「KIMOE」

3. お屋敷の中

 洗面所で口紅を落として普通の顔に戻ろうと洋館の中に入ってきたスケアリーは一瞬言葉を失って洋館の中の光景を見回していた。

「ステキ!」

と手で隠している口の中でつぶやいた。この洋館はスケアリーが子供の頃「こんなお屋敷で優雅な暮らしをしたい」と思っていたお屋敷の見本のようだったのだ。吹き抜けの天井から吊られているシャンデリアや二階まで弧を描いて伸びている階段。無駄に広いこのエントランスの先には両開きの扉がある。その扉の向こうにはまたステキな大広間があるに違いない。

 しばらくの間、このステキなお屋敷での優雅な生活を夢想してしまったスケアリーだったが、自分がここへ来た理由を思い出した。

「ちょいと。だれかいらっしゃいませんか?洗面所をお借りしたいのですけれども」

スケアリーの言葉は広い室内に虚しく響いただけであった。この広いお屋敷に誰もいないのは少しおかしいとスケアリーは思った。こんな家には、あるじとその家族以外にも使用人などがいて、家に誰もいなくなるなんてことは無いと思うのは誰でも一緒なのであろう。しかし、この家のたった一人の住人は外にいる刑事と話をしているため、この家には誰もいないのだ。

「あの、聞こえているかどうか解りませんが、あたくしエフ・ビー・エルの権限で洗面所をお借りしますわよ!」

そんな権限はないのだが、スケアリーは早く自分の顔を何とかしたいので中へと進んでいった。静まりかえっているお屋敷が少し不気味だったためスケアリーは早くここを出たくなったのかも知れない。よく見ると正面の扉の他にこのエントランスから左右に延びる廊下があることに気付いた。洗面所があるとしたらこのどちらかですわね、と勝手に推測してスケアリーは右側の廊下を進んでいった。

 この家のたった一人の住人は出増田 希茂恵(デマシタ・キモエ)という若い女性である。昨晩、となりの家の敷地に潜んでいた怪しい男からの怪しい電話を受けて、彼女が警察に通報したのだが、それから警察が駆けつけてくるまでに庭で何かが起きて例の血溜まりが出来たというわけだ。

 キモエが警察に話したところによると、昨晩電話をかけてきたのは真佐下 史郎(マサシタ・シロウ)という男に違いない、ということだ。マサシタは以前にもキモエへのストーカー行為で逮捕されていて、この付近に近づくことさえ禁止されていたのだが、そんな男が禁止されたからといってストーカー行為をやめるとは限らない。昨晩の電話でマサシタが近くに来ていると思いキモエは迷わず警察に通報したのだ。

 そこまでは良いのだが、警察が庭にある血溜まりのことを聞くとキモエは何も知らないと言い張るのだ。あれだけの血溜まりが出来る騒動が起きたのなら家の中にいても何かの物音は聞こえるはずだ。お屋敷といっても古い建物なのだから遮音性はそれほど良いわけではない。しかし、それだけでキモエを疑うわけにもいかず、困り果てた警察はエフ・ビー・エルのペケファイル課に協力を要請したのである。


 廊下を進むスケアリーの目には壁にかけられた何枚もの絵が入り込んできた。誰かの肖像画や風景画であったが、この廊下の薄暗さのためかどれも気味の悪い印象をスケアリーに与えていた。廊下にある縦長の窓からは外で検分を続けている警官達の姿が見え隠れしている。この陰鬱な印象の絵画の並んでいる薄暗い廊下から見る早朝の庭はまるで別の世界のように感じられた。

 スケアリーは壁にかけられた絵をなるべく見ないようにしながら廊下を進んで洗面所を探したのだが、一度左に折れて進むと廊下は終わり突き当たりのドアのあるところまで来てしまった。スケアリーは戻ってもう一方の廊下を探して見ようかとも思ったのだが、誰かの姿を見るまでは外の世界から切り離されたように異様な雰囲気の廊下を戻る気になれなかった。

「あたくしエフ・ビー・エルですけれど、入りますわよ」

スケアリーはいつもとは違ったハリのない声で言うと突き当たりの扉を開けた。

 そこはあまり大きくない部屋だったが、大きな窓があり廊下よりは明るかった。窓の外にはデジカメで写真を撮っているモオルダアの姿があった。この部屋に入って少しホッとしたスケアリーであったが、それもつかの間であった。部屋を見回したスケアリーは窓と反対側の壁に大きな絵が飾ってあるのを見つけたのである。モオルダアならその絵を見て小さく悲鳴をあげていたところだが、スケアリーは何とか息を詰まらせるだけでこらえることができた。

「何なんですの、この絵は?」

スケアリーは多少震える声でつぶやいてから、絵の前へと進んでいった。廊下にあった絵はどれも不気味な感じはしたが、どれも現実世界にあるものを写したものであった。それに不気味さは廊下の薄暗さのためだったかも知れない。しかし、この絵は明らかに見るものに不快な印象を与えることを目的に描かれたとしか思えなかった。

 離れたところから見たその絵は、燃えるような赤い皮膚をもった悪魔の姿に見えた。痩せぎすの体に衣服はつけておらず、微笑むかのように開かれた口には鋭い牙があった。そして虚ろではあるが、その目はしっかりと絵を見る者を睨みつけている。暗い背景にそのような姿が浮かび上がっているのであった。

 背筋にヘンな寒さを感じながらゆっくり絵の前まで来たスケアリーはまた違うことを発見した。この悪魔のような何かが赤い皮膚をしていると思っていたのだが、それは皮膚ではなかったのだ。これは皮を剥がれた人間のようにも見えたのだ。近くで見ると皮の下にあるドロドロした感じの肉や血管などが鮮明に描かれているのが良く解った。

 しかし、どうしてこんな絵を描くのだろうか?無免許だが遺体の解剖もするスケアリーではあったが、この絵は実際の遺体よりも恐ろしい感じがする。実際の遺体ならこんな恐ろしい目で睨みつけたりはしないし、鋭く伸びたかぎ爪で襲いかかってくるような仕草はしないはずである。スケアリーは寒気を感じて身震いすると全身に鳥肌を立てながらその絵を見つめていた。

 その時、スケアリーの背後にある扉がガタリと開いた。スケアリー自身は認めたくなかったが彼女はこの時、驚きのあまり少しだけ悲鳴のような声を漏らしていた。

 ドアのところに立っていたのはキモエであった。ここにスケアリーがいるとは知らなかったキモエもスケアリー同様に驚いていたようだった。しかも、半分口裂け女のスケアリーだったので。一方、スケアリーは自分の顔のことなどすっかり忘れている。

「あの、失礼しました。警察の方ですか?」

驚きで言葉の出てこないスケアリーよりも先にキモエが聞いた。スケアリーは呼吸を整えるまでに少し時間がかかったが、ようやくいつもの冷静さを取り戻したようだ。(自分の顔のことは忘れているが。)

「あたくしは警察ではなくてエフ・ビー・エルの特別捜査官のスケアリーですのよ」

そう言ってスケアリーはエフ・ビー・エルの身分証をキモエに見せた。キモエはエフ・ビー・エルが何のことだか良く解らなかったが、警察のようなものだろう、と思い納得した。

「あなたはこの家の方かしら?なんだかこのお屋敷は人がいなくておかしな感じですわね」

「ええ、私一人しか住んでませんから」

スケアリーは自分の想像していた優雅な生活、使用人が食事の用意や身の回りの世話などをしてくれる生活とまったく違う生活をキモエがここで送っていると解るこの答えに目を丸くしていた。