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59. 災難
一難去ってまた一難、と思うと二つの災難に見舞われたように思えて自分が不運な人間に思えてくる。しかし、立て続けに災難が起きたのなら、二つ目の災難は一つ目の災難の続きと考えれば悪いことは一つ減る。それで気分もすこしは楽になる。もっと大きな規模で考えると、人生とは一つの大きな災難ということにすれば良くなる。そうすれば人生で嫌な事は一度しか起きてないことになる。人生の中で起こるたった一つの災難。それは生まれてきたこと。
天井が崩落してくる地下道からやっとの事で逃げ出してきた蚊屋野にはそんなことを考える余裕はなかったのだが、この朝の災難はまだ終わったワケではなかった。未だに天井が崩れてくる音が聞こえてくる背後の横浜駅が気になっていたので、目の前になんとなく見えていた二人の男がどんな人間なのか気にしてる場合ではなかった。
蚊屋野達は自分達のすぐ近くに何度も天井が崩れ落ちてきた中を逃げてきた余韻に震えそうになりながら、魂が抜けたような状態で歩き出そうとしていた。だがその時、耳を覆いたくなるような大きな音がして、蚊屋野達は驚いて立ち止まった。それと同時にパニックのあとで抜け殻になっていた彼らの心に魂が戻ってきて、一瞬にしてまた緊張状態になった。
ただし、今更緊張しても遅いという感じもあった。大きな音を立てたのはなんだったのか?と確認すると、さっきなんとなく目に入ってきた二人の男のうちの一人が拡声器を持っているのに気付いた。音はその拡声器に付いているサイレンの音に違いなかった。ということは、この二人は警官という事なのだ。
しまった、と思った時には二人の警官は蚊屋野たちのすぐ目の前にいた。警官といっても昔の世界の警官とは違って制服を着ていない。それなので花屋も堂中も彼らが警官だと簡単には気付けなかった。これはズルいと思った蚊屋野だったが、そう思ったところで意味はない。その前に知らない人がいるのが解っていたのなら、もっと注意していなければいけなかったのだ。
警察の目を逃れるために地下を通ってきたのに、瓦礫と一緒に天井が崩れ落ちてきたせいで全てが裏目に出てしまったようだ。蚊屋野達はそのせいで放心状態だったし、警官達は瓦礫が崩れ落ちる音を聞いてここに様子を見に来たのだった。そして、そこで「連続殺人犯の三人組」を見付けたのだった。
「あなた達、殺人犯ですね。逮捕します」
そんな逮捕のしかたは聞いたことがないが、もしかするとこの世界では犯人を逮捕するための正式な手続きみたいなものはまだ出来ていないのかも知れない。
警官の一人が手錠を取り出して、一番前にいた花屋の方へ歩み出てきた。この状態からどうやって逃げるのだろうか。蚊屋野は花屋が何か行動を起こしてもすぐに反応できるように準備をしていた。蚊屋野達にしか解らない合図を花屋が送ってくるかも知れない。それは言葉によるものかも知れないし、ウィンク代わりに睨み付けられたりするのかも知れない。どんなものにしても、こういう場合はそれに気付かなければ一瞬にして手遅れになってしまう。
そう思いながら蚊屋野は花屋から注意をそらさなかった。手錠を持った警官が近くに来ると花屋は大人しく両手を差し出した。これは警官を油断させる作戦なのだろうか。もう一人の警官は蚊屋野と堂中が逃げないように見張っているように思えた。
花屋はまだそれらしい合図を送ってこない。ただうつむいて警官が彼女に手錠をかけるのを待っている。一体どうするつもりなのか?と蚊屋野は思っていたのだが、まだ何も起こらない。警官は手錠をかけるために花屋の手をつかもうとしている。何だか嫌な予感がすると思うと同時に、蚊屋野の全身に身震いするような感覚が走った。それは風邪をひいた時にゾクゾクする感じを凝縮したような、そんなものにも思えたが。あとから考えるとそれはアドレナリンが一気に放出されたとか、そいういう事だったのかも知れない。
