「アパートメント」

はじめに

 それぞれの部屋には違った人がいて、違った生活があるが、外から見ればそれは一つの建物。そういうアパートをネタにして書いたので、この「アパートメント」を一つのストーリーとして読もうとすればワケの解らないことになる。各章では違う話が展開するのだが、それでも「アパートメント」という一つの話を外から眺めるとそれは一つの物語になっているようにも感じられる。そういうお話です。

1. 201号室

 窓から遠くを見つめると、雲がひとかたまりゆっくりと流れていく。この寒い時期の空はあまり青いとは思えない薄い色をしていると気付いたのはつい最近のことだ。ここへやって来て何年も経つというのに。

 窓の下の通りでは一人のサラリーマンが通り過ぎていった。この人の少ない昼間の住宅街にもスーツ姿は沢山見かける。あれはきっと銀行員に違いない。ここに来てから私は色々な人間を観察してきたが、あの感じは銀行員の典型といった感じだ。商売のための嘘と人を騙すための嘘があるということを知っている、よくできた銀行員だろう。まあ、そんなことは私にはどうでもいいことだ。少なくとも彼がこのアパートにやって来ることも、私と話すこともないだろう。

 私は仕事にも行かずに、このくたびれたアパートの自分の部屋からそんな男を見ていることに意味もなく優越感を感じていた。私は故郷に帰るのだ。今日は多分ここでの最後の一日なるだろう。

 部屋の中の荷物はほとんど片付けられて、小さなカバンが一つ置いてあるだけだ。私は何もない部屋の真ん中に横たわって天井を眺めた。最後の日だからといって特に何かをしよう、という考えもなかった。もう戻ってこないであろうここの空気の臭いを少しだけ意識して感じてみよう、ということ以外は。


 私は新たな出会いと刺激的な生活を求めてここへやって来た。知らないことだらけのこの地で、きっとそれは手にはいるだろうと思っていたのだ。ところが、実際にはそうでなかった。つまらない仕事と、あまり口を聞かない仕事仲間。同じことを繰り返す毎日。不思議なことに、始めは苦痛でもそれを繰り返しているうちに感覚は麻痺してしまうようだ。麻痺というよりも「これが普通なのだ」と思うようになってしまうのだろう。普通だと思えばなんでも受け入れられる。普通でないことを普通と思うことによって人間は進化したり退化したりしてきたのかも知れない。

 私もしばらくはそんな感じで日々の生活を続けていたが、ここでの生活に意味がないと気付いてしまえば、こんな場所に長居は無用である。仕事場の同僚達は私が突然やってこなくなったことをどう思っているのだろうか?私は別れのあいさつなど苦手だから、上司以外に辞めるということは伝えていなかった。今思うとそれが少しだけ心残りではある。どうせ、そうしたとしても彼らはなんとも思わないのだろうが。

 結局、ここの人間も故郷の人間も少しも変わるところがなかったということだ。どこへ行こうと我々は孤独を感じずにいることは出来ないのだろう。ここで私が得たものとはそんなところに気付いたことぐらいだ。まあ、そんなことはどうでもいい。これから先に少しでも良いことがあると想像しながら少し眠ろう。今日初めて気付いたが、何もない平日がこんなに眠いとは知らなかった。


 どれだけ眠っていたのだろうか。もう外は薄暗くなっている。私はドアの外で人が大勢集まっている気配を感じで目を覚ました。この古いアパートは一人が歩いただけでも振動がこの部屋まで伝わってくるのだが、小さな地震のように部屋が揺れるとはかなりの人数がやって来たに違いない。しかし、一体なんのために?

 一瞬の間をあけて、ドアを蹴破る激しい音が聞こえた。私は飛び起きてドアの方を向いて身構えた。しかし、私の部屋のドアは閉まったまま。となりの部屋からは数人が暴れている音が漏れてきたが、しばらくするとそれはおさまった。

 私はアパートの通路に面した窓を静かに開けて外の様子をうかがってみた。すると目の前をとなりの住人が警察に連れられて通り過ぎていった。正確には「となりの住人と思われる男」と言った方が良いだろうか。私は今までその男を見たことがなかった。長いことここに住んでいて、となりの住人の顔も知らないとは。でもそれはここでは当たり前のことかも知れない。そこを気にするのはよそう。


 部屋の外はしばらくざわついていたが、それもようやくおさまって来た頃、私の部屋のドアをノックするするものがいた。この状況から察すると、そこには警察官か何かがいてこの騒動についての説明といくつかの質問をするに違いない。居留守を使おうかとも思ったが、きっとこれはここでの最後の会話になるはずだ。それがこんな事件の話だというのも良い土産になるかも知れない。私はドアを開けた。

 ドアの外にいたのは警察官ではなくてスーツを着た男だった。私はその男の目を見た瞬間に直感した。私がここでの生活で感じていた物足りなさも、この男なら解ってくれる。私を理解してくれる数少ない人間の一人に違いないと。

「どうも、お騒がせしてすいません。私はエフ・ビー・エルのモオルダア捜査官です。となりに住んでいる出間駄(デマダ)さんが一日に300件もエフ・ビー・エルにウソの通報をしてることが解ったんで逮捕しに来たんです。少々騒がしいことになりましたが特に危険なこともないんで…」

 このモオルダアという男はまだ何かを話していたが私には関係ないことだった。それよりも私はこの男の瞳の奥にある何かに興味があった。私を見て話してはいるが、その瞳の奥では遠くの世界が広がっている。私の住んでいた懐かしい世界を感じるのだ。この男はきっと私のような者を探しているに違いない。私はこの男に私の真の姿を見せようかとも思ったが、しかし私はもう決めたのだ。明日にはここをたって故郷の星に帰ると。そんなことをしても意味のないことなのだ。もうこの退屈な地球には戻ってこない。気の毒だが、モオルダアという男は自分が探し求めていた異星人を目の前にしていながら、それに気付くことはまずないだろう。