、それが出来ているかどうかの判断が出来ないことでもあるので、出来ていると思えば出来ているのである。つまり「やるしかない」ということなのだ。
花屋は部屋の奥の窓を開けた。蚊屋野達がいた部屋と同じくガラス窓ではなくて、開けるまで壁と区別が付かない感じのその窓から花屋は一度身を乗り出して下を覗き込んだ。さっきからすでに同じ事を何度もしているのだが、これからすることを考えるとやはり確認はしないといけない。
花屋は窓の縁をまたいで外に出た。窓の外には部屋の床よりも少し低い場所にひさしのようなもの突き出ていてそこに立つことができる。ただし、この建物自体があり合わせの材料を使って即席で作ったようなものなので、何をするにも気を抜くワケにはいかない。花屋は窓枠を掴んだ両手に力を入れて、自分の体重を支えながら爪先をひさしの上に降ろしてみた。そして、そのままゆっくりと両手の力を抜いていくと、手で支えていた体重がひさしの上にかかっていく。すこしたわんだような感覚があったが、花屋の体重で壊れるということはなさそうだった。
窓から外に出るという何でもない行動でも塔のてっぺんに近いところでやるのは大変なことである。まずは第一段階を終了したのだが、まだまだ息をつける状態ではない。ここから壁をよじ登って上の階に忍び込むのが花屋の目的なのだ。
塔の外壁はどこからか拾ってきたような様々な種類の木の板を釘で打ち付けて作られている。縦横の大きさがバラバラなものを組み合わせているので隙間は沢山ある。しかし、そういう隙間に手を入れて板を掴んだり、そこに足をかけたりするのは危険な気がする。釘で打ち付けられただけの板は花屋の体重を支えきれずに剥がれてしまうに違いない。
花屋はひさしをつたって塔の角のところまで行くことにした。20年前の鉄塔を基にして作れている塔なので、角のところは板などの木材も鉄骨に固定されて頑丈になっているはずなのだ。
ひさしを踏み抜いたりしないように慎重に確認しながら少しずつ角の方へ向かっていく。それまで掴んでいた窓枠には手が届かなくなったので、外壁の板の隙間を掴んで体を支えた。花屋が思ったとおり板を掴むとグラグラしていて、彼女の体重を支えることは出来そうにない。ということは、足を滑らしたりした時には、この板を掴んでも意味がないという事かも知れない。
そんな事を思ってゾッとした時に限って強い風が吹いてきたりする。あるいは、これまでもずっと風が吹いていたのだが、恐ろしい事を考えてしまったから風が強く感じただけかも知れないが。冬の乾燥した冷たい風が体にあたると、花屋の手に汗がにじんでくる。花屋は板を掴んでいた手を片方ずつ外して汗をズボンのモモのところで拭いてから先に進んだ。
神経を集中させたままユックリ進んで、やっとの事で塔の角のところに手が届くところまで来た。そこを見ると鉄骨の一部がむき出しになっている部分があった。そこに手をかけると冷たい鉄の感触が伝わってきたのだが、その冷たい感触よりもグラグラしないものがあるという安心感の方が有り難くて、花屋は少しだけホッとすることができた。
しかし、大変なのはここからである。花屋はさらに高いところに登らないといけない。しかも、頭の上にも、今彼女が足場代わりにしているようなひさしがある。そこによじ登るためには、一度宙ぶらりんの状態にならないといけないだろう。ひさしの幅は人が一人立てる程度だが壁から突き出ているところなので、足を壁の隙間に乗せたままそこに手をかけて登ることは無理にちがいない。
花屋が上を見上げるとまた強い風が吹いた。そしてまた手に汗がにじんできて、鉄塔の一部を掴んでいた手が滑るような感じがした。
