「RIDDLE」

1.

 電話が鳴っている。この電話の音がこの薄汚い部屋に何かの変化をもたらすことはなさそうだ。部屋には新聞や雑誌。それに何の資料か解らないが、まとめられていない紙の束がそこら中に散乱している。部屋の隅にはビールの空き缶が不安定に積み上げられている。しかしこの部屋の中にある物は全て電話の音には反応しない。電話に反応することになっているのは、こういった「物」ではなくて人間なのだから。しかし、この部屋には人間はいるのだろうか?電話が鳴り出す前からずっとこの部屋は静まりかえっていたのである。耳を澄ましてみたところで寝息や心臓の音は聞こえなかったのだ。新聞紙の向こうに埋もれそうになっているベットには毛布がある。それはそこに寝ていた人間が起きあがってベットから這い出してきた時のままの状態でベットの上に小さな山脈を作っていた。

 ようやく電話の音がおさまった。しかし、またすぐに鳴り出すはずである。これまでの三十分間、電話は繰り返しかかってきていた。電話をしている相手はこの部屋に誰かがいると確信しているのか、或いはどうしてもこの部屋の人間と連絡が取りたいのかのどちらかであろう。いや、もしかするとこの部屋の人間が生きているということを確かめたいのかも知れない。また電話が鳴り始めた。


2. 二日前の夜。大学にほど近い住宅街。


 薄暗い路地の近くに一台の大型ワンボックスが停車した。ワンボックスのドアが開くと、中からライフルを手にした男達が数人おりてきた。彼らは黒いユニフォームに身を包み、防弾チョッキを付けている。それからヘルメットと暗がりで物を見るための暗視スコープも付けているようだ。この静かな住宅街にはまったく似つかわしくない姿の彼らは、車から降りると順序よく路地へと走っていった。素早くそして正確に。暗視スコープの赤い光が綺麗に並んで路地の奥へと進んでいった。全てを無言でおこなう彼らが、この静かな住宅街の住民を恐怖に陥れることなどないであろう。彼らはきっと誰にも気付かれないように任務を遂行することを訓練されているに違いない。

 列の一番先頭にいた男が止まって、後ろに手で合図を送った。すると、続いていた男達も止まり、片膝をついてライフルを構えた。彼らは言葉はなくても合図だけで全てを理解して行動することができる。先頭の男が誰かに無線で連絡を取っている。

「こちら捕獲部隊。猫女の位置を確認。全員捕獲体勢に入りました。どうぞ」

「よろしい。そのまま捕獲作戦開始の合図を待て」

空を見上げるとどこからか一機のヘリがこちらへ向かってきているようだ。中には捕獲部隊からの無線連絡を受けた男、多分部隊を指揮する男、が乗っている。そしてその横では、スーツを着た男がウィスキーをラッパ飲みしている。スーツの男は静かにとなりの指揮官の様子をうかがっていた。

 すると、このヘリの無線に地上からまた連絡が入った。

「緊急事態!市民が近づいてきます。男と女です。男のほうは猫女に襲われそうです」

「何だって!?」

指揮官はそこまで言ったが、すぐには指示を出さず、となりにいたスーツの男のほうを見た。スーツの男はウィスキーを一口飲むと、静かに指揮官に言った。

「男も一緒に捕獲するんだ」

それを聞いた指揮官はスーツの男に言われたとおりに地上に連絡した。

3.