とにかく、蚊屋野は警官が花屋の手をつかむ前になんとかしないと、と気付いてとっさに行動に出てしまった。蚊屋野は飛び出して、蚊屋野前にいた警官を突き飛ばした。警官とはいってもこの世界に生きているほとんどの人と同様に弱体化しているので、蚊屋野に突き飛ばされるとよろめいて後ずさりながら尻餅をついた。それから、驚いて棒立ちになっていたもう一人の警官も同じように突き飛ばすと、蚊屋野は花屋の手をつかんで走り出した。
夢中で行動を起こした蚊屋野だったが、いったいどこへ向かえば良いのか。最初にそこを考えていたら警官を突き飛ばして逃げるなんてことはしなかったかも知れないが、今更そこを考えても遅い。こうなったら捕まらないように逃げるしかないのだが。
蚊屋野はとりあえず隠れる場所が沢山ありそうな、建物が密集している中へと入っていた。もちろんそこにある建物は今にも崩れそうになっているものばかりだったが。何もない道を逃げるよりはこっちの方が上手くいきそうな気はする。
後ろから堂中とケロ君もついて来ていた。堂中には色々と言いたいことがありそうだが、それらは無事に逃げられてから言うしかない。
中身がスカスカになった朽ちた大木みたいな状態の建物の間を走って行くと、上から小石のような瓦礫が落ちてきて頭にぶつかったりしていた。これは建物が崩壊する前触れなのかも知れない。駅の地下を歩いていた時の事を思い出してゾッとしながら走ることになっていた。
始めは蚊屋野に手を引かれて走っていた花屋だったが、廃墟に囲まれた細道に入るといつの間にか蚊屋野の前を走っていた。蚊屋野が警官を突き飛ばした時にはまだ混乱していたのだが、ここで身の危険を感じてやっと本来の調子を取り戻したようだ。とはいっても慌てていないワケではない。冷静に考える余裕はないので、ほとんど本能とか勘とかを頼りに進む方向を探していた。
これまでの事を考えるとやはり花屋が先頭にいた方が安心できる。蚊屋野もその後に続いていた堂中とケロ君も花屋のあとを追いかけた。そしてなんとか廃墟の間を通り抜けて開けた場所に出ることができた。どこをどうやって進んできたのか解らないので、今いる場所も解らない。ただ警官も廃墟の中を追いかけるのには恐れをなしたのか、ここまで追ってくる様子はなかった。
トンネルを脱出するときから、ここに来るまでほとんど走りっぱなしという感じだったので、話せる程度まで彼らの呼吸が整うまでにはしばらく時間がかかった。それからやっと花屋が口を開いた。
「なんであんなことをしたんですか?」
せっかく逃げられたと思ったのだが、花屋は怒っている。それもけっこう激しい口調だった。
「あれが警官だって解ってたんですか?」
それは解っていたが、蚊屋野は何で怒られているのか良く解らない。
「それは、そうだけど…」
ワケが解らないまま言い訳をしようとしたのだが、蚊屋野が口を開いたタイミングを見計らったように、彼らが走ってきた道にビルの外壁が崩れてきて大きな音を立てた。全員が驚いて振り返ったのでしばらく話が中断していた。
「蚊屋野君のせいで街が平和じゃなくなるかも知れないんだから」
花屋が怒ったのは警察を絶対的な存在と信じていたからである。警察がいれば都会のような場所でも秩序が保たれて安全に暮らせるのだ。だから警官に歯向かうようなことは決してしてはならない。健康体のまま育てられてきた花屋なので、やろうと思えば彼女にも警官を突き飛ばすことは出来たかも知れない。しかし、それだからこそ子供の頃から警察が特別なものだという教育を受けてきたのだった。
「(人間はややこしい仕組みを作るのが得意だからな)」
ケロ君が言うのが聞こえた。
警察のすることは絶対。警察が正しい事をしている間はそれでも問題はないかも知れない。そして、これまでは全く問題がなかった。しかし、殺人という全く身に覚えのない容疑で蚊屋野達を捕まえようとしている警察の言うことを黙って聞くことが出来るだろうか。
「それは警察が正しい事をしている時の話だと思うんだけど。あのまま逮捕されたらこれまでしてきた事はどうなるのか?ってことだし。ボクらは殺人犯じゃないのに、彼らは殺人犯としてボクらを捕まえようとしてるんだよ。これはどう考えても警察が間違ってるんだから。それにボクらがやろうとしていることは、人間だけのためにやることじゃなくて、この世界の全ての生き物を救うことになるかも知れない。いやボクらは世界を救おうとしてるんだよ。警察だからってボクらのやろうとしていることを止めることは出来ないんだよ」