こういうふうに緊張した場面で手に汗をかくのは、手が滑らないようにするためという話だが、鉄のようにツルツルしたものを掴んでいる時には逆効果である。大昔の人間はそんなものを掴むことがなかったのだろうが、そこから進化してツルツルしたものを発明してからかなり経つのに、体の機能は進化していないようだ。といっても、手からベトベトした妙な液体が出てくるのも気持ち悪いが。
花屋は頭の上に手を伸ばして鉄柱と木の板が交差しているところを掴んでみた。鉄柱には釘を打てないのでその部分は太めの縄が巻かれて固定されている。思ったとおりこっちの方が作りがしっかりしていて安全に登ることが出来そうだ。
この塔は各階の天井が低いので外から登る時も板を数枚分を登ると次の階のひさしに手が届く。花屋はまず自分の真上に手を伸ばしてひさしを掴んでみた。だがすぐに手を離して、また目の前の板を掴んだ。今は細い板の上に爪先だけが乗っている状態なので、花屋にはあまり迷っているヒマはないのだが、真っ直ぐ登るのは困難な気がしたようだ。
今いる場所から両手を頭の上に挙げてひさしの縁を掴むと手の力だけで登らないといけなくなる。それでも何とかよじ登る自信はあったのだが、その先を考えると体力を消耗しすぎることにもなりそうなのだ。そこで花屋は真上ではなくて、斜め上に挙げた右手を横向きにして自分から遠くへ向かって伸びている面のひさしの縁に手をかけた。
ここからは一気にスムーズにやらないといけない。なぜかというと、ちょっとでも考える時間が出来ると、また恐くなって手に汗をかいて、手を滑らせて落ちる危険があるからである。
花屋は左手を離してさっき右手で掴んだひさしの方へ伸ばした。そうすると上体が横向きになるので、左手でひさしを掴んだ時には自然と足が板から離れていった。今は手のひらが後ろを向いて、いわゆる逆手の状態でひさしからぶら下がっている。
ここで体の動きを止めてしまったら、わざわざ余計な動きをした意味がなくなってしまう。花屋はぶら下がったあとの微妙な重心の移動を感じ取って、タイミング良く両足を前方に振り上げた。そして、爪先が腰の辺りまであがると背中を丸めて爪先をさらに体の上の方へ持っていった。その勢いを利用して両腕で体をひさしの方へと引き上げる。花屋は逆上がりの要領でひさしの上に登ろうとしているようだ。これなら全身の力を有効に使えるので、あとで腕が疲れて動かせなくなるようなこともない。
塔の上でなければ簡単だったかも知れないが、無事にひさしの上に登った花屋は異常な緊張感で心臓の音が外まで聞こえそうなほど激しく鼓動しているのに気がついた。そして少し震えている手をギュッと握りしめた。ここでやっと一息つける。また強い風が吹いたが、今度は少し心地よさを感じたりもした。
風が吹き終わる頃に花屋はすでに次の行動に移っていた。外に出て最初にしたのと同じようにひさしをつたって今度は部屋ある方へと向かっていく。そして、花屋の部屋の上までくると窓を探した。もしかしてこの階に窓がないなんてことだと、これまでした苦労が台無しなのだが。花屋はそんな事は考えないようにした。だがガラス窓ではない、壁と一体化したような見た目の窓なので、近づかないとあるのかどうか解らない。花屋は祈るような思いでそこに窓があるのか確認した。
蝶番がある。ということはそれが窓だということだ。花屋は一度そこに立ち止まった。窓には隙間があるが暗くて中は見えない。耳を澄ましてみても音は聞こえてこなかった。ここまでは大体予定どおり。花屋は窓を開けて中に忍び込んだ。
あまり深く考えずにここまで来てしまったが、花屋は少し焦りすぎではないか?と思っていた。ここには侵入者を感知する警報があるかも知れないし、暗闇でも使える監視用の赤外線カメラがあるかも知れない。そういう事をあまり考えずにここまで来た。幸いにも警報は鳴っていないようだし、カメラがあるようにも思えない。この塔に来てから見てきた設備などのことを考えると、この場所にそれほどの防犯設備はないはずである。ただ花屋はそこを考えずにここに来て、今になってそこに気付いた事を反省していた。もちろんすぐに行動しないといけない事態なのは解っていたが、予期しない事ばかりが起こるので冷静さを欠いていたようだ。