 ヘリから連絡を受けると、列の先頭にいた男がまた後ろに向かって合図をした。すると部隊は先程と同様に規則正しい動きで路地をさらに先へと進んだ。そこは二つの路地が交わるところである。部隊の男達は塀の影や電柱の後ろに身を潜め、ライフルをもう一つの路地の標的に向けて狙いを定めた。その中の一人は他の男達よりも少し前に進んだ。彼の持っているの銃は他の男達のライフルとは少し形が違う。彼はその銃に注射器のような物を装填して構えた。

 暗視スコープを透して標的にねらいを定める。闇の中でも狙っている先ははっきりと見ることができた。しかし、彼が狙っているものだけは影のようにしか見えない。彼らの言っていた「猫女」とはこのことなのだろうか。その影の中のギラギラ光る目だけはなぜかはっきりと見ることができた。

 銃を構える男はその目を見て、その目に吸い込まれていくような錯覚に陥った。しかし、この任務のために特別な訓練を受けてきた彼はこの妙な錯覚と戦っていた。隊長の作戦開始の合図で即座に引き金を引いて標的に命中させなければいけない。失敗は許されない。

 男が狙う黒い影の前には先程ここへ現れた男の姿が見える。男は口を半分開けてよだれを流しながら、じっと黒い影のギラギラした目を見つめている。黒い影は両手でしっかりと男の両肩をつかんでいる。

 すると空に光が見えた。先程のヘリがここへやって来たようだ。捕獲部隊の男達の緊張が高まっていく。そして隊長が特殊な銃を持った男に合図を出した。男は合図を確認すると引き金を引いた。圧縮ガスを使うこの銃は撃ってもほとんど音がしない。中の注射器のような物が黒い影のような物へと放たれた。

 狙っていた場所からは何の反応もない。「あたったのだろうか?」銃を撃った男は心配になったが、今はそれどころではない。もう一度注射器のような物を銃に装填すると、今度は黒い影に捕まっていた男に狙いを定めた。もう一度銃を撃つと、今度は確実に命中したことが解った。暗闇の中で「ハウッ!」という甲高い妙な悲鳴が聞こえた。

 その瞬間、捕獲部隊は黒い影のほうへと走っていき倒れている黒い影と男を担ぎ上げた。そして、彼らがやって来た路地を元に戻ると黒い影と男をワンボックスの中に積み込んでドアを閉めた。ワンボックスは静かに走り出した。

 作戦開始から三十秒ほどしかたっていない。見事な捕獲作戦であった。作戦終了の知らせを聞くと上空のヘリもどこかへ飛んでいいってしまった。

4.

 捕獲作戦が終わったあとの暗い路地で、先程の男と一緒にここへ歩いてきた女が一人取り残されていた。女は驚きと恐怖でしばらくただ呆然とそこに立ちつくしていた。いったい何が起きたのか、まったく理解できない。彼女の足下には捕獲部隊が撃った注射器のようなものが中身を半分残して転がっていた。意識していたのか、していなかったのかは解らないが女はそれを拾い上げて手の中の注射器を見つめた。そして、次第に自分がいま「B級ホラー」級の危険な状況にあるように思えてきた。それから、女は慌ててその場を走り去った。そして近くにある自分の住んでいるアパートに駆け込むと、急いで鍵を閉めた。

 いったい何が起きたのか。女はあの作戦が行われた路地に着くまでに自分が今日してきたことを一つずつ思い出そうとしていた。しかし、考えれば考えるほど彼女の頭は混乱していく。それもそのはず。先程の作戦が行われることと彼女のその日の行動とはまったく関係がないのだから。しかし、混乱しながらも女はあることを思い出したらしい。女は持っていた鞄を開けるとそれを逆さまにして中の物を全部床にぶちまけた。そしてその中から一枚の名刺を拾い上げるとそこに書かれている番号に電話をかけた。

「スケアリーさん。私、私です。大変です。大変なんです。モオルダアさんが!大変なことに!」

5. 怯える女子大生、レイコの部屋

 レイコはスケアリーに先程の騒動の一部始終を話した。あとはすぐに駆けつけると言ったスケアリーを信じて待つしかなかった。いったいあんな話を信じてくれるのだろうか?レイコは心配になっていた。

 一緒に歩いていたモオルダアの様子が突然おかしくなって、モオルダアがふらふら歩いていった先には得体の知れない何かがいた。そしてそのすぐあとにどこからともなく現れた謎の集団によってモオルダアとそこにいた何かを連れ去っていったなどという話を、スケアリーは信じてくれるのだろうか?

