Technólogia Vol. 1 - Pt. 45

Technologia

50. 開戦

 この塔には包丁が多すぎるのではないか、と思ってしまう。衛兵達も包丁を武器にしていたし、今ここに現れた刺客も包丁を持っている。これでは料理に使う包丁がなくなってしまいそうだが、その心配は今起きている事が片付いてからすべきである。
 包丁を持った男が蚊屋野の背後に迫ってくる。その暗殺者の存在にただ一人気付いた花屋だったが、彼女のいる場所からは、どんなに早く動いたとしてもその暗殺者を止めることは出来そうにない。「蚊屋野君、危ない」と叫んだあとは、ただ絶望を感じながらその光景を見守るしかなかった。
 直前の大失態で意気消沈してうつむき加減でいた蚊屋野は花屋の声に驚いて顔を上げたのだが、危険は全く違う方向から迫ってきている。暗殺者は腰の辺りで包丁を両手に持って蚊屋野に迫ってきていた。体全体の力を使って確実に蚊屋野に包丁を突き刺すつもりなのだろう。
 暗殺者の存在が感じられるほど近づいて来た時に蚊屋野はやっと振り返った。目の前に見た事のない男がいて、その顔がさらに自分に近づいてくる。もうすでに包丁が蚊屋野に視界に入らないほど近づいているので、蚊屋野はこの男が何をしようとしているのか全くわからなかった。
 そのままでいたら、蚊屋野は何だか解らないまま腹部に包丁を突き刺されて、何だか解らないままもがき苦しむことになる。
 しかし、ここでさらに蚊屋野にとって何だか解らない事が起きた。目の前でバチッと言う音がして閃光が見えたかと思うと、男が倒れたのだ。倒れた男の手に包丁が握られているのを見てやっと蚊屋野はギョッとしていた。
 包丁を持った男が自分に近づいて来ていた。それもけっこうな勢いだったのだが、もしかして自分が殺されそうだったという事なのだろうか?今更ながら全身が凍り付くという感じで、蚊屋野は恐ろしくて真っ青になったまま動けなくなりそうだった。
 だが、どうして男は気絶しているのか。あとから湧いてきた恐ろしさに慣れてくると、だんだんそっちが気になってきた。蚊屋野が振り返ると彼の後ろで霧山がスタンガンを持って立っていた。それを見ると、あらゆる偶然が重なったのだ、と思って今度は鳥肌を立てた蚊屋野だった。勘違いで霧山を取り押さえた蚊屋野だが、まだ彼は霧山のすぐ横にいたのだった。そして、なんとなく罪悪感でスタンガンを霧山に渡していたのもたまたまだったのだが。さらに花屋が怒って蚊屋野の方を見ていたから暗殺者の存在にいち早く気づけたということもある。
 暗殺者は自分の体重をかけて包丁を蚊屋野に刺そうとしていたので、手を自分のお腹の辺りにつけるように包丁を持っていたのだが、その体勢だと蚊屋野に密着するぐらいに近づかないといけない。だがそこに背の高い霧山の手が蚊屋野の肩越しに伸びてきた。そして、その手に持っていたスタンガンが暗殺者に触れたとたん、放電によるショックで彼はまるで弾かれたように反り返って倒れたのだった。結局は蚊屋野の大失態が暗殺者から彼の命を救ったという事になりそうだ。
 蚊屋野だけでなく、霧山でさえも何が起こったのかまだ良く解っていない様子だった。いったん部屋が静まりかえって、しだいに部屋の隅の方から小声で話す声がしてきてザワザワし始める。そんな中で気絶した男に駆け寄ってくるものがあった。
「おじさん…」
そう言いながら男の横にしゃがんだのは河野君だった。
 この男が河野君の叔父さんということのようだ。河野君が男の体を軽く揺さぶると男はうっすらと目を開けた。
「ああ、もうダメだ。オマエの父さんを守ることが出来なかったよ。彼らはもう街に向かっている。失敗したんだ」
河野君の父親は行方不明という事だったはずだが、叔父さんは何を言っているのだろうか。
「今日は予想外のことが次々に起こりますね。でもこれは予想できたかも知れないことなのに。蚊屋野君がこれを渡してくれて良かったよ」
