09. 演劇部の部室
モオルダアは演劇部の部室へ入った。
「この悪魔のような男め!貴様を地獄に送り返してやる!」
いきなり怒鳴られたと思ったモオルダアは驚いて声のしたほうを見た。そこでは劇のリハーサル中だった。自分が怒鳴られたのではないと解り一安心。それにしてもモオルダアは誰にでもビビってしまうようだ。
モオルダアは興味深そうにしてリハーサルの様子を眺めていた。演技をしていた男が喋り始めた。
「そこの男。早くここから出ていくんだ!さもないとキミの命がどうなっても知らないぞ」
男はモオルダアの方を見て言った。モオルダアはこれを台詞だと思っていたので反応しない。するともう一人の男が言う。
「この劇は今回が初演のオリジナル作品だ!貴様が誰であろうと、公演前に内容を知られてはいけないのだ!いったい貴様は何者なんだ?さては悪魔の使いだな。ならばこのオレが貴様を地獄に送り返してやる!」
なんだか変な台詞だなあ。とモオルダアが思っていると、リハーサルをしていた二人がモオルダアの方に近づいてくる。モオルダアは少したじろいでいたが、これも演技だろうと思ってそのまま立っていた。すると二人はモオルダアの両脇を抱えて扉の方へモオルダアを引きずっていく。
「神の力が汝を滅ぼす!神の力が汝を滅ぼす!・・・」
なんだそれ?エクソシスト!?モオルダアが考えている間に二人は彼を部屋の外に追い出して、部屋の扉をバタンと閉めた。二人は台詞を言っていたのではなくて、モオルダアに部屋から出るように言っていたようだ。それにしても変な人たちだ。モオルダアはもう一度ドアのところに行って立ち止まると、今度は追い出されないように説明してから中に入ろうと思った。モオルダアがドアをノックしてから甲高い声を張り上げた。
「たのもう!我こそはエフ・ビー・エルのモオルダア特別捜査官なり。とある殺人事件の捜査のため部長殿と話がしたく、只今参上!」
モオルダアも彼らのような変な口調でしゃべり出した。しかも「只今参上」って意味が解らない。
彼が待っているとドアが開いた。中からさっきの二人とは別の男が顔を出している。
「どうも、ボクが部長です。どうぞ中に入ってください」
モオルダアがせっかく彼らに合わせて変な喋り方をしたのに、この部長は普通に喋っている。
モオルダアが中に入るとリハーサルは一時中断しているようだった。
「先程は失礼しました。公演を間近に控えてみんなナーバスになっていますから」
部長がモオルダアにさっきの部員の行動を詫びた。
「いや、そのことならいいんだよ。ボクにも気持ちは解る。ボクも若い頃は主役として何度も舞台に立ったもんだよ」
その若い頃というのは彼が小学校の時の学芸会での話であるのだが。
「それよりも、ボクはチジョレイコという部員のことが聞きたいんだがね。次の劇では主役をやるとか言うことだけど、もしかして彼女の役というのは悪女の役じゃないかな?彼女は自分をネコ科の女と言っていたけど・・・」
モオルダアがこう聞くと部長は少し笑い出しそうな声で言った。
「ああ、彼女ですか。凄いでしょ。彼女の役は、まあ悪女というか言ってみればカルメンみたいな感じなんですね。男はみんな彼女の虜というか、そんな感じです。劇の内容はボクらのオリジナルですから、言えませんけどね。でも彼女は凄いんです。ボクら彼女がいないところでは彼女のことをイタコと呼んでいるんです」
「イタコ?それって霊媒師みたいなやつのこと?」
「そうですよ。彼女の役作りは普通じゃない。あれは何かが取り憑いてるとしか思えないぐらい凄いんですから。すっかり人格が変わってしまうんです。それだけじゃない、顔かたちまでその人物に変わってしまうんです。年をとった役の時には本当に老けた顔つきになってましたし、軍人の役をやった時は急に引き締まった体型になってビックリしましたよ。どうやったのか知りませんが、いつの間にか筋肉がついて大きな力こぶをボクらに見せて笑ってましたよ。まったく神がかりです。彼女ほどの天才は今まで見たことがありません」