 でもそこは心配ご無用。スケアリーはいつもモオルダアからもっと変な話を聞かされているので慣れてしまっているのである。今までだってモオルダアの話のとおり、とはいかなかったものの、不可思議な現象は何度となく目にしてきたのだから。それでも、スケアリーはレイコの話がでたらめではないのかと思い何度かモオルダアに電話をかけてみたのだが、モオルダアは電話に出なかった。

 レイコは部屋の道路に面した窓のカーテンを少しだけ開けて道路の様子をうかがってみた。幸い怪しい人影はないようだ。そこへ一台の車が到着した。レイコは一度外から見えないように窓の脇に身を潜めてから、もう一度外を除いてみた。車からスケアリーが降りてきたのが見えた。レイコは多少ホッとしてまたカーテンを閉めると玄関のほうへ向かった。レイコがドアの前に立つとちょうどスケアリーが呼び鈴を鳴らした。

「ちょいと、どういたしましたの?」

レイコがドアを開けるなりスケアリーが言った。それもそのはず。夜中にいきなり変な電話で呼び出されてスケアリーは少し機嫌が悪かったようだ。しかし、ドアを開けたレイコの顔が真っ青なことに気付いたスケアリーは、何か重大なことが起こったに違いないと思い、自分の態度を改めなければいけなかった。

「いったいどうなさいましたの?」

もう一度スケアリーが聞いた。今度は少し柔らかい口調になっている。

「警察に話しても信じてもらえないと思ったもので、スケアリーさんに電話したんです。来てくれて本当にありがとうございます」

多少のことには動じない強い女スケアリー(モオルダアはそれが怖くてたまらないのだが)がやって来て安心したのか、レイコの目は多少涙ぐんでさえいる。

「あたくしだって、まだ信じているわけではございませんけど。なんだかあなたの話したことって、モオルダアがいつも言っているくだらない地底人の話とあまり変わらないんですもの。それに、どうしてあなたがモオルダアと一緒に歩いていたんですの?」

それは、モオルダアの悪巧みのせいなのだが、レイコはまだ気付いていない。というよりもレイコとはそう言う人間なのだ。演劇部の劇で捜査官に恋する女子大生の役をやると決まったら、まるっきりその役の人間になってしまうのだから。

「私、モオルダアさんに家まで送ってもらう途中だったんです。いろいろ怖い事件のあった後ですし、モオルダアさんてとっても優しそうで、それに頼れる感じだし…」

ここまで聞いて、スケアリーはさらにわけが解らなくなってきた。「優しそう」「頼れる感じ」っていったいどういうことなんですの?スケアリーはレイコが新しい役になりきっていることを知らないので、このへんはまったく理解できないのだ。

 レイコは遠くを見つめるような感じで話を続ける。

「私がモオルダアさんに家まで送って欲しいって頼んだら、快く了解してくれました。ちょっと変わってるところもありますけど、私はモオルダアさんがとってもいい人だなって直感したんです。それがあんなことになってしまうなんて…」

ここで、レイコは先程の事件を思い出してスケアリーのほうをに怯えた目を向けた。

 なんだかこれはまたややこしいことになってきましたわ。それにどうしてこんなに演劇じみた喋り方をするのかしら?スケアリーは思っていたが、それよりもモオルダアは何をしていたのだろうか?事件よりもそっちが気になってくる。

