15. 疑念
さっきのあれは何だったのかしら?と思いながらスケアリーは自分の高級アパートメントに帰ってきた。もしも自分の命が狙われているというのが本当なら、実家に戻れば家族を危険にさらすことになりかねない。日も暮れた今、アパートの通路を歩く自分の足音にも怯えてしまいそうになっていたスケアリーは、自分があまりにも無力でちっぽけな人間に思えてきた。今は自分以外には誰も頼れないし、あのスキヤナーでさえ信用して良いのかどうか解らない存在になってしまったのだから。こんな時にはモオルダアでさえ、いてくれたらどれだけ彼女にとって頼れる存在になっていただろうか。
心のどこかでモオルダアは生きていると信じてはいたのだが、スケアリーはモオルダアのことをあまり考えないようにした。
しかし、スケアリーが自分の部屋の鍵を開けて部屋に入ると、嫌でもモオルダアのことを考えなければならなくなった。彼女は自分の寝室にモオルダアが置いていった物を思い出したのだ。泥酔状態でやってきたモオルダアはここへやって来て、そしてスケアリーの寝室にゲロを吐いて逃げ出して行ったのだった。
スケアリーは自分の寝室の扉をそっと開けて中を確認してみた。別にそっと開ける必要はなかったのだが、もしもモオルダアのゲロから放たれた悪臭が寝室に充満していたら、と考えるとなんとなくそっと扉を開けざるを得なくなる。
スケアリーが最後にこの部屋を出た時と同じように部屋には洗面器が置いてあって、ベットのシーツには薄い茶色の大きなシミが付いていた。シーツについていたゲロはあらかた蒸発してしまったようだったが、洗面器の中はどうなのだろうか?扉のところからでは確認できなかったが、部屋の中に入る前に、スケアリーは部屋の臭いがどうなっているのか確認するために扉のところで立ち止まっていた。
特にひどい臭いがするわけでもなく、スケアリーはようやく扉を大きく開けて中に入ろうとしたのだが、その時に電話が鳴ってスケアリーを驚かせた。スケアリーは一度寝室の扉を閉めて居間の電話の方へ向かった。
「もしもし、ダナア?久しぶりぃ」
スケアリーが電話に出ると懐かしいかどうか良く解らないぐらい久しぶりに聞く声が聞こえてきた。(忘れている人もいるかも知れないが、ダナアというのはスケアリーの名前で、スケアリーは苗字である。)
「あら!?もしかしてサキじゃございません?」
電話をかけてきたのは、スケアリーの高校時代の友人でスケバンだった朝見屋(アサミヤ)サキだった。裏バン的存在のスケアリーとはライバルであり親友でもあったのだが、卒業後はそういうことはどうでも良くなってしまったので、これまで特に会うこともなくなってしまった。(ちなみに、スケアリーは大学を卒業してFBLに入ったのだが、朝見屋サキは刑事にはなっていない。もちろん高校時代も刑事ではなかった。)
「どうなさいましたの?いきなり電話なんかかけてきて」
「あたいねえ、とうとう告白することに決めたんだ」
「告白って、まさか…」
「決まってるでしょ。憧れの伴千代(バンチヨ)先輩よ」
「あなた、まさか今までずっとあの先輩のことを…」
スケアリーはこの友人からの思わぬ電話に面食らっていたので、しばらくは冷静な考えは出来なかったのだが、ふと先程のパーティー会場でマシュマロを食べる老紳士風の男から言われたことを思い出した。長い間会っていなかった友人から突然電話がかかってくる、というのは彼の言っていた「二つ目の手段」と一致する。電話がかかってきたからといって、いったいその後どうなるのかは知らないが、スケアリーは「これは罠かも知れない」と警戒心を強めていた。猜疑心のために、朝見屋が電話の向こうで何か話していたのを遮ってスケアリーが言った。
「あの、あたくし今ちょっと忙しいんですのよ。ですから、またゆっくり出来る時にあたくしから電話いたしますから、その時に色々聞かせてくださいな」
スケアリーには受話器から朝見屋が何か言っているのが聞こえていたが、そのまま受話器を置いてしまった。「これは、もしかするとただごとではないような気がいたしますわ!」と言いながら、スケアリーは自分の身を守るための色々な準備を始めようとしていたのだが、その時にまた電話が鳴った。
「ですからさっきも言ったように今は忙し…」
また朝見屋が電話をかけてきたのかと思ったスケアリーだったが、それは違っていた。
「あら、良かったですわ。あたくしあなたに連絡がとれなくて心配でしたのよ」
