「RIDDLE」

10. レイコの通う大学。難しいことを研究している研究室。

 スケアリーがレイコに連れられてこの研究室にやって来たのは夜の9時を過ぎた頃だった。いまこの大学のキャンバスにいるのは警備員と学会での発表を間近にした教授と部室で酒を飲んでいる気楽な学生ぐらいである。広いキャンバスは夜になると人の気配もなくなり明かりのついている部屋は眩しいぐらいの明るさになる。その明かりの中で研究室の机についたスケアリーが自動販売機で買った紅茶をほおづえをつきながら飲んでいる様子がよく見える。隣に座ったレイコはずっとスケアリーの横顔を見つめている。見つめられているスケアリーもこの視線に気付いていないわけではなかったが、その妙に情熱的なレイコの視線を感じたスケアリーは彼女の方に目線を移すことができなかった。

「随分と時間がかかるんですね。私は化学のこととか全然知らないから、こんなに大変な作業が必要だなんて思ってませんでした」

スケアリーがずっと何も言わないのでしびれを切らしたレイコが口を開いた。これでやっとスケアリーもレイコの方に顔を向けることができた。

「それはそうですわ。いくら技術が進歩したと言っても、薬品の成分を厳密に調べるには時間はかかりますわ」

そのあとにも言いたいことは沢山あるスケアリーであったが、レイコの方を見たとたん、またなんだか妙な情熱を感じる視線で見つめられてしまったので、少し言葉を詰まらせた。それを見たレイコは、どうしても会話を終わらせたくないという感じで言った。

「スケアリーさんは凄いですよね。容疑者を追いかけながら、こういう面倒な科学的捜査もしているんでしょ?」

言い終わるとレイコは目をぎらつかせてスケアリーを見つめた。また見つめられてすぐに返す言葉が出てこないスケアリーであったが、言われたことにはイヤな気がしなかった。

「それはそうですわ。あなたにはまだ解らないかも知れませんが、捜査というのは…」

スケアリーがここまで言うと研究室のドアが開いて、白衣を着た男が入ってきた。この男が入ってきた瞬間、暗闇の中でこうこうと輝いていたこの研究室に厚い雲がかかったように暗くなったような感じがした。

 ここへ入ってきたのは、大学院の学生で演劇部のOBであるらしい。どう考えても明るい性格だとは思えないこの青白い顔の男は、脂ぎった前髪をおでこになでつけながらスケアリーの方へと黙ったまま歩いてきた。ちなみに演劇部でのあだ名は「ヌリカベ」だったそうだ。演じた役は死体の役ばかり。死体が出てこない演目の場合は大道具として(大道具係ではなく)壁になって舞台の後ろの方に立っていた。(ホントに?)

 スケアリーは無言で近づいてくるヌリカベ君を見て、座っていた椅子を少し後ろに引いてすぐにでも逃げ出せるように構えた。地味なくせに頭がでかいヌリカベ君はそれだけダークな威圧感を持っていたのだ。それにあの髪のベトベト感はなんなのだろうか?整髪料なのか、それとも皮膚から出る油分なのだろうか。ヌリカベ君が最後に髪を洗ったのがいつなのか、多分彼自身も思い出せないだろう。

 ヌリカベ君はスケアリーの机の前に立ち止まると持っていた紙を彼女に差し出して「出ました」と一言だけ言った。スケアリーは紙を差し出しているヌリカベ君を少しの間呆然として見つめていた。ヌリカベ君もスケアリーが彼の差し出した紙を受け取らないので、くっきりとしたクマのできた眼を真っ直ぐスケアリーの方へ向けたままだった。それから五秒ほどたっただろうか。こんな風に見つめ合うには長すぎる時間が過ぎた時、ヌリカベ君がもう一度言った。「出ました」

 スケアリーは悪い夢から覚めたようにビクッとしてからヌリカベ君の差し出している紙を受け取った。

「ああっ、ご苦労様でしたわ」

スケアリーは冷静さを装おうとしたが、まったくダメであった。人の仕事に対して「ご苦労様でしたわ」なんてことは今まで一度も言ったことがないのに。このダークな大学院生のダークネスに調子が狂っている。