だがここまで来てしまった以上はもう前に進むしかない。花屋は一度大きく深呼吸してから部屋を見渡した。ここは山川さんの言っていた瞑想のための部屋ということだが。特に何もない部屋のようだ。花屋は音を立てないように扉の方へ向かった。扉を開けて外の様子を窺ってみたがほとんど物音は聞こえてこない。
予言者様はもうとっくに寝ているようだ。花屋はゆっくりと廊下へ足を踏み出した。足が廊下に触れるとギイイィィィ…と床が軋んだ。マズいと思った花屋の頭に血が上って耳の辺りが熱くなってくる。一歩目を踏み出した体勢のまま動かずにもう一度辺りの様子を窺ってみる。暗闇と夜の静けさ。まだ大丈夫なようだ。
しかし、このまま廊下を歩くことが出来るのだろうか。足を踏み出す度に廊下が軋んだりするとさすがに気付かれてしまうだろう。次の一歩を踏み出した時にも派手な音がしたらこの計画は中止しないといけないかも知れない。
そう思って花屋は二歩目を踏み出した。ギィ、という音はしたが、さっきよりはだいぶ静かだ。幸いなことに鉄塔を基にして作られているこの塔はあまり広くない。目的の部屋までは数歩歩けば辿り着ける。あとは祈りながら足を踏み出していくしかなさそうだ。
さらにもう一度ギィ、という音がしたが丁度良いタイミングで風が吹いて外を覆う不安定な板の壁をガタガタと揺らしたので花屋の歩く音はかき消された。花屋はそのまま部屋の扉を開けて中に入った。そこはこの塔や予言者様に関する謎が集約されている場所とも思える部屋である。予言者様の力によって予言が記される「スレート」というものが置かれている部屋。
部屋は薄暗いので入ってすぐにはそこに何があるのか解らなかった。部屋の中央に台座が置いてあるのがなんとなく見える。人が上に寝そべることが出来そうな大きめのものだが、恐らくそこにスレートと言うものが置いてあるのだろう。
花屋は躓いたりしないように慎重に足下を探りながら台座の方へ近づいていったのだが、その時部屋の外で物音がした。花屋は驚いて凍り付いたようになってしまったが、色々な状況を考えると扉の近くで凍り付いているよりも隠れる方が良さそうだった。花屋は慌てて台座の向こう側に身を潜めた。
慌てて動いたので物音を立てていなかったか心配だったが、気付かれた様子はない。
「あぁ…」
部屋の外からは聞いたことのある声が聞こえてきた。
「これは恐ろしい。これは恐ろしい事だ…」
予言者様が言っているようだが、彼は夢でも見たのだろうか。予言者様が行ったり来たりする足音が廊下から聞こえて来る。そして「恐ろしい、恐ろしい」と繰り返していた。花屋はこの部屋に予言者様が入ってこないことを願うばかりだった。予言者様の声が近づいたり遠ざかったりしている。
すると、さらに遠くからくぐもった感じの別の声が聞こえてきた。
「予言者様。どうかなさいましたか?大丈夫ですか?」
外の廊下の向こうにある謁見の部屋から聞こえて来る声のようだ。それは山川さんの声に違いなかった。予言者様を心配して謁見の部屋で見張りをしていたのだろうか。
「ああ、その声はお前か。そんなところで何をしているのだ?」
予言者様が謁見の部屋の方を向いて言った。
「今夜はとてもイヤな予感がしたのです。それで予言者様の事が心配になって…」
「お前は優しい子だね。でも安心しなさい。私は大丈夫だ。だが恐ろしい事が起こる気がするのだ。あの旅の者達。あぁ、恐ろしい。なんて恐ろしい…」