電話をかけてきたのはスケアリーの姉だった。姉の声を聞いてスケアリーは少しホッとしたような気がした。少なくとも朝見屋でなかったことが嬉しかったのは確かだ。
「お姉さまでしたの。あたくしはパーティーに出席していたものですから」
「この大変な時にパーティーなんて良くありませんわ」
「でも同僚の父親の降板記念パーティーですから、行かないわけにはいきませんわ」
「それよりも、あたくし気になることがあるんですのよ。あなたと話し合っておかないと凄く悪いことが起きるような気がしているんですの。ですからこれからそちらに伺ってもよろしいかしら?」
「そういうことなら良いですけれど。ちょっと部屋を片付けないといけませんわね」
「あら、レディーがそんなことではいけませんわ。いつでも部屋は綺麗にしておかないと」
「そういうことではないんですけれど…」
「あたくしが行くまでにちゃんと片付けておくんですのよ」
電話が切れると、スケアリーは今度こそ寝室のゲロを片付けようとしたのだが、その時またしても電話が鳴った。「もう、何なんですの?!」と言いながら受話器を取ったがその電話はおかしなノイズを数回繰り返した後に切れてしまった。
その電話が何を意味しているのか、正確なところは解らなかったのだが、それが正常な通話でないことは確かだった。誰かがこの電話に細工をして盗聴しているとか、そんな雰囲気だ。スケアリーは再び自分の命が狙われていると警告されたことを思い出して、慌てて姉の携帯電話に電話をかけた。おそらくこの部屋は危険なのだ。
電話をかけても呼び出し音は鳴るのだが、姉はなかなか電話に出ない。そして、とうとうその電話は「ルスバンデンワサービスセンターニセツゾク」された。
「お姉さま。やっぱりここで会うのはやめにしてあたくしがそちらに行きますわ。もしかしたら途中で会えるかも知れないですし、とにかくあたくしはあなたの家でまっていますから、これを聞いたら戻ってきてくださいな!」
スケアリーはメッセージを残すと、すぐに寝室向かった。さっきまで気になっていたゲロには目もくれず衣類の入っている引き出しを開けると、その中を掻き分けて引き出しの底に隠していた銃を取り出した。どんな身分の人間でも家に銃を隠し持っているのは違法なのだが、その辺はFBLの捜査官の特権なのでダイジョブなのである。でも、今のところ停職中なので本当は銃を携帯するのはいけないのだ。しかし「今はそれどころではないんですのよ!」とスケアリーは思っていた。
高級アパートメントから出てきたスケアリーはそこで怪しい人物と出会うことになった。出入り口から道路に出てきたスケアリーを遮るようにして一台の車が停車した。
車の窓が開いてそこに見えたのはスキヤナーの顔だった。おそらくスキヤナーはスケアリーがここから出てくるのを待っていたに違いない。ここに来るまでに、これから起こるであろう様々な危険からどう身を守ろうかと思案していたスケアリーはその車がどういうふうにして自分の目の前にやってきたのか解らなかったが、スキヤナーの運転する車が偶然自分が高級アパートメントから出てくるタイミングでここを通るとは思えなかった。
「スケアリー、大事な話があるんだ。ちょっと車に乗ってくれ」
ここでスケアリーが「解りましたわ!」といって車に乗るわけはない。今回のスキヤナーは怪しすぎるのだ。きっと何かを隠している。時には部下に気を使うようなそぶりは見せても、今のスキヤナーには何かあるはずですわ!と思っているスケアリーはスキヤナーの瞳の奥に隠れる何かを見つめようと彼を睨みつけていた。
「あたくし、これから姉と会う約束がありますから、ダメですわ」
「話が終わったら私が送っていくから。これはホントに重要なことなんだから。ちょっと来てくれよ」
スケアリーはスキヤナーの目をじっと見つめたまま、彼の真意を探ろうとしていた。
「それで、どこに行くって言うんですの?」
「どこでもいいが、人に話を聞かれないようなところだよ」
スキヤナーもスケアリーの目を真っ直ぐに見ていた。それは自分の言っていることを信じて欲しいと訴えているからなのか、それとも、スケアリーを騙すために演じている芝居なのか。スケアリーの頭の中には疑念ばかりだ。そしてこのままではその疑念はいつまでも晴れることはなさそうだ。スケアリーは表情に出さないように最新の注意を払いながら大きな決断をした。そして、スキヤナーの車に乗り込んだ。