「炎上」

01. 猫屋敷

 良く晴れた昼下がり。普段ならどことなく幸せを連想させるこの言葉だが、この場所に限ってはそうでもない。風通しの悪いこの場所の湿った空気が太陽の熱で温められて、立ちこめる悪臭をより強力なものにしているように感じられる。

 この臭いの原因が何なのかはすぐに解る。この屋敷のいたるところにいるネコ。彼らが好き放題にそこら中に糞尿をまき散らしたに違いない。さらに放置されて腐ったネコ用の食糧の臭いが加わっている。せめて固形のキャットフードなら良かったのだが、ここの住人は生の魚などをネコ達に与えていたようだ。

 今では警官が大勢家に入ってきているので、大量のネコ達は隅の方へ隠れているのだが、それでも振り返ればそこにいるという感じで、都会にしては大きめのこの一軒家のいたるところにネコがいる。数えてみればもしかすると百を超えるのではないかと思えるほどである。

「何なんですの!?」

ここへやって来たスケアリーの声がした。

「あら、失礼いたしましたわ。あたくしはエフ・ビー・エルのスケアリー特別捜査官。こちらはモオルダア特別捜査官ですのよ」

あまりのニオイにやって来ると同時に思わず「何なんですの」が出てしまったようだが、警官に止められそうになったので自分達がここにいるべき人間であると説明したようである。

 スケアリーは口と鼻をハンカチで覆いながら屋敷の奥へ入ってきた。その後ろからハンカチを持ち歩かないモオルダアが苦しそうな表情で彼女についてきた。モオルダアは鼻をつまみたいのだが、鼻をつまんで口を開けるとこのニオイの粒子が口の中に入ってきそうで、それはそれで嫌な感じがするのである。なのでモオルダアはほとんど息が出来ていない状態だった。

 スケアリーは荒れ放題の家の中を一通り見回してから、振り返るとモオルダアの方へ手の甲を向けて、外へ行くようにとそろえた指先を向こう側に向かって動かした。モオルダアも黙ってそれにしたがった。


「何なんですの?!」

少しは風通しの良い縁側に出てきたスケアリーがまたさっきと同じ事を言った。あのニオイを嗅いだあとではまともなことが言えないのも仕方がない。スケアリーのきつい口調に驚いたのか、開けっ放しの窓からネコが二匹飛び出してきて庭の奥へ逃げていった。

「何って言ってもね。これはどう考えても猫屋敷だね。とは言ってもこの程度だったらテレビのニュースなんかでもやってそうだし、ボクらが出てくる事もないと思うけど」

モオルダアの口調からすると事情を知っているのはスケアリーの方みたいだった。

「そうなんですのよ。ですから何なんですの?ってことでございましょ?」

まだニオイのせいで頭が混乱しているのか何を言っているのか良く解らない。スケアリーも自分でそこに気付いたようで、ニオイを嗅ぐ前の記憶にまでさかのぼって言い直すことにした。

「こんなに猫がいるなんて知らなかったんですのよ。通報ではここの住人が行方不明だってことだったんですの。それでもまだあたくし達の出番とはなりませんけれど。でもその住人の行動に怪しいところがあるって。それであたくし達が呼び出されたんですのよ」

「確かに怪しくないワケはないよね」

モオルダアが言いながら部屋の中の方を見ると、押し入れから飛び出した猫が部屋を横切って廊下へ走って行った。モオルダアの言わんとすることが解ってスケアリーはさらに説明をしなければいけなかった。

「この家の状態とは関係ないんですのよ。住人のいなくなる前の数日間、その方の様子が…その、アレでしたのよ」

「アレって?」

「なんて言いますのかしら。魂が抜けたような、っていうのは大げさかも知れませんけれど。通報者の表現を借りるのなら、ゾンビのようになっていた、ってことですのよ」

ゾンビという表現と魂が抜けたのではどっちが大げさなのか解らない感じもするが、それはどうでもイイ。

「問題なのは、その症状が何かの感染症が原因だった場合ですわ。行方不明の住人が心神喪失状態で人混みの中へ行くようなことがあったら、どうなるか解らないでございましょう?」

「となると、ここの猫たちが感染源ということも有り得るけどね」

「そうですわね。まだ狂犬病のような症状の猫は見ていませんけれど。ここの猫たちは検査する必要がありますわ」

「でも検査したところでウイルスなんかは見つからないと思うよ」

スケアリーはこのモオルダアの言葉に不意を突かれて、何も言えないままモオルダアを見ている。モオルダアはそれに気付いているのか解らないが、こういう時の彼に特有の自信満々の口調で続けた。

「普通は猫を沢山飼うような猫好きは猫に去勢手術を受けさせるんだよね。その方が猫の健康にも良いってことにもなってるし。放っておいてどんどん繁殖して、こんな状況になる心配もないし。でも一定の割合で、家が猫だらけのこんな状態になるまで猫にやりたい放題させる人がいる。猫を飼っているというよりも、家を猫に占領されて、それでもまだエサを与え続ける。植民地化されて先住民が奴隷になるようなものだよね」