スタンガンを見せながら霧山が例の落ち着いた口調で言った。その予想外なことの一つめは蚊屋野が霧山が黒幕と勘違いしてとった行動で、その次が河野君の叔父さんの蚊屋野襲撃である。予想できたかも知れないというのはこの襲撃の事だった。確かに黒幕は蚊屋野達を東京に行かせたくなかったのだから、どうしてもという事になれば彼らを暗殺するという手も考えられなくはない。しかし霧山はもう少し詳しい事情も知っていたようだ。
「河野君。まだ全ての希望が失われたワケではないよ。気を落とさずに」
霧山が言うと河野君は黙って頷いていた。
 蚊屋野は何のことだか良く解らなかったのだが、自分を殺そうとした河野君の叔父さんをこのままにしていて良いのだろうか?とそろそろ思い始めていた。良く考えたらこれは殺人未遂なんだし、20年前ならそれなりに重い罪なのだが。このなんとなくモヤモヤする気分はいったいどうすれば良いのだろうか?蚊屋野がそんな事を考えながらモヤモヤした表情になってくると霧山が彼に声をかけた。
「蚊屋野さん。詳しいことはあとで説明します。今は反乱を起こした衛兵達のことをなんとかするのが先です。大丈夫です。あなた方の旅をここで終わらせるようなことにはさせませんよ」
霧山の頼もしい言葉ではあったが、蚊屋野は詳しいことが全然わからないので、ただ「はあ」と生返事をしただけだった。
 部屋の中はさらにざわついていたのだが、予言者様が「静寂!」と厳しい口調で言うと部屋の中はまた静かになった。蚊屋野も黙ってはいたが、予言者様の言った「静寂」という言葉がなんか変だな、とは思っていた。
かのもののお告げを伝える」
予言者様が言った。蚊屋野の知る限りこの予言というのは黒幕が自分の思い通りに事を進めるために書いているものなのだが、それがここで発表されても問題ないのだろうか。そんなことを思いながら彼は霧山や花屋達の方を見ていた。するとまた花屋と目があった。またあの鋭い視線をこっちに向けている。
 まさか、ここで予言者様を止めろということなのか?とも思ったが、蚊屋野はもう失敗することは出来ない。あれは「何もするな」という合図だ、ということにして蚊屋野は黙って予言者様の予言を聞くことにした。やらずに後悔するのと、やって後悔するのがどっちが良いか、って。この場合はやらないに限る。いつだって前向きな姿勢が正しいとは限らないのだ。
「憎しみ合い、いがみ合う二つの民は、共に手を取り困難に立ち向かい、平和を手に入れるであろう。旅の者達と街へ行き小山達の企みを阻止するのだ。今こそ塔の民が立ち上がる時なのだ」
予言者様が予言を伝えた。そして一呼吸置いてから話し始めた。
「今日の予言はやけに具体的だが、これほど揺らぎを感じない明確な予言は初めてだ。我々に光がもたらされる。そんな気がしてきた」
最初に予言者様が言ったのは予言を解釈した内容だと思っていたが、予言そのものだったようだ。確かに具体的だ。具体的すぎて予言では無くて指示になっている気もするのだが。蚊屋野がそう思っていると予言者が彼の事を見ているのに気がついた。
「その前に驚くべき事が起きたようだが。怪我はなかったか?…大丈夫なようだな。では衛兵隊長代理としてその男を牢屋に入れるのだ」
「ボクがですか?!」
また勝手に決められたが、蚊屋野が自分を襲った河野君の叔父さんを牢屋まで連れて行くことになってしまったようだ。確かに今ここで一番腕力が強いのは蚊屋野なのだし仕方がないが。なんとなく、自分の意に反して衛兵隊長をさせられた尾山の気持ちが解ってきた。
 予言者様がこの朝の会合の終わりを宣言すると、部屋に居た人達は一斉に慌ただしく動き始めた。塔の住民全員で小山達を捕まえに行くという事なのだろうか。そうだとすると、小山達は武装しているのだし、ここの住民も武器を持っていくはずだし、それはそれでかなり物騒な話だが。はたして大丈夫なのだろうか?
