「KIMOE」

1. 夜のお屋敷

 大きな屋敷というのは誰でも一度は住みたいものではあるが、そこに一人で住むということはあまりしたくないだろう。それが古い屋敷ならなおさらである。静まりかえった屋敷の中にいると、だれも居ないはずの部屋から物音が聞こえてくるような、そんな不気味な雰囲気が大きなお屋敷にはある。事件はそんなお屋敷で起きる。果たして事件といって良いものかは知らないがこれから何かが起きるような、薄気味の悪い夜である。


 この古くからある高級住宅街には大きな家が沢山あるのだが、その中でも特に大きな家を囲む柵の外で先程から一人の男が家の中の様子をうかがっている。古い家が多く、またそれらの家には庭があって沢山の庭木が植えられていたりするので、この辺りは夜になると他の住宅街と比べると暗い。街灯は普通に灯っているのだが、家々の塀から張り出した木の枝がその明かりを遮っている。

 男が居るのは道路から少し奥に入ったところである。そこは男が様子をうかがっている屋敷のとなりの家の敷地なのだが、その場所に特に塀などは設けられておらず、誰でも容易に入り込めるようになっている。それに、その家の明かりは全て消えていて、誰も敷地内にこの男が潜んでいるということには気付かないだろう。時刻はもうすでに零時をすぎている。この家の住人は昔ながらのゆるいセキュリティを信じて眠りについているに違いない。

 男が様子をうかがっている大きな屋敷は、柵の向こうの裏庭を挟んだむこうにそびえている。戦前に建てられたと思われるこの洋館はその古さのために幽霊屋敷と呼ばれてもおかしくないようなたたずまいである。街灯の明かりもほとんど届かないこの不気味な洋館を前にして男は何をしているのか解らないが、この場所に潜んでいるのにはそれなりの理由があるに違いない。

 全ての明かりが消えた隣の家とは違い、洋館の二階の一室だけに明かりが点いている。男は先程からずっとその明かりの点いた部屋を見つめていた。始めはほとんど身動きせずに二階の部屋を見ていた男だったが、次第に手で握った小さなものを潰すような仕草で両手を動かしてみたり、貧乏揺すりを始めたり、落ち着かない様子になってきた。そして、おもむろに携帯電話を取り出すと、どこかへ電話をかけた。

 男が通話ボタンを押してしばらくすると、洋館の中から電話の呼び出し音が幽かに聞こえてきた。男が電話をかけた先はこの洋館だったようだ。呼び出し音が鳴り始めてもなかなか電話に出るものはなかったが、その間に男の息づかいは荒くなり少し興奮してきているようだった。すると男の居る場所から一番近い部屋の明かりが点いた。

 明かりが点くと、外からは中の様子がよく見えるようになった。そこにはこの洋館にふさわしい西洋風の家具が置かれ、壁には大きな絵が飾られているのがわかる。するとそこに若い女性の姿が現れてその部屋に置かれていた電話の受話器をとった。この時この女性の姿を見ていた男の興奮は最高潮にたっしたようで、思わず震える鼻息を自分の携帯電話に吹きかけた。受話器から女性の耳に気味の悪い鼻息の音が吹きかけられた。窓のむこうの女性は慌てて受話器を置くと、これ以上ない不安の表情で部屋の中を見回した。見回して何かが見えるわけではなかったが、この電話が彼女の身に危険が迫っていることの証拠だということは感じていたようだ。

 窓のむこうに女性の姿が見えなくなると、部屋の明かりが消えた。それからしばらくすると、先程まで点いていた二階の明かりも消えた。

 男は洋館の明かりが全て消えた後もそわそわと落ち着かない感じだったが、彼の中に沸き上がる感情を抑えきれなくなったのか、男は柵を乗り越えて洋館の裏庭に侵入した。

 彼は今自分が何をしようとしているのかは解っていない。とにかく先程窓の向こうに現れた女性に近づきたかったのだ。家の中に入って女性を見つけだして、それから何をするかは彼の「沸き上がる感情」が決めることなのだ。男がふと我に返った時に目にするのは血だらけの女の死体なのか、それとも後ろ手に縛られて猿ぐつわをされた女性の姿なのか「沸き上がる感情」に支配されている男には考えることも出来なかった。しかし、その結末は彼にも「沸き上がる感情」にも予想できないものだった。


 男は先程、自分が洋館の様子をうかがっていた時から何かに監視されていたことに気付いていなかったのだ。洋館の一階と二階の間にあるひさしの上から虚ろに輝く二つの目のようなものがずっと男の姿を捕らえていたのだ。そして男が柵を越えてこの中庭に入ってくると、それはひさしから飛び降りて男の前に立ちはだかった。

 目の前に現れた何かの姿を見て立ちすくんだ男ではあったが「沸き上がる感情」に支配されている男は常人のような反応はしない。悲鳴をあげたり腰を抜かしたりするわけでもなくただ目の前に現れた何かを見つめていた。

 男の目の前に現れた何かは突然鋭い爪のある手で男の顔を両側からつかんだ。男はその時幽かに常識的な感覚を取り戻したのか、その手がヌルヌルしていると心の中で思った。きっとそれが男が最後に思い浮かべた言葉になるのだろう。男の顔をしっかりとつかんだ何かはそのまま男を引きずって庭の奥の暗がりへと消えていった。

 その数分後には、男の姿も何かの姿も裏庭から消えていた。洋館の中にいた女性の通報により駆けつけた警官が庭で見つけたは血の海だった。