 それでも、スケアリーは渡された紙を見ているとこの薄気味の悪い学生がただの薄気味の悪い学生ではないことが解った。そこにはレイコが事件現場から持ってきた注射器に入っていた薬品の分析結果が細かく記されていた。

「ケタミンです」

分析結果を見ていたスケアリーにヌリカベ君が言った。

「ただの麻酔薬ですよ」

そう言われたスケアリーもそのように思っていたが、スケアリーは違うことにも気付いていた。

「確かに主な成分は麻酔薬のようですけど、どうしてこんなものが成分の中に含まれているんですの?」

スケアリーが持っていた分析結果を指さしてヌリカベ君に見せた。

「さあ、ボクにはなんとも…。マタタビラクトンが入った麻酔なんて効いたことありませんし、そこはボクの専門外ですから。でもおとといの事件はトラが犯人だったんでしょ。それと関係あるんじゃないですか?」

「ネコにマタタビということですの?」

スケアリーは何も納得できるところのないまま、とりあえず言ってみた。

「どうせだったら小判が入っていれば良かったんですよ」

ヌリカベ君は表情を少しも変えずにこう言うと、また入ってきた時と同じように無言で部屋から出ていった。

 スケアリーはヌリカベ君が出ていった方をまた呆然として見つめていた。そしてしばらくすると、レイコに聞いた。

「最後の一言は冗談だったのかしら?」

「さあ、私には話が難しくて何のことだか解りませんでした。でもヌリカベさんは前からずっとあんな感じですから。それでも凄く頭がいいんですよ」

「それは解りますわ。頭が悪ければこんな分析はできるはずありませんから」

「それで、麻酔薬とかマタタビとかっていったい何なんですか?この事件と関係があることなんですか?」

関係があるのかどうか、スケアリーにはまったく解らない。麻酔薬にマタタビが入っていることがモオルダアの誘拐にどう関係しているというのだろうか?もしかすると、あの麻酔薬はこの事件とはまったく関係ないのだろか。とりあえずレイコにこれまで解ったことを伝えなければいけない。謹慎処分中の彼女のパートナーはレイコなのだから。

「あなたの持っていたあの注射器ですけど。あれには動物の麻酔に使われるものが入っていたんですのよ。一般的な麻酔銃に使われるのと同じもだったんですけど。でもなぜかその中からマタタビの成分が検出されたんですの」

説明するスケアリーをレイコがじっと見つめていた。

「スケアリーさんってなんでも知ってるんですね」

そう言うと、レイコは眼をぎらつかせてさらにスケアリーを見つめた。「どうしてこの方はこんなにあたくしのことを見つめるんですの?まるであたくしのことを…」スケアリーはレイコの熱い視線に困惑して返す言葉が見付からなかった。スケアリーが困っていると、また静かに部屋のドアが開いた。

 そこにはヌリカベ君の姿があった。先程と同じようにダークなオーラを発しながら無言で近づいてくる。スケアリーはレイコに見つめられて困っていたが、こういった良く解らない状況を変えてくれそうなこの訪問者を歓迎する気にもなれなかった。ヌリカベ君が迫ってくるのにはなぜか耐え難い恐怖を感じてしまうのである。

 ヌリカベ君はまた今度も紙を持っていた。スケアリーの前に来るとさっきと同じようにスケアリーに差し出すと、今度はこう言った。

「血が付いてました」

ヌリカベ君は必要最低限のことしか言わないようだ。いや、最低限にも達していないかも知れない。スケアリーが彼の持ってきた分析結果に眼を通した。それは注射針に着いていた血の分析結果らしい。

「DNAはまだですけど」

そう言って、ヌリカベ君はまた黙ったまま部屋を出ていった。

スケアリーは渡された分析結果を見ながら感心していた。それはその分析結果に対してではない。そこには注射針についていた血液の血液型しか書いていなかった。それよりもスケアリーが感心したのは、あの注射針から血液を採取したことに対してだった。「あんな方がエフ・ビー・エルにいてくれたら、あたくしは大助かりなんですけど」とスケアリーは思っていた。しかし彼はエフ・ビー・エルなんて怪しいところには来ないだろう。きっとこのままずっと大学で研究を続けるか、どこかの製薬会社とかに入社して結構な給料をもらって楽しく生活するに違いない。彼に「楽しむ」という感情があればの話だが。

