5. 旅の宿のフロント
モオルダアとスケアリーは旅館の裏から表の玄関の方へと回ってフロントのカウンターのところまでやってきた。入り口の鍵は開いていてまだ灯りもついていたがそこには誰もいなかった。この「旅の宿」の人間は本当に少年一人をおいて何処かへ行ってしまったのだろうか?客の部屋を覗いたり、玄関を開けっ放しで何処かへ行ってしまうあの少年一人にこの「旅の宿」をまかせても大丈夫なのだろうか?
スケアリーは少年が戻ってきてはいないかとフロントの奥にある部屋の方を覗いて見たりしていたが、そこにはやはり誰もいなかった。それからこのフロントのあるロビーのような場所を見渡して、また不思議な感覚を覚えていた。
「モオルダア、あたくし思うんですけど、あの少年が本当にあたくしの部屋を覗いていたなんて、信じられませんのよ」
モオルダアはどうしてスケアリーがそんなことを言うのか良く解らなかった。誰も来ないはずのフロントの椅子に座ってこっそり大人向けの雑誌の記事を読んでいる少年なら、沸き上がるムラムラを抑えきれずに女性の泊まっている部屋を覗いたりすることはなくもない、と思っていたからである。
「そりゃ、あの年頃なら都会からやってきた女性をみて、なんというか、こう…」
「でも、あの少年は文学少年でございましょ?そういう方ならもっとステキなエロースの世界を想像するもんじゃございません?」
モオルダアにはスケアリーの言っていることが解らなくなってきた。
「文学少年?」
「そうですわよ。あなた、気付かなかったんですの?あの方、あたくし達がここへ来た時にスカーレット・レターを読んでいましたでしょ」
そう言いながら、スケアリーはカウンターの内側に手をのばして一冊の本を手に取ると、それをモオルダアに見せた。その表紙には「緋文字」と書かれていた。
「アメリカ文学ですわ。あの少年にはちょっと早いかも知れませんけれど」
どうしてスケアリーが邦題の「緋文字」ではなくてオリジナルの「スカーレット・レター」と言ったのかは知らないが、おそらく「ちょっと詳しい」ということを自慢したかったのだろう。それはどうでもいいのだが、モオルダアはそんな本をあの少年が読んでいるとは思えなかった。
「ノーノー、プリンプリン、イエスイエス、プリンプリン…」
モオルダアがヘンな歌を歌いながらスケアリーの持っていた本を取りあげた。どうせあの少年のことだから本のカバーだけ取り替えて中にはヤラシイ本が隠されているに違いないと思っているのだ。モオルダアは本のカバーを外して確認してみたが、カバーを外した表紙にもやはり「緋文字」と書かれていた。
「あれ?イエスイエス、プリンプリンだったか」
「何なんですの?イエスイエス、プリンプリンって?」
「この話の主人公は何とかプリンじゃなかったっけ?」
「そうですけど、そんな歌とは関係ないんじゃございません?」
「まあね」
そう言いながらモオルダアは本を元あった場所に戻した。しかし、この「旅の宿」に最初に入ってきた時に少年は確かに大人向けの雑誌を読んでいたのである。さっきモオルダアが見た文庫本の小説とは大きさも色合いもまったく違う。それなのにスケアリーはここに入ってきた時に少年がさっきの文庫本を読んでいたと言っている。
「何かヘンだね」
モオルダアが色々なことを整理できないまま考えついた精一杯の言葉を口にした。
「何かがヘンですわ」
スケアリーも同じような感じで答えた。しかし、ヘンだからといってどうすることも出来ない。とにかくいつまでもここにいても仕方がないので二人はまた自分たちの部屋に戻ることにした。逃げていった少年もいつまでも外にいるわけにもいかないだろうし、しばらくすればこの「旅の宿」の人間、おそらくそれは少年の両親、も戻ってくるに違いない。
二人は廊下を歩いてそれぞれの部屋へと向かったのだが、モオルダアは自分の部屋の前に来ると「あること」に気付いてメンドクサイという表情になっていた。彼はこの扉を使って外に出たのではなくて、窓から外に飛び出していったのだ。それで、この部屋の鍵はかけっぱなしで、しかも鍵は部屋の中にあるのだ。もう一度建物の外に出てぐるっと回って窓から部屋に入らないといけないようだ。モオルダアはウンザリした感じで肩を落とすと、再びフロントの方へと歩いていった。
モオルダアがフロントまで来るとそこは相変わらず静まりかえっていて、落ち着かない寂しさに包まれている気がした。それほど大きい旅館ではなく、このフロントも十人も人がいれば満員になりそうな広さしかないのだが、一人でいるのには広すぎると思えるだけのスペースである。誰もいないフロントに灯りだけがついているこの静まりかえった場所は慣れないものには相当に不気味な場所でもあった。
モオルダアは急いでこのフロントを通り過ぎて自分の部屋に戻りたいと思っていたのだが、気になることがあって、カウンターのところで一度足を止めた。あの少年が文学少年である、というところがどうしても納得出来なかったようだ。モオルダアはカウンターに覆い被さるようにして内側を覗き込んで、ニヤニヤしながら「やっぱりそうじゃん!」と言ってそこにあった雑誌を手に取った。モオルダアが思ったとおり、それは大人の男性向けの雑誌で、真面目そうな記事の中にヤラシイ記事や写真がちりばめられた良くある感じのものだった。
これで、モオルダアが最初に少年を見た時に読んでいたものがこの雑誌であるということを確信できたのだが、さっきの文庫本はどこへいったのだろう?この雑誌は先程スケアリーが見付けた文庫本のあった場所とほぼ同じ場所にあったのだが、今ではそんなものはどこにも見当たらない。もしかすると少年が戻ってきているのだろうか?モオルダアはそっとカウンターの奥を覗き込んで見たりしたのだが、ここにはどう考えても自分以外の人間がいる気配がない。なぜそう思うのか解らないが、今この場所には自分以外の誰もいないということが確信できたのだ。この場所には誰もいない。もしかするとこの世界には自分以外の誰もいないのではないか?と思えるほどの静寂がこの空間を支配していたのである。モオルダアは少し恐くなったので、慌てて扉を開けて外に出ていった。
やっぱり、ここはどこかヘンだなあ。と、外に出たモオルダアは小さくつぶやいていた。