 蚊屋野は心配になってキョロキョロしてしまったのだが、花屋も堂中も落ち着いた様子である。すると霧山が彼に声をかけた。
「蚊屋野さん。尾山君は上手くやりましたか?」
それは盛山さんの救出のことだろうか。それならなんとなく上手くいった気がする。
「はい。まあ」
蚊屋野にはそんなふうにしか答えられないが、大体伝わったようなので霧山は先を続けた。
「あなたの仕事が終わったら中野さんと堂中さんと合流してください。予想外のことも起きましたが、ここまでは計画どおりです。小山は人質を失って衛兵達だけで街を襲撃することにしたようです」
良く解らないが上手くいっているという事のなので、蚊屋野は頷いた。それよりも自分の仕事ってなんだっけ?と思ったのだが、河野君の叔父さんが自分から蚊屋野のところへやって来たので、思い出すことが出来た。まずは河野君の叔父さんを牢屋に連れて行かなければいけないのだった。色んな事が起きすぎて蚊屋野の頭では処理しきれない状態になっている気もする。

 これまでほとんど眠らずに色々と頑張ってきた。それはこの塔の人々のためであり、また自分のためでもあった。しかし、それとは全く違う場所で物事が進んでいて自分のしてきた事が全く意味のないような気がしてくる。蚊屋野は全身の力の抜けてやる気がなくなるような変な感覚を味わっていた。だがそれが正しいのなら従うしかない。今は河野君の叔父さんを牢屋に連れて行くのが自分の役目なのだ。
 河野君の叔父さんはうつむいて蚊屋野の前を歩いていた。腕を掴むとか縄をかけたりとかはしていないが、河野君の叔父さんは観念したのか、静かに歩いている。自分を殺そうとした人間がこうやって前を歩いているというのは変な感覚だ。いったい何がどうなって蚊屋野は殺されそうになったのだろうか。
 段々そこが気になってきたし、これから街に行くのならその辺を確認するのは今しかなさそうだ。蚊屋野はうつむいている河野君の叔父さんに後ろから声をかけた。すると、河野君の叔父さんは解りやすく肩をビクッと震わせた。
「どうか、命だけはお助けください…」
河野君の叔父さんはワナワナしながら命乞いをしている。辺りにはあまり人はいないが、こんなところを見られると、蚊屋野が河野君の叔父さんを脅かしているみたいで印象が良くない。それに、この恐がり方は尋常ではない。
「いや、別にあなたを殺そうなんて思ってませんよ。まあ、あの包丁が刺さってたら今頃はそう思っているかも知れませんけどね」
あの襲撃があまりにも突然で、しかも蚊屋野としてはワケが解ってない状態で全てが終わってしまったので、不思議と河野君の叔父さんに対しての憎しみとか、そういった感情は湧いてこなかった。あのあとも河野君の叔父さんが暴れたり、そういうことだと話は別なのだが。河野君の叔父さんは物静かな人なようだし、今は怯えきっているので怒る気にもならなかったりする。
「本当に私を殺したりしませんか?」
河野君の叔父さんはまだ自分が殺されると思っているようだ。
「どうしてそう思うんですか?」
「あなたが残忍な殺人鬼で東京に行けば多くの人間が犠牲になると、そう聞いたからです」
「誰に?!」
「それが、解らないのですが…」
解らないとはどういう事なのか。ここでは単純明快なことが全くないような気がしてくる。河野君の叔父さんはちょっと考えてから話し始めた。
「こうなったら全て話しますが。私の兄は何者かに拉致されているのです。犯人は兄の命と引き替えに私にあることをするようにと要求したのです」
「つまりボクを殺せってこと?」
「いや、そんなに単純ではないのです」
やはりここでは単純なことなどないのか。
「話はこの塔が出来る前にさかのぼります。犯人は私のモバイルに宛ててメッセージで指示を送ってきたのですが。それによると犯人の最終的な目的はあなた達をこの塔から先に行かせないことでした。丁度その頃から、予言者様が例の予言を始めるようになりました。アレもきっと犯人が仕組んでいた事なのでしょう。犯人は私に予言の内容を送ってくるようになったのです。それを私が予言者様のスレートに転送していたのです。あ、スレートのことは知っていますか?アレはモバイルの大きなヤツだったのです」