蚊屋野が彼に似合わずハッキリと意見を言うので、花屋も堂中も少し驚いて聞いていた。
「なんでさっきからボクの言うことを繰り返すのか?って…」
そして、この一言で花屋と堂中は「なんだ?」と思った。実は蚊屋野が言っていたことは全てケロ君が蚊屋野に言ったことだったのである。ケロ君が良い事を言っていると思ったので、蚊屋野がそれをそのまま自分の言葉として喋っていたのだった。
最後の一言は間違いだと気付いて蚊屋野は口を閉じた。ついでに花屋と堂中の方を向いたまま少しヒザを曲げて横にいたケロ君の頭を後ろ手で撫でていた。
「確かにそのとおりっすよね。カヤっぺはどう思う?」
花屋は迷っていた。実を言うと、蚊屋野の言うことを聞くまでは今からでも自首するべきだと思っていたのだ。それは彼女が生真面目だからというワケではない。ただ、物心ついてからずっとそういうものだと思ってきた事なので、それが当たり前だと思っていたのだ。だから警察に逆らうなんて事は思った事もなかったのだが、言われてみるとそうしなければいけない理由があるワケでもない。どちらかというと、今は逆らわなければいけない時だと気付いた。それは単純なことだったのだが、そんなことにこれまで気付かなかったということに動揺して、花屋は迷っていたとも言える。
「私達、犯罪者になっちゃうね」
花屋はそう言ってなんとか笑って見せた。心のどこかではまだ認めたくないのだが彼女は蚊屋野の意見に従うことにしたようだ。(厳密にはケロ君の意見を蚊屋野が人間の言葉にしたものだが。)
「ボクらが犯罪者じゃない証明はあとからいくらでも出来るっすよ。それよりも、今解決すべき大きな問題があるんすよね」
最初は笑顔だったが、ここで堂中が深刻な表情になった。どうやらまだ災難は終わっていないようだ。
この辺りが、人が走った振動だけで建物が崩れてくるほど脆くなっているのは、灰が特に多く降ってくる場所だからである。そして予報によれば次の灰が降ってくるまであまり余裕がない。
「早く休憩所に行かないと」
蚊屋野はそう言って歩き出そうとしたのだが、二人は何もせずに蚊屋野の方を見ただけだった。二人が動かないと休憩所の場所を知らない蚊屋野も止まるしかない。しかも二人の視線もなんとなく冷たく感じる。
「この辺りはこんな状況っすからね。灰を避けるには近くの街まで行かないといけないんす」
「街に行けば警察が待ってます」
二人に言われて納得の蚊屋野だった。だが納得したところでどうすれば良いのか。街に行っても、このまま外にいて灰を吸い込んでも計画は失敗ということになる。でも灰は数回吸ったぐらいでは影響はないような事も聞いたことがあるのだが。しかし、これまでかなり神経質な感じで灰を避けてきたのだし、危険な事には変わりないのだろう。
「じゃあ、安全そうな街を探して行くしかないのかな」
蚊屋野はそう言ってからすぐに変な事を言ったと思っていた。だいたい「安全そうな街」とはどんな街なのか。山の中とは違って、ここには小さな街がいくつも点在しているのだが、その中のどれが安全そうで、どれが安全そうでないか。誰に聞けば解るのだろうか。その前に「安全そう」というのはどういう基準で決まるのか。
蚊屋野は自分の発言にウンザリして、頭を抱えてしまった。それから自分のスマートフォンを取り出して付近の地図を調べて見ることにした。こうなった責任は自分にあるのだし、少しでも努力している様子は見せないといけない。
蚊屋野のスマートフォンには約20年前の地図アプリと、蚊屋野が約20年かけて転送されている間に能内教授が彼のスマートフォンにインストールしたこの世界の地図アプリがある。ここで見るべきはやはり現在の地図ということで、蚊屋野はこの世界の地図アプリを起動してみた。
地図が表示されると、灰の危険にさらされる地域ということで、赤く塗られた場所がある。自分達がいるのはその区域だと解って少し恐ろしい気がした。そして、周辺を調べると、赤くない場所に安全そうか安全そうでないか解らない街がいくつも表示された。
