「アパートメント」

3. 204号室

 このアパートの204号室は現在空き部屋だということである。正確にはこのアパートが70年代初頭に建てられた時からずっと204号室は空き部屋のままなのである。モダンなワンルームアパートだったが現在ではただのボロアパート。それでもいつまでも取り壊されたり建て直されたりしないのは、このアパートが204号室という空き部屋のために建てられたからである。

 一体なんのためにそんな怪しい空き部屋が存在するのか。この地域に伝わる風習を守っているとか、何かの怨念がその部屋に取り憑いているからとか、そんな理由があるわけではない。それにこの部屋は空き部屋ということになってはいるが、実際にはこの部屋には住人がいるのである。実を言うとここは闇の組織が作らせた怪しいアパートなのである。

 そんな怪しい部屋に住んでいるのは、怪しい人間に違いない。厚いカーテンが閉めきられいつでも真っ暗なこの部屋にはウィスキーの臭いが漂っている。部屋の真ん中に置かれたソファーにはウィスキーをラッパ飲みする男が座っている。そのとなりにはクライチ君の姿もある。二人はソファーの前に置かれたモニター画面を眺めていた。今そこにはモオルダア、スケアリーと何人かの警察官達がうろついているアパートの通路が映し出されていた。

「いやあ、なんかドキドキしますねえ」

モニター画面の光を顔に受けているクライチ君がイタズラをしている少年のように目を輝かせて言った。ウィスキー男はかすかに不適な笑みを浮かべて黙ってモニター画面を眺めている。

「この秘密の隠れ家にあんなに警察がやって来て、オマケに一緒に来たのがペケファイルの二人なんですよ。大丈夫なんですか、これ?」

「心配することはない。たかがイタズラ電話の犯人を捕まえに来ただけだ。空き部屋となっているこの部屋までやって来るようなことはないよ。それよりキミ、声が大きすぎるぞ」

ウィスキー男はクライチ君にこう言っている時にもほとんど表情を変えない。謎の男とはそんなものである。一方クライチ君はいたってお気楽な感じである。

「大丈夫ですよ。あの二人なら目の前で怪しいことが起こっていても気付かないですよ」

「それがキミのあまいところだよ。キミにはまだあの二人の起こすミラクルが解っていない。どんな人間でもなめてかかると痛い目に合わされるんだ。キミは自分がどれほど重要な情報を扱っている人間か、ということをまだよく理解していないようだ。キミの失敗が人類の未来を左右することになるかも知れないんだ」

「へえ、まあ。そんな感じっすね」

クライチ君の返事に意味はなかった。

 その後しばらく二人は黙ってモニター画面を見つめていた。画面に映っているモオルダアとスケアリーはこの部屋に二人がいることにも、通路の片隅に監視カメラがあることにも全く気付いていない。これを見ていたクライチ君がニヤニヤしながら立ち上がると静かにドアの方へと近づいた。ドアを隔ててペケファイルの二人と自分の距離が数メートルしかないという危うい状況がクライチ君のイタズラ心に火を付けた、という感じだ。ウィスキー男は彼が何をするのかを見守りながらゆっくりとウィスキーを飲み込んだ。

 クライチ君はかがんでドアに顔を近づけると九官鳥が人間の言葉を真似する時のようなヘンな声を出した。

「ヘンタイ、モオルダア!ヘンタイ!」

モニター画面に映るモオルダアは一瞬ハッとして辺りを見回したが204号室にも監視カメラにもその視線は向かなかった。


 アパートの通路で怪しい声を聞いたモオルダアはしばらく辺りを見回した。そして最後にスケアリーと目があった。

「呼んだ?」

スケアリーは少し不思議な顔をして首を横に振っただけだった。「おかしい。いったい誰がボクのことをヘンタイと?」モオルダアは少し遠くにいた警察官の方を見てみたが彼は先程からずっと誰かと無線で話をしている。それにその警察官がモオルダアのことをヘンタイと呼ぶ理由がない。きっと先程のテレパシー女の件で頭が混乱しているのだろう、と考えることにした。