「それじゃあ、ネコ娘に化けることも出来るんだね」
「ネコ娘?何ですかそれ」
「昨日の夜学生を襲った恐怖のネコ娘だよ」
「何で彼女がネコ娘なんかに化けるんですか?確かに彼女はネコ科の女とか言ってますけど劇の中では彼女が変身することなんかありませんし、人殺しなんかもしませんよ」
「そうなのか、それは残念」
そうは言ってもモオルダアはニヤニヤ笑っている。
「どっちにしろ、その劇の公演は取り止めにしてもらう必要があるねえ」
「どうしてですか?その事件とこの劇は何の関係もありませんよ」
部長が興奮してモオルダアに言った。
「いや、そうじゃなくて、このままレイコさんを悪女にしておいたら彼女が危険なんだよ。或いはボクがとばっちりを受けるかも知れない。今ね、ネコ娘なんかよりももっと恐ろしいスケアリーという女性が何とかしてレイコさんを逮捕しようとしているんだよ。キミ達だって天才のレイコさんが逮捕されたら困るだろ?」
「まあ、そうですけど。でも公演は二日後なんですよ。いったいどうすればいいんですか」
モオルダアはそれを聞いて嬉しそうに部長に紙を渡した。
「なに、公演はやめなくてもこれを上演すればいいんだよ」
部長は渡された紙に書かれていることを読んでいた。
「何ですかこれは。美人大学生と優秀な捜査官の恋の物語?」
「ボクが考えた話だよ。なかなかの出来だと思うけどね。もちろん主人公の美人大学生はレイコさんにするんだ。大学に事件の捜査に来た優秀な捜査官と恋に落ちるってことになるんだけど。これならうけること間違いなしだよ」
部長は困っている。
「こんな話は出来ませんよ。くだらなすぎる。ボクらの演劇部はこれでも一応アマチュア演劇界では名門として通っているんですよ。こんなのを上演することは出来ません。それに今やってる劇の脚本はなかなかの出来で、部員達も気に入ってるんですから」
「その脚本って誰が書いたんだ?」
「・・・いや、それが解らないんです。ある日、この部室に来てみたら机の上に脚本が置いてあって、それがあまりにも素晴らしいんで上演することにしたんです。部員の中の誰かだとは思いますけど・・・」
それは、何とも怪しい話だが、モオルダアは気付かない。というより、そんなことには興味ないのだ。かれは自分の考えたストーリーを彼らに演じてもらう必要があった。悪魔の使い、モオルダアのくだらない計画のために。
「そんなものを上演して、後で問題が起きたらどうするんだ?そんな危険な脚本よりもボクの脚本を使うべきだよ。もし出来ないなら・・・」
部長は不安そうにモオルダアの顔を伺っている。
「もし出来ないなら?」
「キミの代でこの演劇部は解散と言うことになるかな?キミは我々が誰だか解っているのか?エフ・ビー・エルを敵に回すときっと痛い目にあうと思うけどね」
部長はエフ・ビー・エルという謎の団体のことを知らなかったが、きっと凄いことが出来るのだと思っていた。本当に演劇部が解散に追い込まれてしまったら・・・。彼は部長として苦渋の決断を迫られていた。それにしても、モオルダアは職権を乱用しているのだが、こういうことは許されていいのでしょうか?まあ、いいか。
「解りましたよ」
部長がつぶやくように言った。
「そうか、それは良かった。それじゃあ今すぐレイコさんに連絡してくれ」
モオルダアの目が輝いている。部長が携帯電話を取り出してレイコに連絡を取ろうとしていた。
「その代わり、あなたの話はひどすぎますから、かなり手直しをしないといけませんよ。子供でもこんなひどい話は書けないですよ。まったく」
部長はそういうと電話に出たレイコと話を始めた。モオルダアは嬉しそうに部長の肩を叩いた。
「まあ、脚本の手直しはキミ達にまかせたよ。それじゃあ、ボクは捜査があるからこの辺で」
モオルダアがご機嫌で部室を後にした。
さあ、これから美人大学生レイコと優秀な捜査官の恋の物語が始まるぞ。モオルダアはこう思って夕暮れのキャンバスをうろついていた。
10.
