5.
去っていく車を見送ったスケアリーは急に全身から力が抜けていくのを感じていた。その場にしゃがみ込んでしまったスケアリーは走り去っていったワンボックスのたてる音が聞こえなくなると「とりあえずなんとかなりましたわ」と独り言を言った。それから彼女の横で倒れているモオルダアの方に向き直り彼の顔に被せられた布をとりながら言った。
「モオルダア!しっかりしてくださいまし!あたくしの大活躍で、あなたは一命をとりとめることになりそうで…」
顔に被せられた布を取り払った時にスケアリーは言葉を失った。彼女が必死にここまで運んできたグッタリ男の顔はモオルダアのものではなかった。先程からずっと、自分が抱えて引きずってきた男をモオルダアだと思いこんでいたスケアリーは、これも何かの薬品の副作用だと思ってしまいそうだった。でもスケアリーはそこまで「慌てんぼさん」ではない。次の男の言葉で何かがおかしいことにはすぐ気付いた。顔に被せられた布をとられた男は辺りを見回してから言った。
「オッケーですか?さすが、本物は違いますねえ。すごい緊張感がありましたねえ。オレもエキストラとして参加出来て嬉しいですよ。あれ、カメラとかはどこにあるの?最新の特撮ではカメラは必要ないのかな?」
スケアリーはこの男を睨みつけながら彼の言うことを聞いていた。必要とあらばいつでもこの男を撃てるように腰のホルスターに収めてある銃に手を当てている。
「ちょいと。あなたは、いったい誰ですの?」
これを聞いた男は急に声をひそめてスケアリーに言った。
「あっ、ごめんなさい。まだ本番中ですか?」
いらついてきたスケアリーは銃を取り出すと男に向けて言った。
「解らないことを言っていないであたくしの質問に答えなさい。ここにはカメラもエキストラもリハーサルもないんですのよ。ここで起きるのは全てが一発勝負の本番だけなんですからね」
スケアリーの異常な気迫に驚いた男はもう一度辺りを見回してから言った。
「これって映画の撮影じゃないの?」
男が見た限り、辺りの状況は明らかに映画の撮影ではない。
「映画じゃないってことは、つまりこれは現実世界の出来事であって…。ってことはオレに向けられているその銃も小道具じゃなくって本物の…。キャア!殺さないで!オレはなんにも悪いことなんかしてないんです!ただのアルバイトですから」
「映画だったら、あなたは理不尽な感じで殺されていたでしょうね。最近はそんなのが流行ですから」
そういうとスケアリーは銃をしまった。
男はスケアリーが銃をしまうのを見て落ち着いたのか、スケアリーの顔をじっと見ていた。
「あれ。あなたはもしかしてうちの大学に捜査にきていたエフ・ビー・エルの捜査官じゃありませんか?それじゃあオレが演じていたのはあのモオルダアということか。それでこれが映画の撮影じゃないとするとモオルダア捜査官はホントに行方不明と言うことですね」
スケアリーは彼の言うことはほとんど聞かずに手錠を取り出した。
「どうでもいいですけど、あなたを逮捕しますから後ろを向きなさい」
「どうしてですか?オレはただ頼まれてやっただけなんですよ」
スケアリーは始めから逮捕するつもりなどなかった。このやせ細った男がさっきの悪人達の仲間だとは思えなかったのだ。ただ、このオトボケのエキストラがこれ以上オトボケにならないよう、そしてことをスムーズに進めるためにもちょっと脅かしただけ。
「どうしても逮捕が嫌だと言うのなら、あなたの知っていることをここで全て話しなさい。そうすればあなたの処置についてはあたくしがなんとかしてあげますから」
男はうつむいてため息を一つついてからスケアリーの方を向いた。
6. 酔っぱらいの終着駅、高尾@東京都。
もう一度目を開けてみよう。そして全てを受け入れるしかない。きっとボクは暗殺されたかなんかして、ここへやって来た。ボクがあまりにも優秀だったために、それが返って仇になったに違いない。ボクのような天才は生きながらえることは出来ない。そういうさだめなんだ。
モオルダアが目を開けるとそこは死後の世界であるはずだったが、彼の目に入ってきたのは薄曇りの空だった。
「あれ、生きてる」
モオルダアは独り言を言ってから、次々と頭の中にこみ上げてくる疑問に一つずつ答えを出していかなければいけないことに気付いた。
まず始めにここはどこなんだ?何分か前、いやもしかすると何時間前かも知れない。その時、目を開けたらそこは死後の世界だった。でも、あれが死後の世界だという証拠はあるのか?もしかするとボクは太陽を直接見てしまったのかも知れない。今は雲がかかっているがあの時は太陽が出ていてボクの真上にあったのだろう。太陽の光がそのまま目に入ってくれば眩しくて一面真っ白になるに決まっている。するとボクはずっとここにいたんだな?
