2. 旅の宿
山の中の500メートルというのは意外と遠く感じるものだが、先程の看板のあった場所から500メートルというのはウソでもなさそうだ、というぐらいの距離を運転すると「旅の宿・入り口」という看板が見えてきた。「旅の宿」は道路沿いにあるのではなく、私道を少し入ったところにあるようだった。
舗装されていない私道に入ると、沈み始めた弱い太陽の光は道をトンネルのようにして左右から生い茂る木々に遮られて、この道だけが夜になっているような不思議な感覚だった。暗い私道の先には開けた場所があり、そこには夕陽の中に浮かび上がる「旅の宿」の建物の一部が見えていた。
舗装されていない私道をゆっくりと進むスケアリーの車は何度かタイヤを溝に落ち込ませて大きく車体を揺り動かされていたが、モオルダアもスケアリーも何も言わずに、この暗い道の先に見える明るい場所を妙な気分で眺めていた。「旅の宿」の前まで来ると、二人はさらに妙な気分にならざるを得なかった。そこにある建物は「旅の宿」らしくない鉄筋コンクリートの二階建ての古びた建物だった。入り口の看板には「旅の宿」と書かれているが、その下には「ビジネスホテル」とも書かれていた。なんとなく言いたいことは解るという感じだが、古いものと新しいものが上手く融合できなかった結果のような建物であった。
「こんな場所でビジネスも何もないだろう(ありませんわ!)」と思っていた二人だが、そんなところを気にしていても仕方がないので車を降りて中に入ることにした。おそらくこの「旅の宿」には夏の間は登山客が、そして冬にはウィンタースポーツを楽しみにやって来る観光客が泊まるような場所に違いない。しかし、夏でも冬でもないこの中途半端な時期にこの辺りには人の気配が少しも感じられず、少し不気味な気分にさえなった。
中にはいるとフロントのカウンターの中に少年が一人何かを読みながら座っていた。誰かが入ってきたことに気付くと少年は慌てて読んでいたものをカウンターの下に隠して二人の方へ落ち着かない視線を向けた。モオルダアはその様子を見て、その少年が読んでいたのがここのロビーに置いてある男性向け週刊誌のヤラシいページだったに違いないと思った。それは彼の少女的第六感が彼に気付かせたのではなく、彼の実体験がもとになっているのであるが、そんなことはどうでもいいのだ。
「ボクらはエフ・ビー・エルの捜査官なんだが、ちょっと聞きたいことがあってやってきたんだ」
モオルダアが事件の捜査みたいな感じで言うので少年は驚いていたようだった。
「あたくし達は重要な任務があって目的地に向かっていたんですけれど、道に迷ってしまったんですの。ですからちょっと道を聞こうと思って、ちょっと立ち寄っただけですから、安心なさってくださいな」
スケアリーがそう言うと少年は頷いてカウンターのうしろの部屋に入っていった。おそらく地図か何かを持ってくるのだろう。
少年を待つ間、スケアリーは落ち着かない感じでロビーの中を見渡していた。
「ちょいとモオルダア。何だかこの宿はヘンな感じがいたしませんこと?」
モオルダアもそんな気がしていたのだが、オフシーズンの旅館などあまり来たことがなかったので、それはそれで普通だとも思っていた。
「確かにヘンな感じはするけどね。これは放課後の誰もいない学校みたいなもんだよ。そういえば、キミは夏休みの小学校の校舎に入ったことある?」
「なんなんですの、それ?」
「ボクは子供の頃、夏休みが始まってから教室に忘れ物をしたことを思いだしてね、取りに行ったことがあるんだけど。誰もいなくて静まりかえった淋しい教室で、しかも夕方の西陽が射してオレンジがかったあの雰囲気。ボクはどこかこの世と違う別の世界へ入り込んでしまったような不安な気持ちになって、忘れ物は取らずにそのまま逃げ帰って来てしまったんだよ」
モオルダアが懐かしそうに話していたが、スケアリーは特に興味を持たなかったようで、ほとんど聞いていなかった。そしてスケアリーはモオルダアの話が終わるよりも先にロビーの入り口とは反対側にある大きな窓に興味を持ったらしく、そちらの方へと吸い寄せられるように歩いていった。