「ちょいと、モオルダア」

モオルダアのたとえ話が行きすぎているのでスケアリーは一度恐い顔をする必要があった。ただこういう時のモオルダアは恐い顔にビビったりすることはあまりない。

「ここならエサの心配をせずに好きなだけ子孫を残すことが出来る。まあ、不潔なのは問題だけどね」

「だから、何が言いたいんですの?」

「つまりさ。猫たちがここの住人を操って自分達の思いどおりにしているってことだよ。魂が抜けてるのもそのせいだと思うよ」

スケアリーはモオルダアのこの考えを聞いてため息をつくのも面倒になっていた。

「あら、そうでしたの。それじゃあ、今頃住人の方は何をしているのかしらね。猫のためにご馳走でも買いに行ってるのかかしら?」

「或いは次の猫屋敷になる場所を探しているのかもね」

モオルダアの反応が冗談なのか本気なのか解らないのでやっぱりため息をついてしまったスケアリーであった。

「ちょいと、モオルダア。ちょっとは真面目にやってくれないと、困りますわ。久々にこうして呼び出されて捜査が始まっているのですし」

「捜査すべきことがあるのならするけどね。大体その通報っていうのはどこの誰がしてきたんだ?どうせまた誰かがボクらに嫌がらせをしてるんだよ」

「確かに匿名の通報で怪しいところはありましたけれども、何かが起きてからでは遅いんですのよ」

スケアリーにそう言われてもモオルダアはあまりやる気になっていないようだ。超常現象が起きたような痕跡もなければ、美女が出てきそうな感じもない。悪臭を放つ猫屋敷ではモオルダアの望むようなことは何も期待できないという事に違いない。

「ちょいと、モオルダア。聞いているんですの?」

スケアリーがさらに不機嫌な声を出すと、さらに押し入れの中から驚いた猫が数匹飛び出してきた。スケアリーの方は少しやる気があったのにモオルダアは全くやる気がなくて、彼女はイライラし始めている。スケアリーが怒り狂うのは恐ろしいのだが、ここにはわざわざモオルダアが出てきてやるべきこともない。だがこうして話が書かれている以上、何かはあるに違いないのだ。

「まあ、出来ることはするよ」

モオルダアは謝らずにスケアリーの怒りを静めるべく、辺りを見回して何かないか確かめていた。まだ本格的に怒っていないスケアリーに謝ったら逆効果だと思ったのだろう。ただ、こんな事をしても上手く何かを見付けられなければスケアリーの怒りが爆発してしまう可能性はある。

 だがスケアリーが怒り出す前に何かが起きたようだ。モオルダアが悪臭を我慢して縁側から一歩部屋の中へ入ると、奥の方から一匹の猫がやって来た。

 ここにいる猫たちは、人間からエサをもらってはいるが、その他は野生の状態といっても過言ではない環境で生活している。そのために見慣れない人間がいると警戒してなかなか近づいてこないのだが、今出てきた黒猫はあまり怯える様子もなくモオルダアに近づいて来た。

 そのまま黒猫を放っておけばモオルダアの足にまとわりついてきそうな、そんな様子だった。黒いので解りづらいが、他の猫同様に体は汚れているに違いない。そう思うとモオルダアは黒猫を追い払いたくなったのだが、ここはスケアリーが本格的に怒り出さないようにするチャンスでもあるので、しゃがんで黒猫が近くに来るのを待っていた。

 すると思ったとおり、黒猫はモオルダアの膝の辺りにおでこを押しつけてきた。猫に気に入られて戯れている人間を怒る人はいないに違いない。モオルダアはそう思って、得意げな表情でスケアリーの方へ振り返った。スケアリーは納得できないような表情ではあったが、モオルダアがうっかり怒らせそうになっていた時よりはだいぶ表情が和らいでいるようだ。

 モオルダアは少し安心したのか、膝のところに擦り寄ってきた黒猫を撫で始めた。他の猫同様に体に色々なものを付けて汚れているかも知れないということはすっかり忘れている。

 モオルダアは始め猫の頭を撫でようとしていたのだが、猫の方では撫でられるよりも頭をモオルダアの膝に押しつけたいようなので、モオルダアは背中の方を撫でてみた。だがモオルダアの手が黒猫の背中を一度撫でたところでモオルダアは一瞬固まってしまった。

 手にヌルヌルした感触があってウワッと思って、自分の手を見つめてからさらにハッとしていたモオルダア。これまであまり緊張感のなかった彼の意識の中に様々な記憶が蘇って来た。

「スケアリー!…これ」

やる気がなかったり、猫と戯れたりしてたかと思ったら、今度は慌てて汚れた手を見せてきた。

「何なんですの?」

モオルダアのコロコロ変わる態度に呆れている感じでスケアリーが答えた。どうせ汚物が手に付いてしまったとか、そういうことに違いないですわ、と彼女は思っている。だがモオルダアの様子からするとそれだけではないようにも思えた。

「匿名の通報には何か他に意味があったのかも知れないよ」

モオルダアはそう言いながらヌルッとしたものの付いた彼の手をスケアリーに見せた。

「あらイヤですわ。これって…」

これまで不機嫌だったり呆れていたりしたスケアリーもモオルダアの手を見ると、自分達に課せられた使命がなんであったのか、再確認させられているような気分になっていた。

 ウィスキーをラッパ飲みする男が暗躍し、最初は仲間だと思っていたクライチ君が裏切ったり、時に彼自身が裏切られたり、そして特殊な装備に身を包んだ特殊部隊のような人達がやって来て全てを片付けてしまうような、スゴい事が起きているに違いないけど何が起きているのか解らない事件。そんな事件が起きた時に、今のモオルダアの手に付いているオイルのような黒い液体が何度も登場したのだった。

 その黒い液体が正確には何なのかまだ解っていないのだが、ヌルヌルで黒っぽいその背後にはドロドロでドス黒い何かが渦巻いているのだ。

 緊張と興奮で鼻息が荒くなった二人だが、この場所のヒドい空気の事をすっかり忘れていて、それを思い切り吸い込んだ。二人とも変な顔になって息を止めていた。