三十分ほど大学内をうろついていたモオルダアだったが、そろそろ飽きてきていた。何しろ特に用事もないのに、ただうろうろしていただけなのだから。もうそろそろ帰ろうかとも思ったが、ここで帰ってしまったらモオルダアの計画は台無しである。するとそこへスケアリーから電話がかかってきた。
「ちょいとモオルダア。いったいどこにいるんですの。あなたがふらふら遊んでいる間に事件は意外な方へ展開いたしましたわよ」
「へえ、そうなんだ。犯人が捕まったのかなあ」
「そうじゃありませんのよ。犯人はトラでしたのよ。しかも本物のトラで、あなたが喜びそうなトラ人間とかじゃありませんのよ。ガッカリでしょ」
「まあ、ガッカリと言えばガッカリかな」
そうは言っても、それほど落胆した様子はない。今、彼の考えは別のところにある。
「なんだか、どうでもいいような感じですわね。まあ、いいですわ。詳しいことを話して差し上げますから、よく聞くんですのよ」
「ああ、いいよ」
よく聞くつもりなどあまりない。
「実はあの事件があった付近で違法にトラを飼っている男がいて、その男がうっかりトラを逃がしてしまったんですの。でもちゃんと許可を取らずにトラを飼っていたものですから、警察に通報するわけにもいかず自分でトラを探し回っていたんですの。それからあんな事件が起きてしまって、始めは男も黙っていたんですけど、やっぱり罪悪感があって泣く泣く警察に連絡したそうよ。警察はあたくし達が大学でどうでもいい聞き込みをしている間にトラを見つけて射殺したそうですわ。ちょいと、あなた。聞いていらっしゃるの?」
「ああ、一応。そういえばキミはレイコさんのこと調べてたんじゃないのか?」
「それなら面倒だからやめましたわ。どうせもうあの忌々しい大学に行くことはなさそうですし」
「へえ、そうか。それじゃあボクはその忌々しい大学でもう少し散歩でもしようかな。もうこの辺も安全みたいだし」
「あなた、まだ大学にいらしたの?もしかして、あなたはまたトラのパンツを拝めるんじゃないかと思っているんじゃないでしょうねえ?まったくあなたは最低ですわ。あなたみたいな変態はいつまでもトラのパンツを追い回していればいいんですわ」
だんだんスケアリーの機嫌が悪くなってきた。
「いやいや。もうトラのパンツにはお目にかかれないと思うよ。次にボクが見るのはシルクの勝負パンツかな。それにレイコさんは今頃きっとキミの嫌いなレイコさんじゃなくなってるはずだよ」
「どうでもいいですけど。あなたがそこで変態事件を起こして警察に捕まるようなことがあってもあたくし助けには行きませんからね」
ここでブチッという音がして電話が切れた。スケアリーは機嫌を損ねたがモオルダアは少しも気にしていない。
そろそろ出てくるころだけどなあ。モオルダアは先程訪れた演劇部の部室の辺りを歩いていた。もう陽はほとんど落ちかけて、周りは夜と変わらぬ暗さになっている。
「あの、モオルダアさん」
モオルダアは後ろから呼び止められた。モオルダアはそれがレイコだということは解っていた。しかし、モオルダアの予想どおり声の質は昼間取り調べをした時より柔らかい感じになっていた。モオルダアはとうとう来た!と思って振り返った。そこには確かにレイコがいた。しかし、その姿はモオルダアの予想以上だった。これがヒョウ柄のボディコンスーツを着ていた女性と同じ人間なのだろうか?レイコは透き通るような瞳でモオルダアを見つめている。そこには知性と優しさが感じられるようだった。それから白いカーディガンを着て、授業で使うノートなどが入った鞄を体の前で抱えている姿は清楚という言葉をそのまま形にしたような印象さえ与えている。レイコは自分の演じる役が変わったと部長から告げられて間もなく、まるっきりモオルダア好みの美女に変身してしまった。