これではやはりどこに行けばいいのか解らない。ただ自分達がまだ横浜駅からほとんど離れていない場所にいるのは解って途方に暮れた。まだ朝ではあるが、横浜駅から少し東京よりに移動しただけ。しかも、先には進めずに、灰から逃れる場所を探している最中なのだ。
どうにも気に入らない。ここは自分の良く知っている場所のはずなのだし。もしも何年も大学四年生を繰り返した意味があるのだとすれば、今この時のために違いない。
何回も四年生をやっていると大学に行ってもやることがなくて、付近をうろつくぐらいしかなくなってくるのだ。それで蚊屋野は他の学生よりもこの辺りのことに詳しい自信があったのだ。
もしもそれに意味がないとすれば、蚊屋野はただ無駄に学生生活を過ごしたあげく、約20年かけて転送されて、多くの人が携わってきた計画を台無しにしようとしているだけになる。
「ボクは、この辺りに詳しいはずなんだ」
蚊屋野が独り言のように言ってから、今度は約20年前の地図アプリを起動した。静岡にいた時もそうだったが、このアプリでもちゃんと現在地は表示出来る。蚊屋野はそこに表示された地名や建物の名前を見てショックを受けていた。この瓦礫だらけのボロボロの廃墟になっている場所が自分の良く知っている場所だと解ったのだ。
その前に横浜駅がボロボロだったので、今になって驚くことではないのだが、改めて自分の居場所を昔の地図で表示すると恐ろしい気がするのだった。最終戦争以外で世界がこんな状況になるなんてことは少しも想像できなかったのだし。
「ダイジョブっすか?」
蚊屋野が青ざめていたので堂中が心配して言った。
「ああ、大丈夫。最終戦争っていうのは起きても起きなくても、結局はこんな感じだったんだ、ってね」
花屋と堂中には蚊屋野が何を言っているのか良く解らなかった。言っている蚊屋野にも良く解らないので仕方がない。
「それって核戦争みたいなやつっすか?」
わざわざ確認するほどのことでもないが、一応堂中が聞いてみた。
「そんな感じかな。でも灰が降ってくるとか。なんとなく雰囲気は似てるよね。…アッ!」
蚊屋野が急に何かを思い出したようにして声を上げたので、花屋と堂中はさらにワケが解らなくなってくる。
蚊屋野は今表示されている地図を確認してから、もう一度今の世界の地図を表示させた。少し慌てた様子で地図を調べながら蚊屋野は堂中に聞いた。
「ねえ、この黄色い地域ってのは、どういう場所?」
「それは、今は灰がまだ降ってきてないけど、これから灰が降る場所になる可能性が高い場所っすね。だからちゃんとした街は作られてないんすよ。でも休憩所とか小さな居住地があったら、警察は調べに来るかも知れないっす」
説明している堂中の言葉は半ば諦めたような調子だった。結局すでにある居住地や避難所では問題は解決しないということらしい。この世界に住んでいた花屋と堂中にも良い方法が見付けられないのだから蚊屋野に見付けられるワケもない。そんな感じだった。
だが、そういう諦めムードの方が蚊屋野としては自分の考えを切り出しやすいという部分もあった。確実性のないものは後回しにされるべきなのだが、この場合は蚊屋野の頭の中にある考えしか残されていないような感じがする。確実性という意味では全くないようなものだが。
「ボクは良い場所を知っているような気がする」
そんな言い方では誰も賛同しなさそうだが、確実性がないのだから仕方がない。
「核シェルターの場所を知っているかも知れないんだ」
彼の余分な大学生活が無駄でない意味があるとすれば、もしかしたらこの事なのかも知れない。そう蚊屋野は思っていたが、まだ何のことだか解らない花屋と堂中はお互いを見合って首をかしげていた。
「(オマエ頭がおかしくなったんじゃないよな?そうじゃなければ、早いとこそこへ連れてってくれないか?)」
ケロ君だけはなんとなく解っていたようだ。今は深く考えても意味がないということを。
「まあ、ついてきて。ここからそう遠くないはずだから」
花屋も堂中もまだそうすると決めたワケではないのだが、他に良い案もないので蚊屋野についていくしかなかった。彼に全てを任せることに漠然とした不安は感じていたのだが、最終手段というのはそういうものに違いない。