 モニター画面を見ていたウィスキー男は相変わらず無表情ではあったが、ウィスキーのビンを口に運ぶその顔は少しだけ楽しげに見えてきた。モニター画面を見ていると、モオルダアと入れ替わる感じでスケアリーが204号室の近くにやって来るのが解った。どうやら二人は特にやることもなく辺りをうろうろしているようだ。

 ウィスキー男はまた一口ウィスキーを飲み込むと立ち上がってクライチ君のとなりに来た。その時のウィスキー男は今度は私の番だ、と言わんばかりの表情をしていた。クライチ君はそれを見てドアの前をウィスキー男に譲った。

 ウィスキー男もクライチ君がやったのと同じようにかがんでドアに顔を近づけると喋るイヌみたいな声を出した。

「スケアリー、貧乳!ヒンニュー!」

クライチ君はソファーに座って笑いを必死にこらえながらモニター画面に映るスケアリーを見ていた。


 モオルダア同様に、どこからともなく聞こえてきた声に驚いたスケアリーは辺りを見回した。そしてモオルダアの姿を見つけると彼に聞いた。

「ちょいとモオルダア!あなた何かおっしゃいました?」

急に聞かれたモオルダアは少し驚いてはいたが「別に何も…」と言うモオルダアに怪しいところはあまりなかった。スケアリーはさらに辺りを見回して、またモオルダア同様に少し遠くにいる警察官の姿を見つけたが、彼はまだ無線で誰かと話を続けていた。スケアリーは無意識に羽織っていたコートの前のボタンをかけ始めていた。

 スケアリーは考えを整理するかのように一度視線を下に向けてから、顔を上げるともう一度モオルダアに聞いた。

「ちょいとモオルダア!もしかしてあなた、さっきあたくしに関することを思ったりいたしました?」

「キミに関して?さあ、別に…」

モオルダアがそう言ってもスケアリーは何かが気になっているようで、モオルダアに近づいていった。

「あたくし、先程の人の心が読める女性のことで少しあなたに聞きたいことがあるんですけれども。あなたは、ああいったエスパーのような能力が他人に感染したりすることがあると思います?」

スケアリーは他の誰にも聞かれないように小さな声でモオルダアに聞いてみた。モオルダアはスケアリーからこんな質問をされるとは思ってもみなかったので少し困惑していたが、それ以上にこのタイミングでこんな質問をされることに驚いていたのだ。

「実はボクも今そんなことを考えていたんだけどね。でも、もし人の心を読める能力が感染することがあるとしたら、そこら中で大げんかが始まって、それが暴動に発展して、そのうち人類は滅亡しかねないよ。ただし、強力な能力を持った超能力者に出会ったことによって、本人が気付かなかった能力が開花してしまうとか、そういう可能性も考慮すべきだよね」

モオルダアは否定も肯定もしていない微妙な返事を返してきた。どうやら二人とも、他人が思ったことが話していることのように聞こえてしまう超能力を身につけたのではないか、と思っているようだ。

 モオルダアもスケアリーもお互いが何を言わんとしているのかなんとなく理解してきた。そして二人は向き合ったまま沈黙してしまった。ボロアパートの通路で見つめ合う二人はかなり怪しいが、二人ともお互いの考えを読もうとしているのである。


 204号室でこの様子を見ていたウィスキー男とクライチ君は面白くてたまらない。無表情がウリのウィスキー男まで楽しくてにやけてしまっている。二人はドアの方へ向かうと同時にヘンな声を出した。

「ヘンタイ、モオルダア!ヘンタイ!」

「スケアリー、貧乳!ヒンニュー!」


 アパートの通路で見つめ合っていたモオルダアとスケアリーはこの声を聞くと同時に目を丸くして驚いた。そしてお互いが考えていることも理解したはずである。

 いくらなんでも面と向かって、しかも、もしかすると人の考えが読めてしまうかも知れないと思っている二人が互いの悪口などを頭の中に思い浮かべるはずはないのだ。ここで二人はようやく怪しい204号室のことに気付いたのだろうか。ほぼ同時に歩き始めると204号室の方へと向かっていった。


