「KIMOE」

2. 早朝のお屋敷

 連絡を受けたモオルダアはスケアリーよりも一足早くこの怪しい事件の起きた現場へ到着していた。移動手段が公共交通機関であるモオルダアは迅速に事件現場へ駆けつけることは困難なのだが、モオルダアの住んでいるボロアパートはこの洋館へ無理をすれば歩いてこられる範囲内にあるのだ。古くからある高級住宅街と、モオルダアのボロアパートのある古くからある普通住宅街が一つの街にあってもおかしくはないだろう。

 しばらくこの手の事件から遠ざかっていた上に、私の都合で事件らしい事件はほとんど起きなかったので、すっかり勘の鈍ってしまったモオルダアは眠そうな目をこすりながら洋館の中に入って行き、裏庭に広がる血の海を見ていつものように短く情けない悲鳴をあげていた。

「これは一体どういうことですか?」

モオルダアは近くにいた刑事に聞いた。刑事はモオルダアが小さく悲鳴をあげたことにちょっと驚いていたが、質問をしてきたモオルダアが必要以上にさっきより冷静になっているのも気になった。モオルダアは自分の悲鳴をごまかすのに必死だっただけであるのだが。

「詳しいことはまだ解らないのですが、何かの血液である可能性は高いです。この臭いといい」

臭いと聞いてからモオルダアは初めて辺りに立ちこめる生臭い血の臭いに気がついた。なにしろ寝ぼけ眼でやって来たのだから、そんなことにも気付かなかったようだ。そこでモオルダアはもう一度悲鳴をあげそうになったのだが今回は何とかこらえることが出来た。

「血液って言っても、これは一人の人間の体内にある血液よりもそうとう多いと思うけどねえ?」

「詳しいことは調べないと解りませんよ」

当たり前のことを聞いたモオルダアに当たり前の答えを刑事が返した。「それもそうだ」と思いながらモオルダアは誰かに呼ばれて立ち去る刑事を眺めていた。それからふと思い出したように自分の持っていたカバンを開けると中からデジタルカメラを取り出した。

 それはエフ・ビー・エルから持ちだしてきた物ではなく、彼の物のようだ。いつの間にそんな物を手に入れたのか知らないが、私がthe Peke-Filesをサボっている間に手に入れたに違いない。型落ちではあるが新品の一眼レフデジカメである。

 モオルダアはそのデジカメでいろんな角度から裏庭に出来た血溜まりの写真を撮っていった。こういうことに夢中になると恐いとか気持ち悪いとかそういうことは関係なくなるようで、壁に飛び散っている血痕などいろいろな物を写真に収めていく。

 ちょうどそこへスケアリーがやって来た。

「ちょいと、モオルダア!何をやっているの?」

「証拠はデジタルで鮮明に保存しておかないとねえ。後で重要な手掛かりになるんだから」

スケアリーの方はほとんど見ないでモオルダアが答えた。彼はまだ写真を撮るのに大忙しな感じである。

「そういうことはあたくし達じゃなくて警察の方がやるんじゃなくって?」

確かにそうである。しかも警察はモオルダアが到着する前に現場の写真は撮り終えてあるのだ。それでもモオルダアはせっかく買ったデジタルカメラが使いたいので、そこに気付いても写真を撮り続けている。

「ボクらが呼ばれるような異常な事件ではねえ、警察はだいたい何かを見落としているんだよ」

そう言ってモオルダアは今日初めてスケアリーの方を見た。そして思わず悲鳴をあげた。いきなり悲鳴をあげるモオルダアにスケアリーも驚いたが、それはすぐに怒りに変わる。

「ちょいと、どういうことですの?人の顔を見て悲鳴をあげるなんて!」

スケアリーに睨まれたモオルダアは我に返ったがスケアリーの顔は思わず悲鳴をあげてしまうような顔のままだった。彼女の唇に塗られた口紅が右側だけ唇から大きくはみ出して耳の近くまで赤い線を描いている。半分だけ「口裂け女」になっているのだ。

「ねえ、それって今流行ってるの?」

流行っているわけはないが、とりあえずモオルダアはスケアリーの頬の辺りを指さして聞いてみた。

「何を言っているのか解りませんがあたくしは常に最先端の…」

と言いつつも、スケアリーは自分の顔におかしなところがあるのではないかと思い、横目で洋館のガラス窓に映る自分を見てみた。朝日を浴びて眩しいこの庭と裏腹に薄暗い部屋との間にあるガラスは鏡のように彼女の顔を映している。それを見てスケアリーは自分の右頬にあり得ない線が引かれていることに気付いた。

「あらいやだ!あたくしタクシーの中でお化粧をしていたものですから…。オホホホホ!」

スケアリーは笑いながら口を押さえたが、それは笑いを隠すためではなくて思いっきりはみ出した口紅を隠すために違いなかった。スケアリーはそのまま、彼女の顔を修正できる場所を探してどこかへ行ってしまった。

 おそらくタクシーの中で口紅を塗っている時にタクシーが揺れて口紅が大きくはみ出したに違いない。しかし、事件現場にやって来るのにメイクの必要があるのか?とモオルダアは首をかしげていた。