この世界の人はスマートフォンのことをモバイルと呼ぶが、タブレットの呼び方は考えていないみたいだ。大きいヤツで解るのでそれで良いが。
「予言者様の予言は良く当たりました。全てが仕組まれていたことなので、当たるのが当然なのです。しかし、その時は東京とのいざこざもあって、不安になっていた多くの人が予言者様に信頼を寄せるようになっていたのです。そして、最終的には信者達が街を離れて塔を建てたのですが。私も指示どおりに甥を連れてここに来ました。甥には父親から教わった知識があったので、この塔に密かに通信のための機械を設置することができました」
あれはやはり通信のための機械と呼ぶのか!と蚊屋野は思ったがそれはどうでもイイ。
「あの縁の下のスイッチングハブですね」
蚊屋野はとりあえず、自分の知識をひけらかしてみたが、それほど感心されない。
「というか、河野君も父親が拉致されているのは知っていたの?」
「そうなんです。14歳といってもまだまだ子供のあの子には辛かったはずですが。犯人の指示どおりにすればあの子のモバイルに父親からのメッセージが送られてくることになっていたんです」
それで河野君はいつもモバイルを持ち歩いてのだった。どうでもイイ事ではあるが、疑問の答えが出たところで話はさらに続いた。
「仕組まれていたこととはいえ、予言者様の予言は良く当たりました。おかしな話ですが、予言者様のスレートに予言を送信している私でさえも、これは何か不思議な力で予言をしているのではないか?と思うこともありました。それに、極めつけはあなた方がやって来た事です。あなた方が犯人の仲間だということなら、いつここへやって来るかは解りますが、そうでない人の到着をどうして予言することができたのか。予言よりは数日遅れたのですが、あなた方がやって来たと聞いた時に犯人達のとてつもない力のようなものを感じて私は恐くなりました。そしてあなたが殺人鬼だという事も本当だと思ったのですが。…あなたは本当に殺人鬼ではないのですよね?」
蚊屋野の姿を実際に見たら彼を殺人鬼などと思う人はあまりいないと思うが、河野君の叔父さんはまだなんとなく心配なようだ。蚊屋野より約20年分多く歳をとっているが、年齢からすると蚊屋野と近い世代のはずだ。そういう人でもこの世界では騙されやすくなるのだろうか。あるいは、もともとそう言う人なのだろうか。
 そんな事よりも、話を聞いた蚊屋野は河野君の叔父さんとは違う意味で少し恐ろしい気がしていた。蚊屋野達は誰かの指示でこの塔のある山側の道を来たワケではない。しかし、そうせざるを得ないように誰かが仕組んだという可能性はある。小田原が閉鎖されたのなら山側を通らなければ東京には近づけない。さすがに前の街が(文字どおりの意味で)ゴーストタウン化していたところまでは予想できなかったようだが。小田原を封鎖すればどのくらいで蚊屋野達がここまで来るかは解るはずだ。
 もしかして、河野君の父親を拉致した犯人は小田原が封鎖されていたりすることと何らかの関連があるのではないか?と蚊屋野は思ったのだった。そして、そういう事が出来るのは、それなりに大きな組織の人だったり、政治家みたいな人だったりするはずである。出来ればそういう人達を相手にはしたくないと思っている蚊屋野なのだが、なんだか嫌な予感がしてくる。
「その犯人がボクらをここに足止めする理由は知ってる?」
「いや。ただ、どんな手段を使っても良いから、少なくとも10日間はここから先に進ませないように、と指示がありました。私としては、街との交渉の時にあなた方が捕らえられたりしてくれれば良いと思っていたのですが。そうこうしている間に、衛兵が反乱を起こしたという話が聞こえて来たり、さらにはモバイルで通信が出来なくなったりしたのです」