「今度は何が解ったんですか?」

「ヌリカベ君が注射器についていた血液を調べてくれたんですのよ。…あらイヤだ。これってモオルダアの血液型と同じじゃありませんか!」

ここにきてやっとモオルダアが出てきた。

「ネコにマタタビではなくてモオルダアにマタタビということでしょうか?」

スケアリーが独り言のように言っている。恋する女子大生レイコには良く意味が解らなかったが、じっとスケアリーを見つめることだけは忘れなかった。

11. レイコの部屋

 スケアリーはレイコの部屋に泊まることになった。そう提案したのはレイコだった。始めは断ろうとしたスケアリーだったが、レイコがどうしてもというので、仕方なく承諾した。よく考えれば、彼女は謹慎中のため明日はまだエフ・ビー・エルに出勤しなくてもいいのだ。それなら、仮の捜査本部として、仮の研究所が近くにあるここは最適である。

 決して広くはないが、女性らしい丸みを帯びた家具が綺麗に並べられた部屋のソファーに座っていると、スケアリーもなんとなく落ち着いた感じがした。「これだから女同士はいいんですのよ。モオルダアと同じ部屋に泊まるなんてことは絶対にいたしませんわ。何しろあの人は変態なんでございますから。もうこうなったら、モオルダアは降板にしてあたくしとレイコさんのコケティッシュ私立探偵物語にしてしまったらどうですの?作者様」

 それは、ちょっと困ります。それよりもスケアリーさん。またレイコさんがあなたのこと見つめてますよ。

 スケアリーはモオルダア降板について考えていたため気付かなかったが、並んで座っているレイコはまた先程の研究室にいたときのようにスケアリーを見つめていた。いったいどうしたというのだろうか?スケアリーは研究室にいた時から、レイコのこの視線に気付くと胸の奥に切なさに似た喜びみたいなものを感じるのだった。あの視線には何か特別な感情が含まれている。アダムが禁断の果実を口にしたあとに出来たもう一つの禁断の果実。「これって、もしかすると…。いや、そんなことはございませんわ。あたくしはノーマルですのよ!」スケアリーは心の中で何度も自分に言い聞かせていた。

「スケアリーさん、今何を考えてるんですか?モオルダアさんのこと?それとも他のこと?」

不意をつかれたスケアリーが少し驚いてレイコの方に振り返った。

「ええ、まあ、そうですけれど」

この「そう」が何を指しているのか解らないが、スケアリーが答えた。本当は何を聞かれたのかすら良く解っていない。

「うふふ。上の空って感じですね。まるで誰かに恋してるみたい」

レイコが話を怪しい方へと進めようとしている。スケアリーはレイコに見つめられてなんとなく返す言葉が出てこない。レイコには解っていた。彼女もスケアリーも何か触れてはならないものに、今にも触れてしまいそうな衝動を必死に押さえていることを。

「誰かを好きになるのって、そんな感じですよね。いつでも頭の中のどこかにその人がいる。何を考えてもその人の名前が浮かんでくる」

レイコが少しずつ近づいていることに気付いたスケアリーはソファーの端の方へ重心を移した。レイコはまだ先を続ける。

「そんな時に私は思い悩んだりしないんですよ。スケアリーさんは、こういうのは私がまだ若いからだって笑うかもしれませんが、私はいつだって自分の感情には正直でいようって思ってるんです」

そう言うと、レイコはスケアリーの手を握った。先程からソファーの端にじりじりと追いつめられていたスケアリーは手を握られると固まったまま動けなくなってしまった。

「スケアリーさん。こんなことって、おかしいのは解ります。スケアリーさんだってそうでしょ。私、直感したんです。だから私の正直な気持ちを…」

固まったままレイコを見つめるスケアリーの目の前にレイコの顔が近づいてきた。「どういたしましょう?これ以上続けられたらあたくし、どうかしてしまいますわ」スケアリーはなんとかこの場から逃げようと考えていた。しかし、いくら考えても思い浮かぶのは目の前のレイコの顔だけ。「あたくしはノーマルよ。あたくしはノーマル…」

