19. キモエのお屋敷
スケアリーは懐中電灯を持って灯りの点かない廊下をゆっくりと進んでいった。自分の足音でさえも、何か異常な物音に聞こえてしまうほどに怯えていたスケアリーだったが、先ほどの物音の正体をつきとめなくてはいけない。その物音の原因が解りさえすればこんなふうに必要以上に怖がることもなくなるのだし。何よりも幽霊が恐くてキモエさんを守れなかったなんてことになったら「一生の不覚」ということになりかねない。
二階のキモエの部屋へ行く階段は入り口にあった螺旋階段からではなくて主に家の者が使用する階段を使わなければいけなかった。広い屋敷であるため階段もいくつもある。スケアリーにとって幸いなことはその階段へ続く廊下には電気が来ていたということである。照明が点いていても決してスケアリーを安心させるほどの明るさではなかったのだが。
スケアリーは途中に何度も背後に気配を感じて慌てて振り返りながら、なんとか二階のキモエの部屋の前まで辿り着いた。中からは幽かに物音がしているが、それは多分キモエが絵を描いている音に違いない。スケアリーはキモエの邪魔をしたくはなかったが、キモエの安全が第一ということで、ドアをノックした。
「どうかしましたか?」
ドアを開けたキモエは心配そうにスケアリーに聞いた。
「いや、特に問題ということではございませんけど。下にいたら天井のほうから物音がしたものですから、少し気になって確認しに来たんですのよ」
スケアリーの表情はここまで来る間の恐怖のためにまだ少し引きつってはいたが、キモエの穏やかな顔を見て少し安心したようだった。女ニートではあるが芸術家でもあるキモエであるから、創作の邪魔をされて気分を害していると思っていたのだ。しかしキモエはキモエでスケアリーが自分のことを守ってくれていることをありがたく思っているようだ。
「それなら、ネズミだと思います。これだけ古い家だとどうしても駆除しきれなくて…」
「あら、そうでしたの。確かにそうですわね。忙しいところ失礼いたしましたわ。でもあたくしはあなたの警護が役目ですから、全てが解決するまでは安心できませんでしょ?それじゃあ、あたくしは下に戻りますわね。絵のほう頑張ってくださいな」
スケアリーが部屋の扉を閉めようとドアに手をかけた時だった。彼女の背後からドンッと大きな音がした。
ほんのしばらくの間、驚きでキモエと見つめ合ってしまったスケアリーが聞いた。
「今のもネズミかしら?」
キモエは何も答えなかったが、その表情は「そんなはずはない」と答えていた。そしてまた二人は見つめ合った。何かがいるらしい。
スケアリーは腰のホルスターに手をやっていつでも銃を取り出せるように準備してから、もう片方の手の平をキモエに向かってつきだして「ここにいるように」と合図した。
スケアリーが振り返って歩き出そうとしたその瞬間だった。彼女の携帯電話が鳴り出した。スケアリーは思わず銃を取り出してそこら中に発砲してしまいそうになるほど驚いてしまったが、何とか冷静に電話に出ることができた。しかし、その電話がモオルダアからだと解ると、今度は違う意味で発砲してしまいたくなったが、それも何とかこらえることが出来た。
「スケアリー。どうやら今回の事件の裏にはいろいろ怪しいところがあるみたいなんだ。今は説明しているヒマはないけど、今すぐキモエさんと一緒にそこを離れるんだ。急がないと、キミ達が何かのウィルスとかに感染している、ということにされてどこかに隔離されてしまうから。とにかく化学兵器処理班みたいな人たちがそこに行く前にそこから逃げるんだ」
「ちょいと、それはどういうことですの?」
とは言ってみたが、スケアリーには遠くからサイレンの音が聞こえてくるのが解った。それがもし、モオルダアの言うような「化学兵器処理班みたいな人たち」だとしたら、それは大変な事になるような気がしていた。
「解りましたわ。それであなたはどうするんですの?」
「まだ解らない。ボクも化学兵器処理班みたいな人たちに追われている感じだからね。とにかくそこを離れないと。また後で連絡するよ」
モオルダアの言うことは最後まで聞かずにスケアリーはキモエの手を引いて一階へ降りる階段へと向かっていた。階段の手前にある窓から外を見ると、もうすでに門のところには「化学兵器処理班みたいな人たち」を乗せた救急車両が到着しているようだった。
「何なんですか?あの人達は?」
これまでもワケが解らなかったキモエだったが、屋敷の前へやって来た見慣れない緊急車両にさらにワケが解らなくなっていた。
「今は詳しいことを説明していられませんけど、とにかくあたくし達はここから逃げないといけませんのよ。どこかに裏口はありませんかしら?」
スケアリーの切迫した様子に、何となく事態が解ってきたキモエは逆にスケアリーの手を引いて廊下を反対方向に進んでいった。二人はこれまでのと違う、さらにもう一つの細い階段を使って一階に降りてきた。降りた先はまるでレストランの厨房のような台所だった。古い建物というのは大抵そうなっているのだが、このお屋敷でも台所には勝手口というのがある。長年使われていなかった勝手口の鍵は開けるのに苦労したが、スケアリーの持つ懐中電灯の明かりを頼りにキモエが何とかその鍵を開けて二人は外に出ることがきた。
そこからは塀のところまで裏庭を走っていって、それを乗り越えるしか逃げ出す方法はなかった。それでも二人は塀に向かって走ろうとしたのだが、その時突然スケアリーの前に何かが立ちはだかった。驚いて立ち止まろうとしたスケアリーは足を滑らせて尻餅をついた。彼女は持っていた懐中電灯でその何かを照らしたのだが、その瞬間彼女は言葉を失った。
懐中電灯の明かりに照らし出されたのは、あの絵に描かれているのとそっくりな地獄の怪物だったのである。あの絵と同じようにスケアリーのことを睨みつけている。
「で、出ましたわ…」
息が出来ないほどに怯えているスケアリーが何とか絞り出した言葉にはあまり意味がなかった。それ以外に何も出来ず、ただ目の前の怪物を見つめるだけのスケアリーに向かってその怪物は鋭いかぎ爪のある両手をゆっくりと伸ばしてきた。スケアリーは銃に手をのばそうとしているのだが、体が言うことを聞かない。立ち上がろうにも、かかとが地面の上を滑っていくだけ。完全に腰が抜けた状態になっている。スケアリーはゆっくりと彼女の方へ向かってくるかぎ爪を見ているしか他に出来なかった。
「出ましたわ…モオルダア…」
スケアリーは震える声でもう一度言ってみたが、それにも意味はなかった。
to be continued...