 ドアからモニター画面の前に戻って二人の様子を見ていたウィスキー男とクライチ君はドキドキしながら二人が何をするのかを見守っていた。

「ウワー、どうしよう。逃げる準備とかしといた方がいいんじゃないっすか?」

そう言いながらクライチ君は楽しそうである。

「いやいや、ここはギリギリまでいたほうが楽しいぞ。他の部屋と違ってここの部屋のドアは蹴破ったりできないから」

ウィスキー男までノリノリでイタズラを楽しんでいるようだ。二人が目を輝かせてモニター画面を見ていると、モオルダアとスケアリーは204号室の前を通り過ぎてしまった。

「ウオー、ギリギリセーフ!」

「うーん。危なかったねえ」

真っ暗な204号室の二人は小声でハイテンションである。


 さて、怪しい204号室の前を通り過ぎてしまった二人はどこへ向かっていたのだろうか?

 モオルダアとスケアリーは204号室の前を通り過ぎるとその先で無線で誰かと話している警察官のところへ行った。警察官はイタズラ電話の犯人の逮捕の経過についてとか、その他の処理のことなどを話し合っていたようだったが、エフ・ビー・エルの二人がやって来たことに気付いていったん無線で話すのをやめた。

「どうしました?」

警察官が聞いたが、二人の恐ろしい表情に多少戸惑っていたようだった。

「どうしましたか、じゃございませんわ!あなたのような卑怯な性格の方は警察官をやる資格なんてございませんのよ!」

「えっ!?」

いきなりこんなことを言われた警察官は動揺の色をかくせない。

「しらばっくれても無駄だよ。エスパーとして覚醒してしまったボクらに隠し事はできないよ。もしもキミがここで我々に対しての失礼極まりない行動に謝罪するというのなら、このことは内密にしておくこともできるんだが」

警察官は二人がなんのことを話しているのかさっぱり解らない。彼はずっと真面目に今回のイタズラ電話犯逮捕に取り組んできたのだから。

「私が何かミスを犯しましたか?私には何のことだかさっぱり…」

「ミスとか、そいういう問題ではございませんわ!ヘンタイとか貧乳とか、そういうことですわよ!」

この後どうなるのか、詳しく書く必要があるのかないのか。まとめてしまうと、人の考えていることが言葉になって聞こえてくるはずなのに、実際には何も聞こえてこないことに気付き、結局はペケファイルの二人がこの警察官に謝罪しなければいけなくなった、ということである。


 204号室の二人は必死になって笑いをこらえていたが、笑いの発作がおさまるとようやくいつもの怪しい二人に戻った。

「我々もすぐにここから撤退しなければいけないようだな」

こう言ってウィスキー男はまたウィスキーを一口飲むとその先を続けた。

「ペケファイルの二人がこの場所を知っているだけでも危険なことだ。ここができた当時は周囲の町並みにも溶け込んでいて隠れ家には最適だったのだが、ここまで古くなってしまうと逆に目立ってしまうから」

「そうなんすか?でも近所にはまだ似たような古い建物が何軒かありますよ」

「何軒か、じゃダメなんだよ。ボロアパートと言って思い浮かぶ建物の中にこのアパートが入っているようじゃ目立ちすぎなんだよ。それに、ここが特別な場所だと知らずに新たに入居してくる人間も最近では特殊な人間ばかりになっている。何故かは知らないが、あの風変わりな管理人がヘンな人間をここに集めているというウワサもあるしな。とにかくここはもうお終いだ。時間の流れとともに物事は常に変化していくのだよ。出来た時には完璧な隠れ家だったこのアパートがいつまでも完璧だとは限らない。時が来たらまた新たな完璧を作り出さなければいけないんだ。それを間違えていつまでもこの場所にこだわっているようなら、それは我々なような仕事には向いていない人間のすることだ。物事に絶対はあり得ないんだよ」

「なんか哲学的っすね」

クライチ君にそう言われると、ウィスキー男は得意げにウィスキーのビンを口元へはこんだ。