それじゃあ、どうしてボクはこのアスファルトの上で寝ていたんだ?それを考える前にまずは起きあがるとしよう。モオルダアは起きあがろうと仰向けに寝ていた体を半分回転させようとしたが、いつもしているそんな動作が妙にゆっくりしている。
どうしてこんなに動きが遅いのか?モオルダアは疑問に思いながらゆっくりと体を横向きにしてから、アスファルトに手を付いて体を持ち上げた。「これは、まるで夢の中で走ろうとしても足が空回りして走れない時みたいだ」と考えながらモオルダアはノロノロと体を起こしていった。体の上半分を起こすことが出来ると、あとは比較的楽に立ち上がれた。それでもいつもの二倍の時間はかかっていた。
モオルダアは立ち上がると、まるで脳みそが液体になってしまったかのような錯覚にとらわれた。起きあがった時の振動に合わせて液体になった脳みそがいつまでも波打っているかのように、モオルダアの視界はグルグル回っている。このせいでバランス感覚を失ったモオルダアは、よろめいてすぐ近くにあったブロック塀に手を付いた。手を付いて体を支えることが出来ても、彼の見る世界はまだグルグル回っている。
モオルダアはこの感覚に覚えがあった。「これは泥酔した時の…」モオルダアの脳が彼の考えをまとめるよりも先に、彼の体が反応した。彼の胃は中に入っているものを外に押し出そうと急激に活動を始めた。モオルダアの頭はそれを拒んだが、それは無駄な抵抗だった。モオルダアは塀に手を付いたままの体勢で嘔吐した。「オエ〜!」
モオルダアの胃は一通りの仕事を終えた後も、嫌な感じの痙攣を繰り返していたが、それが収まるとモオルダアの脳も再び活動を始めた。「これは、今まで体験した中でも最悪の二日酔いだ!でもどうして…」
モオルダアの脳がまた何かを考えようとすると、すぐに彼の胃はそれを拒もうとする。気持ち悪いと思う間もなくモオルダアは二度目の嘔吐。「オエ〜!」
こんなことを何回も繰り返しているうちに次第に彼の胃も落ち着いてきた。というより、もう疲れて動かなくなったという感じだ。何かを考えればきっとまた気持ちが悪くなって嘔吐しそうだし、ここから動く気にもなれない。しかし優秀な捜査官がこのどこだか解らない路上で横になっているのは問題である。気が付けば付近の主婦らしき女性達が集まってモオルダアのことを見ながらなにやら話し合っている。このままここにいたらきっと警察に通報されるに違いない。
「ちょっと、そこのマダム達」
モオルダアは真っ青な顔を主婦らしき人たちの方に向けた。小声で話し合っていた主婦達はそのモオルダアの表情に驚いてビックとして固まってしまった。モオルダアはそれに気付いているのかどうか知らないが、後を続けた。
「いったいここはどこなんですか?」
青白い顔をして目の下にくっきりとクマができたモオルダアの顔は悪魔とか疫病神とか、そんな形容がぴったりだった。そんなモオルダアを見て主婦達は驚きのあまり声も出なかったが、一番落ち着いていた一人がおそるおそる言った。
「高尾山のふもとにある住宅街ですが…。空気はきれいですけど一応東京都です」
これを聞いていたのかどうかは解らないが、モオルダアは主婦達の方へ一歩踏み出した。主婦達は驚いて全員一歩退いた。モオルダアは礼を言うつもりだったのだが、頭の中はまだ液体状態でお礼の言葉は浮かんでこない。仕方がないので腰から上をグニャッと曲げてお辞儀をした。主婦達にはそれがお辞儀だとは解らなかっただろう。唖然とする主婦達に見送られてモオルダアはふらふらしながらその場をあとにした。これは二日酔いと言うより完璧な酔っぱらいだ。
モオルダアはふらつく足をなんとか真っ直ぐ前に出しながら近くの駅へ向かって歩いていた。「しかし困ったことになった。いったい何時からボクはこんな酒飲みになってしまったんだ?昨日の記憶が全くないなんて。確かボクは事件の捜査をしていたんだ。それからどこかへ飲みに行ったのかなあ?といってもいったい誰と?」ここまで考えてモオルダアはふと腕時計に目をやった。日付が一日進んでいる。モオルダアは時計の日付を直そうと爪の先で小さなボタンを押そうとしたが、恐ろしいことに気付いてそこに立ち止まってしまった。もしかしてこの日付が間違っているのではなくてボクの感覚が間違っているのか?ボクは一日分の記憶をなくしてしまったのか?ちょうどそこへ自転車に乗った若い女性が近づいてきた。
「ちょっと、お嬢さん。今日は何日だい?」
突然薄汚い男に声をかけられた女性は、驚いて「イヤッ」という幽かな悲鳴をあげると、猛スピードでモオルダアから離れていった。女性の後ろ姿を見送りながらモオルダアはつぶやいた。「まったく失礼だなあ」
しかし、今日が何日なのかどうしても知りたくなった。気は進まないがモオルダアはスケアリーに電話をかけてみることにした。もしモオルダアの予想どおり今日が彼の腕時計が示している日付だったら、スケアリーはきっと怒っているに違いない。
モオルダアは彼の古びた携帯電話を取り出したが、液晶画面には何も表示されていない。どうやら電池切れのようだ。ますますイヤな予感がしてきた。「やっぱりボクは昨日一日、或いはその前の晩から昨日の夜までどこかで酒浸りだったのかも知れない。このひどい二日酔いを考えれば、あり得なくもない」
モオルダアはどこかで公衆電話を見つけたらそこからスケアリーに連絡しようと思った。確か十五年前にもらったテレホンカードが財布の中に入っているはずだ。モオルダアはポケットから財布をとりだして中を覗いた。財布の中を見たモオルダアは頭を抱えてしまった。財布の中は空っぽだったのだ。酔っぱらって寝ている間に誰かが財布の中身を抜き取っていったのだろう。しかもテレホンカードまで。少しでも価値のあるものは全部盗まれている。残っていたのはCDショップのポイントカード(期限切れ)とスーパーのレシートだけだった。「クソ忌々しいスリめ!」モオルダアはレシートを手の上で丸めて地面に投げ捨ててから言った。それから心配になって別のポケットの中も調べた。エフ・ビー・エルのIDは盗まれていなかった。スリの犯人はそのIDにテレホンカードほどの価値も見いだせなかったようだ。
IDがあるのを確認してとりあえず安心したが、どうやって帰ればいいのだろうか。モオルダアはしばらく考えていた。何かいい考えが思い浮かんだのかどうかは知らないが、酒臭い息を弾ませながら急いで駅へと向かっていった。