振り返ったモオルダアはニヤニヤと笑いそうになるのを必死にこらえて、変にゆがんだ口元を引きつらせた。
「キミは、チジョレイコさんだったね?」
モオルダアは知っているのにわざと聞いてみた。モオルダアの美女に対する態度はいつもと変わらない。始めは何とも思っていないよ、という感じで白々しい態度をとるのだ。そして、その後でどうなるのか。まあたいていの場合、というよりも今まで一度も彼のその作戦が成功したことはない。何よりもまず開けっぱなしの口から今にもよだれが垂れてきそうなところが、少しも白々しい態度にはなっていないのだ。
「えっ?私はチジョじゃなくてセンジョですけど」
「そうなの?」
でもどうしてだろう?さっきは「チジョ」だったのに。それにさっきモオルダアが名刺の名前を「センジョ」と読んだらスケアリーはわざわざ訂正した。もしかするとレイコは演じるキャラクターによって苗字が変わるのかも知れない。本名はどっちなんだ?
チジョでなくなったレイコがモオルダアに一歩近づいてきた。
「モオルダアさんはこれから捜査に行かれるんですか?」
「そうだねえ。今回の捜査は多少危険なものになるかも知れないね」
さっきスケアリーに事件が解決したと言われたにもかかわらず、適当なことを言っている。
「あの、モオルダアさん。私怖いんです。だってあんなひどい事件の後でしょう。もしかしてまた誰かが殺されたら・・・」
そう言っているレイコの目は少し潤んできた。
「それに、私の家は昨日の事件現場のすぐ近くなんです。それで、モオルダアさんにお願いがあるんです。私を家まで送ってくれませんか?」
モオルダアの目はレイコの不安そうな眼差しに相反して輝いてきた。
「もちろんだとも。市民の安全を守るのが優秀な捜査官の第一のつとめだからね」
モオルダアはもうこの周辺が安全だと言うことを知っているので、何とでも言える。これを聞いてレイコの瞳から不安が消えた。
モオルダアは大学の外へ通じる方向へ歩き出すと、後ろからレイコが近づいてきて彼の腕にしがみついてきた。「やったー!」モオルダアは頭の中で叫んでいる。彼が考えていた以上に彼の計画は上手くいっている。脳内の花畑は満開の花でいっぱいになった。綺麗な蝶々もひらひら飛んでいる。それから遠くに目をやれば空には虹も架かっている。「美人女子大生と優秀な捜査官の恋の物語が今始まるのだあ」モオルダアは鼻息が荒くなっているのに気付いて慌てて冷静さを取り戻そうとしている。それでもレイコはそんなことには気付かずにモオルダアのすぐ隣に立っていた。
二人が寄り添って歩き出してからすぐレイコは自分の腰に当たる何かに気付いてモオルダアに聞いた。
「あの、モオルダアさん。これなんですか」
レイコはモオルダアのポケットを指さしている。
「ああ、これか。こんなものにはもう用はないんだったな」
モオルダアはそういうとポケットからカツオ節を取り出して道端に放り投げた。
二人はぴったりとくっついて大学の外へと歩いていった。その後、どこからやってきたのか知らないが、モオルダアが投げ捨てたカツオ節のところへ何匹ものネコが集まった。彼らが話していた場所は今、ネコで溢れかえって不気味な様相を呈している。