スケアリーが窓の前に来るとそこからは遠くの山などを見渡すことが出来た。おそらくこの眺望がこの「旅の宿」のウリになっているのだろうが、スケアリーにはそこから見える素晴らしい眺めよりも、もっと手前にある景色の方が気になっていた。「旅の宿」のある場所から山を少し下った場所に何軒かの民家が集まった場所が見えた。
山間の集落が周囲の畑や雑木林と伴に夕陽の色に染まっているその風景は本来ならば美しいものになるはずだったのだが、スケアリーはそこに何か違和感を感じて不安になっていた。夕暮れ時は景色が美しく見える時間でもあるのだが、世界が夜の闇に沈む前の最後の時間でもある。スケアリーがそんなところを気にしていたのかは知らないが、とにかく彼女はこの風景のどこか不自然な感じが気になっていたようだ。
スケアリーが窓の外を見ながらゾッとしている間に、カウンターのところではモオルダアと少年がなにやら話していた。そして、話を終えるとモオルダアは窓のところにいるスケアリーのところへとやってきた。
「ちょいとモオルダア。何かヘンじゃありません?」
モオルダアに気付いたスケアリーが聞いた。
「ヘンって、何が?」
「この景色ですのよ。なんて言って良いのか解りませんけれど、この…」
「オレンジがかった雰囲気でしょ。さっきも言ったように、夜の闇よりも夕方のオレンジの方が時には恐かったりするんだよ」
「あたくしが言っているのはそういうことではありませんわよ!それよりも、道は解ったんですの?早くここを発たないと今日中には着けませんわよ」
「それなんだけどね、どうやら今日はここに泊まった方が良さそうだよ」
「それって、どういうことなんですの?」
スケアリーはそう言いながら自分がどうしようもなく心細い気持ちになっていくのを感じていた。
「ボクが寝ている間にキミはずいぶんと見当違いの方向に進んでいたみたいでね。ここからだと解りづらい道を何時間も走らないと目的地には着けないみたいだよ。カーナビも壊れちゃったし今日はもう暗い山道を運転するのは無理なんじゃないかな」
「それじゃあ、どうするって言うんですの?」
「ここに泊まればいいと思うんだけど。あの少年も大丈夫だって言ってたし…」
モオルダアはそう言いながらスケアリーが妙に不安そうな目を自分に向けているのが不思議だった。スケアリーもモオルダアの探るような目を見て、自分がいつもとは違う視線をモオルダアに向けていることに気付いたようだった。自分がこの周辺一帯の得体の知れない何かに怯えているというようなことはモオルダアには知られてはいけないのだ。
「そうですの。それなら仕方がありませんわね」
スケアリーがそう言うと、モオルダアはまだ納得がいかないような感じではあったが再びカウンターへと向かっていった。スケアリーはモオルダアに続いてカウンターへ向かう前にもう一度窓から外を眺めてみた。夕陽に映し出される景色は相変わらずスケアリーを嫌な気分にさせていた。どうしてそうなるのか彼女には解らなかったが、意味もなく不安な気持ちにさせられるのがそろそろ嫌になって来たので、彼女は冷静に自分が見ているものを分析してみようと思った。
ほどなく、スケアリーが見ているものを分析した結果が頭の中にまとまってきた。「この景色には空気とか人間らしさとかが感じられないんですわ。おそらくあの集落には家や畑があっても人が誰もいないんですのよ。才能のない画家の描いた風景画のように、そこには物だけが描いてあって人の生活している気配とかがまったく感じられないんですの。ですからこの景色はあたくしをゾッとさせるのですわ!」という結論に達したスケアリーはもう一度ゾッとしてしまった。そして「そんなことはありませんわよ」と自分に言い聞かせて振り返るとカウンターにいるモオルダアの方へと向かった。確かに、そんなことはなかったのだ。スケアリーが最後に見た風景の中には軽トラックが一台、畑の中の農道をゆっくりと淋しげに走っていたのが見えていたのだから。その軽トラックに人が乗っていたかどうかはしらないが。