「まず始めに言っておくことがありますわ」

スケアリーは本題に入る前にどうしても言いたいことがあった。

「あなたが言っていた優しくて頼れる人って、本当にモオルダアなんですの?だとしたらあなたはとんでもない間違いをしていますわ」

「えっ、何でですか?」

「まあ、それはどうでもいいことですわ。いずれわかることでしょうし」

スケアリーはここでようやくモオルダアの行方が気になってきた。レイコの話に調子を狂わされて肝心なことが後回しになってしまった。

「それで、その黒い服の人たちですけど。あなたには何か心当たりはありませんの?」

スケアリーが聞くと、レイコはただ首を横に振ってからこう言った。

「実は、まだスケアリーさんに話していないことがあるんです。電話であんまり詳しく話すと信じてもらえないような気がして」

スケアリーはまたおかしなことになってきたと思いながらも、努めて怪訝な表情にならないようにしていた。良く解らない話でも聞いていないと事が進まない気がしてきたようだ。それに、レイコが何か恐ろしい事に遭遇したのは本当のようだし。

「あの黒い服の人たちですけど、目が光っていたんです。もしかするとモオルダアさんを襲おうとした『得体の知れないもの』の仲間かも知れません。それから、ほんの少しの間ですけど空がすごく明るくなったのを覚えています。何が飛んできたのかはわかりませんが、確かヘリコプターのような大きな音がしていました」

やっぱりおかしくなってきた。

「それはきっとヘリコプターだと思いますわよ。それで、モオルダアはヘリコプターに乗せられてどこかへ連れ去られたんですのね?」

「いいえ、違います。モオルダアさんは黒い服の人たちに担がれていきました」

困ったことになってきた。スケアリーにはまったく話が理解できない。いずれにしてもモオルダアの身に何かが起きたことは確かなようだが。

「これでは埒があきませんわ。モオルダアを助けたいのならもっとわかるように話していただけませんこと?」

「あっ、ごめんなさい。私、あの時はすごく怖かったから、記憶が混乱しているのかも知れません。実は私、今でも心配なんです。モオルダアさんが言うにはこの事件の犯人はすごく頭のいい人なんですって。だからきっと私を誘拐しなかったのもきっと何かの計画のうちなんだと思うんです。きっと犯人は私を狙っているんです。もしかすると私がスケアリーさんを呼ぶことすら計画のどおりなのかも…」

レイコの話がまったくわからないスケアリーは彼女を遮った。

「ちょっとまってくださるかしら。この事件って言うのはこの近くで起きた多惰野凡太(タダノ・ボンタ)殺害事件のことですわね。あの事件でしたら、犯人は人ではなくてトラだったんですのよ。それに、そのトラはもう射殺されているんですから。いったいモオルダアは何を考えているのかしら」

これを聞いてレイコまでなんだか訳が解らなくなってきた。また別の事件が起きたと言うのだろうか?頭の中を整理するために二人にはしばらくの沈黙が必要だった。しばらく経っても少しも頭の中は整理されなかったのだが。

「なんだか解りませんが、モオルダアが得体の知れないものと一緒に連れ去られたと言うことだけは解りましたわ。でもそれだけでは…」

考えをまとめないまま喋りだしたスケアリーの言うことを聞いてレイコは何かを思いだしたようだ。

「そうだ!私は証拠を持っているんです」

レイコは事件のあとに見つけた注射器をスケアリーに渡した。なぜかレイコは現場からそれを持ち帰っていたようである。スケアリーは渡されたものを見つめていた。

「あら、何ですのこれは?これは麻酔銃に使う注射器のようですわね。これがもし犯人が使ったものだとしたら、重要な手掛かりになりますわ。でもレイコ様。あなたのしたことは本当はいけないことなんですのよ。事件現場の証拠品を勝手に持ってくるのは。でも今回に限っては的確な判断ですわ。あなたもなかなかやるじゃありませんか」

レイコは「もちろん、憧れのモオルダアさんのためですから」と言おうと思ったが、胸に何かがつまっているような妙な感じを覚えて口に出すことができなかった。レイコの中で何かが変わっているのだろうか。もしかするとスケアリーと話しているうちに「モオルダアが優秀な捜査官ではない」ということに気づき始めていたのかも知れない。気の毒なモオルダア。