通信に関しては堂中の仕業に違いない。そして、塔の裏の壁に開いた穴のところに河野君がいたのは、通信が出来なくなって慌てて機械を確認しに行ったあとだったのだろう。
「このままでは兄が助けられない。そう思って私は最後の手段に出たのです。他にしようがなかったのです。どうかお許しください」
本当に方法が他になかったのか?というと、ありそうな気もするのだが。蚊屋野はここで自分が殺されそうになったことにちょっと怒りを覚えたが、事件が起きた時にカッとなってないので、あとから考えたところでそれほど怒りは大きくならないようだ。
 それにしても10日間とはどういうことだろうか。ここに来て三日目なので、残りは一週間ほどということだが。あと一週間以内に蚊屋野達が東京に着くと都合が良くない人がいるという事らしい。河野君の叔父さんを牢屋に入れたあとも、蚊屋野は何がどうなっているのか?と考え込んでいた。
 そして解ったことは、今の自分の知識で考えたところで答えが解るはずはない、ということだった。今はとにかくこの塔の周辺で起きている問題を解決して先に進まなければいけない。蚊屋野は花屋と堂中のところへ行こうとしたのだが、丁度その時に二人がこちらにやって来たところだった。その後ろにはケロ君もいるし、さらに叔父さんが心配な河野君の姿もあった。
 彼らの顔を見ると、やはり安心する。謁見の部屋でもそうだったが、ここでも改めて思った蚊屋野だった。たった一晩だけ離れていただけなのだが、その間に色々なことが起きすぎて何が何だか解らない状態になっていた。知ってる人がほとんどいないこの世界で、さらに特殊なこの塔の人達に囲まれている状態で、大事なものは仲間なのだと感じた蚊屋野だった。
 そう思いながらも、まず蚊屋野は河野君に牢屋の鍵を渡した。
「これはキミに預けるよ。ルールだからキミの叔父さんを釈放するワケにはいかないんだけど、彼は優しい人で、殺人鬼ではないし、かといってボクも殺人鬼でもないんだけど、やったことはキミのためでもあるんだし、さらにもっと多くの人を救おうという気持ちもあったはずなんだよ。その辺の事情は大体わかったから。だからキミがここで叔父さんに食事を運んだり、世話をしてあげたら良いと思うよ」
蚊屋野は河野君を励ますつもりで言ったのだが、自分でも何が言いたいのか解らない内容になってしまった。河野君も、恐らく良い事を言われたのだろう、と思って蚊屋野から鍵を受け取った。このなんとも言えないやりとりが終わると、蚊屋野は仲間の方を向いた。
「さっきは危ないところだったっすね」
堂中のこの変な敬語もやはり懐かしい。周りの目を気にせずに普通に話す事が出来るとうのは素晴らしいことだと感じた蚊屋野だった。
「奇跡が起きたって感じだよね。もう少し落ち着いたら生きている喜びを実感したいと思ってるよ」
冗談に聞こえるが、実際の蚊屋野の感情をほぼそのままという感じでもあった。あの危機は瞬間的なことだったので、恐怖を感じる事もほとんどなかった。そして、どちらかというと恐怖で泣き叫びそうになっていたのは最初に河野君の叔父さんの姿を見付けた花屋の方だった。何も出来ずに蚊屋野に迫る包丁の刃を見ているしかなかったあの無力な瞬間。
 花屋は二人に顔を見られないように振り返った。そして、溢れてくる涙を拭いていた。大切なものを失うとか、全てが無駄になるとかそういった類の恐怖を感じると涙が止まらなかったのだ。
「カヤっぺ。泣いてる場合じゃないっすよ。まだやることが沢山あるんすから」
堂中に言われた花屋は頷いていたが、涙が収まるにはしばらく時間がかかった。そして、涙を拭き終わると振り返って赤くなった目を二人の方へ向けた。
「そうでしたね。さあ、戦争の準備を始めましょう」
「戦争?!」
蚊屋野が戦争という言葉に驚いたのを見て花屋は不敵な笑みを浮かべていた。