3. その向こう
幹線道路を渡り切るとその先に見える光景はコレまでとは一転する。この辺りはアパートやマンションのような高い建物がほとんどないので、空が広く清々しい。そして、目の前にある大きな公園の木々もこの場所の景色を他とは違ったものにしている。
モオルダアは足の向くまま公園の中に入っていた。今日は特に天気が良い。モオルダアが少し目を上げると、そこには冷たく引き締まった冬の空が広がっている。時より北風が木々の枯れ葉をカサカサと揺らしながら公園の中を吹き抜けていく。モオルダアの頬にこの風は少し痛いぐらい冷たかったのだが、ここまで歩いてきて火照っている体には心地よかった。
モオルダアは周囲を見回しながら公園の中をユックリと歩いて行く。そして、ここで早くも優秀な捜査官の頭脳が滑らかに動き出すのを感じていた。こんな公園でも数年経つと全く景色が変わってしまうようだ。
以前に通った時にはもっと殺風景だったが、今では整備が行き届いている。それに、ここにある木々も時間の経過とともに大きく育ったのだろう。道の両側には花壇があり、その向こうに壁を作るように木が大きく育っていた。初夏の頃に訪れたらささやかな安らぎが得られるだろうな、とモオルダアはこの道を歩きながら思っていた。
モオルダアの休日はなかなかの滑り出しだった。一日の休暇で何をすればいいのか?とも思っていたのだが、これはこれでリフレッシュになるに違いない。モオルダアは自分の行動にチョットした満足感を覚えながらさらに歩いて行った。この公園を抜けるとその先にも彼の記憶に残っている場所がいくつもある。そこでまた優秀な捜査官の休日を楽しめそうだ。
そんな事を考えながら歩いていると、前方から誰かが近づいてくる。遠目にも解るが、それはこの公園でジョギングをしている女性のようだ。そういえばここに来るまで誰ともすれ違わなかった、とモオルダアは思った。平日の住宅街といっても少しは人がいても良さそうだったが、彼にとっては前方から走ってくる女性が今日初めて出会う人という事になりそうだ。
Tシャツと短パンの下から黒いスパッツに覆われた手足がスラリと伸びている。その女性は、少し見とれてしまうほど綺麗なフォームで走ってくる。手足がスパッツで黒い色でなかったらモオルダアはジロジロとその長い手足を眺めてしまうところだったが、黒いのでなんとかなっている。それでも、近づいて来るにつれて明らかになるその女性の容姿をモオルダアが気にしないはずはない。特に、こういう美しいプロポーションの女性の場合、どんな顔をしているのか確認しなくては気が済まないのである。
モオルダアは歩きながらチラチラと近づいて来る女性の方を見ていたのだが、どんな顔をしているのかはまだ解らなかった。だが、あまりチラチラしているのも怪しいだろうと思って、モオルダアはいったん女性の方を気にするのをやめた。前から来る女性が途中で分かれ道を曲がってしまわない限り、いずれすれ違うのだ。
モオルダアは少し視線を落として歩いた。そして、視界の上の方に女性の足が見えてきたところで、怪しまれないように少し顔を上げた。しかし、この作戦が失敗だと知ってモオルダアは少し後悔していた。
視線を上げたとたんに女性と目が合ってしまったのである。しかも、頭の中でこの女性に対しての期待が膨れあがっていた状態である。彼が気持ち悪いイヤらしい目つきだった可能性もあるのだ。走ってくる女性と、その反対へ歩いているモオルダア。なんとか誤魔化す時間的な余裕は全くないし、そうしたところで、結局は平日の公園を歩いている気持ち悪い男の人という事になってしまうだろう。
ここでちょっと落胆してしまったモオルダアだったが、その次の瞬間思いがけないことが起きたのである。モオルダアと目が合うとその女性はニコッと微笑んで「こんにちは」と言ったのである。しかもその笑顔。冬の低い日差しに照らされる色白の顔にうっすらとにじむ汗。
美女である。その美女がすれ違ったモオルダアに「こんにちは」と挨拶したのである。この不意打ちにモオルダアは「こんにちは」と返すことも出来ずに立ちすくんでしまった。だが女性はそんなことに気付く間もなく、モオルダアの横を通り過ぎて行ってしまった。
せめて笑顔を作る事さえ出来たら、とモオルダアは思っていたが、今ではどうすることも出来ない。立ち止まって美女が走っていくのを見守るしかなかった。もし走って追いかけていって、笑顔で「こんにちは」なんて言おうものなら、それこそ「気持ち悪い男の人」に違いない。
まあ、これはこれで良いのだ。モオルダアは思っていた。
自分は優秀な捜査官。滅多にとらない休暇を利用してたまたまここにいるだけだ。そして彼女は?
彼女が何者であるにしても優秀な捜査官である自分と関わり合うことはないだろう。明日から自分はまた危険と謎と陰謀の渦巻く世界でFBL・ペケファイル課の優秀な捜査官として捜査していかなければならないのだ。
モオルダアは女性が走っていった方と反対側へ振り返ってまた歩き出した。