「予言者様。それはどういう事ですか?」
「全ては明日の予言で明らかになるだろう。もう今夜は遅い。お前はもう寝なさい」
「…はい、予言者様」
山川さんはもっと詳しいことが聞きたい様子だったが、予言者様に言われたら従うしかない。それきり彼女の声は聞こえなくなった。
しかし予言者様は「旅の者達」ということを言っていたが。それに恐ろしい事が起きるとはどういうことなのか。今度は花屋の方がモヤモヤした気分になってくる。予言者様はいったい何を恐ろしいと言っていたのだろうか。彼の口から聞くには明日まで待たないといけないようだが、そんなにゆっくりしている時間はない。
花屋はこの部屋でスレートの謎を探ろうと立ち上がったのだが、その時「ピン」という機械的な音がしたかと思うと、部屋がフッと明るくなった。花屋は驚いてまた台座の陰に隠れようとしたが、もう手遅れのような気がした。
いっぽうその頃。塔の外は静かだった。だがその静けさはちょっとしたきっかけで大きな音を立てて崩れるような、危うい不安定さの中にあるようにも思えた。今や衛兵達は尾山ではなく小山を隊長として、小山の命令どおりに動くようになっている。そして、塔やその周りの住人達に気付かれないように、街を襲撃する準備を進めていた。
新たに生まれ変わった衛兵部隊にとって重大な瞬間が近づいているのだが、牢屋の番をしている二人の衛兵は少し物足りない気分だった。それでも自分達がこの場所で仕事をしなければ計画も成功しないのだと思って、退屈な役割でもなんとかして緊張感を保っていた。
しかし、牢屋代わりの小屋のあるこの場所は静かだった。番をしている若い衛兵達は口には出さなかったが、これは「不気味なほど静か」というやつだと思っていた。中には三人が閉じ込められていて、そのうちの二人はここではかなう者のいない程の力の持ち主なのだ。それなのに、牢屋をこじ開けようとする音すら聞こえてこない。
もしかすると中の三人は諦めて寝てしまったのかも知れない。だが気を抜いた瞬間に彼らが何かを始めたらどうするのか。番をしている二人は手作りの槍を持ってじっと立っているのだが、小屋をそっと覗いてみたくて仕方がなくなってくる。そろそろどちらかがしびれを切らして「ちょっと覗いてみようか?」とか言ってくれないものか、とお互いに思っている。そんな時だった。
「た、た、大変だぁ!」
尾山の悲鳴のような声が小屋の外に漏れてきた。番をしていた二人は肩をビクッと震わせながらお互いを見合った。
「助けてくれ!外に誰かいるんだろ?助けてくれ!大変なんだ!」
二人はまだ黙ったままお互いを見合っていたのだが、これは何かしないといけない感じに違いない。こちらには武器もあるし、中の三人は簡単なものではあるが小屋の中に作られた牢屋に閉じ込められているのだ。
二人は互いに頷いた。そして一人が鍵を取り出して小屋の扉を開けた。
「助けてくれぇ!…助けてくれぇ!」
尾山はまだ喚いている。
衛兵の二人が小屋の中に入ると、牢屋の柵を掴んでいる尾山と目が合った。その必死の形相に二人は何かマズい事になっていると気づいた。
「ちょっと居眠りしてただけなんだ…。そうしたらこんな事に」
衛兵の二人は始め尾山のことに気をとられて、その向こうで起きている事に気づかなかった。だが、その光景が目に入ると言葉を失ってそこに立ち尽くしてしまった。
尾山の後ろには蚊屋野と霧山の姿があった。その二人は牢屋の天井から吊されたロープで首を括ってぶら下がっている。衛兵達は全身の力が抜けて、持っていた槍を落としてしまった。
「なあ、頼むよ。二人を出してやってくれないか」
尾山が言うと衛兵達は震える手で牢屋を開けることにした。突然の出来事に、首を吊っている二人がどうしてそんな事をしたのか?と疑問に思うヒマはなかったようだ。