 するとその時、レイコの部屋の電話が鳴った。これでスケアリーはなんとか正気を取り戻したようだ。レイコの両肩を軽く押して彼女を遠ざけてからスケアリーが言った。

「電話ですわよ」

レイコは少しガッカリした顔をして受話器を取るために立ち上がった。それとほぼ同時にスケアリーも立ち上がった。どうやら、どうにかなる前に何とかなったようだ。

「それじゃあ、あたくしはシャワーを浴びてきますわ。あっ、シャワーといってもそういう意味じゃありませんからね。今日は疲れましたから、シャワーを浴びたらぐっすり眠りますから」

電話で話しているレイコに聞こえているのかは解らないが、スケアリーは慌ててバスルームに逃げ込んだ。

 バスルームに入ると鏡の付いた洗面台があった。鏡に映った自分の顔にスケアリーが語りかけた。「あなたはノーマルですのよ。あなたはノーマルですのよ…」

 バスルームの外からは電話で話すレイコの声が僅かに聞こえていた。

「それじゃあ、恋する女子大生は中止になったんですね。せっかく役に入り込めたのに。それで、上演するのは…はい…はい。ということは私は元どおり悪女の役ですね。…はい…はい…」


 スケアリ−はまだ鏡の中の自分と向き合っていた。ようやく自分を取り戻したスケアリーは一つ大きく息を付いてから、上着のボタンに手をかけた。そういえば昨日の夜、ジョギングから帰ってきてからまだシャワーを浴びていなかった。「もしかすると、あたくしって今日は野獣の臭いをさせていたのかしら」スケアリーは気になって、胸元までボタンをはずしたシャツの襟をつかんでそこへ鼻を近づけてみた。自分の臭いは自分では良く解らないものだが、特に悪臭というほどの臭いもしなかった。なんとなく一安心した彼女は服を脱ぎながらもう一度鏡に向かって語りかけた。

「まったく、今日はおかしなことばかりで…」

ここまで言うとスケアリーは鏡の中の様子が先程と違っていることに気付いた。彼女の後ろには曇りガラスの貼られた小さな窓があるのだが、そこにぼんやりと人影が映っているのである。

「あらいやだ、のぞきですわよ!」

 スケアリーは慌ててバスルームを飛び出した。すぐにでも表に出てのぞきの犯人を捕まえたいのだが、脱ぎかけの服が上手く着られない。そこへレイコがビックリしてやって来た。

「レイコさん。のぞきですわよ!早く警察に連絡して」

スケアリーにこう言われてもレイコは動かなかった。レイコはのぞきが出たことよりもスケアリーが自分の部屋にいることに驚いているのだ。

「ちょっと、あなた私の部屋で何してるの?」

レイコに言われたスケアリーはボタンを留めようとする手を止めて彼女の方を見た。レイコは始めて会った時に着ていたヒョウ柄のボディコンスーツを着ている。

「レイコさん、なんですのそれは?」

「なんですのじゃないわ。まず、私の質問に答えなさいよ。どうしてあなたみたいな

犬が私の部屋に勝手に上がり込んでいるの?ここはネコ科の女の住む場所。さっさとその臭い服を着て出ていかないと、不法侵入で訴えるわよ」

スケアリーには何が起こっているのかまったく理解出来ない。そのせいで臭いと言われたことにも気付かなかった。スケアリーがバスルームで鏡と対話をしている間に、レイコは別人になってしまったのだ。恋する女子大生レイコからネコ科の女レイコに。身も心も役になりきる天才女優のレイコは役が変わればそれまでの記憶も忘れてしまう。

 スケアリーが居間へ戻っていったレイコの方を呆然と見つめていた。何が起こっているのかを必死に考えようとしているのだが、頭に浮かんでくるのは「ハテナ」ばかり。レイコは部屋の中からスケアリーの鞄を投げてきた。スケアリーは「ハテナ」で埋もれた意識の中でそれを胸で受け止めた。するとレイコの声が聞こえてきた。

「その薄汚い鞄を持ってさっさとお帰り!」

「はあ」

スケアリーは大量のハテナの中からなんとか「はあ」という返事を見つけて、そのまま玄関へ向かうと、靴を履いて外に出た。