9. 裏側
ビルや倉庫ばかりのこの辺りは一つの建物の敷地が大きく、住宅街にあるような裏道をたどりながら先ほどの喫茶店の裏に辿り着くということは出来ない。道路の右側の敷地には沢山のコンテナが積み上げられている。モオルダアはその影に隠れるようにして先に進んだ。この道沿いに少し行って左に曲がる道があれば喫茶店の裏に回る込むことが出来る。ただしなるべく目立つのは避けたい。
道の左側は何かのビルか倉庫のようである。ほとんど窓がないので倉庫かも知れないが、見たところ誰かが彼を監視しているような様子はない。その倉庫のような建物の先には何もなく駐車スペースになっているようだった。そこまで来て左側をのぞき込むと、その駐車スペースの先にさっきの喫茶店の建物が見えた。
これなら特に怪しまれることもなく喫茶店の裏に回り込めそうだ。私有地ではあるが、ここに入って歩いている時に誰かに何をしているのかを聞かれたら、向こうの道に出るのに近道がしたかったとか行っておけば誤魔化せる。本当にそれで大丈夫か解らないが、幸いにも誰にも会わずにモオルダアは喫茶店の裏のすぐ近くまで来ることが出来た。
倉庫のある建物の敷地との境にはチョットした柵があったのだが、格子状の柵なので向こう側が隠れて見えないという事も無い。しかし、予想していたとおりでもあるが、喫茶店の裏に窓はほとんど無かった。モオルダアの背よりも少し高い場所に明かり取りのような窓があるのだが、それも曇りガラスになっていて中が見えるようにはなっていない。
それだからといって諦めるわけにはいかない。優秀な捜査官は五感をフルに活用するものだ。それを実際に出来たことがあったかどうかは解らないのだが、モオルダアはそう思っている。これまでの事を考えると優秀な捜査官の五感ではなくて、少女的第六感の方が捜査には役立っているのだが。
緊張が高まってきたところで作者が余計な話を挟むので気が抜けてしまうが、モオルダアは喫茶店の壁のすぐ近くまで来て耳を澄ました。中から何かが聞こえて来れば、もしかするとあの美人店員がどの辺りの部屋にいるのかが解るかも知れないのだ。これは最後の手段でもあるのだが、もしもドアを蹴破って強行突破という事になれば、真っ直ぐにあの店員のところに行かないと失敗する。そういう事態に備えるためにもこれは重要な偵察なのだ。
モオルダアは全神経を壁に向けた耳に集中させていたが、聞こえて来るのはその向こうの通りを吹き抜ける風の音ばかりだった。これでは何の手がかりも得られない。そう思いながらモオルダアはさらに神経を集中させる。するとその時だった。
「それは良くないやり方ね」
モオルダアは背後でした声に飛び上がりそうになりながら振り返った。かろうじて変な悲鳴を上げなかったのだが、それはビックリしすぎて息が詰まって声が出なかっただけである。
10.
壁の向こうに気をとられてこっち側は全く無警戒だった。しまったと思いながら振り返ったモオルダアだったが、その時にさらに驚かされる事になった。その時にアッという声も出なかったのは、さっきから驚きっぱなしで息が詰まりっぱなしだからである。
「き、キミは…」
モオルダアはカラカラに乾いた口の中でなんとか唾を飲み込むと、絞り出すように言った。そこにいるのは、どう考えてもさっき喫茶店にいた美人店員なのだ。しかし、やはり何かがおかしい。
「言いたいことは解っています」
女性が言った。その服装はさっき見た喫茶店の店員の服装とはまるで違うし、その前に見たジョギング中の美女の服装とも違う。トレンチコートふうのコートを着ているが、そのコートをとおしてもその下にある長い手足と美しいプロポーションが解る。そして、顔はどうしても前に見た二人の美女と同じ顔だ。いや、もしかすると二人ではなくて実際には一人だったのだろうか?そして、目の前にいる美女もまた同じ人なのだろうか?
モオルダアはワケが解らなくなってきた。
「あなたの見ているものは、あなたが見ているようなものではないんです。私は何度もあなたに接触を試みましたが、あなたの意識があなたに間違ったものを見せている」
こう言われてさらにワケが解らない。
「どういうことだか、ボクにはさっぱり…」
「とにかく、ここは危険です。どこか安全な場所へ移動しましょう」
美女に真っ直ぐ見つめられてそんなことを言われたらホイホイついていきそうになるモオルダアであったが、ここで彼の少女的第六感が彼に何かを告げた。これは嬉しい展開でもあるのだが、おかしな点が多すぎるのだ。
「キミの言うことを信じないといけない理由というのが見つからないんだが」
モオルダアは先にいこうとする女性の背後から声をかけた。すると女性は少し苛立った様子で振り返った。
「今はそんなことを疑問に思っている場合じゃないんです」
そう言いながら女性はコートの下のジャケットの内ポケットから身分証のようなものを取り出した。それには女性の顔写真の横に「ClA」(真ん中は「アイ」ではなくて小文字の「エル」)と印刷されている。そのさらに横に名前が書いてあったはずだがモオルダアがそこを読む前に女性は身分証をしまってしまった。
「これで解ってもらえるかしら?」
シー・エル・エーって一体何だ?とは思ったのだが、モオルダアはちょっと盛り上がって来てしまったので、黙って頷くと女性について早足で歩き始めた。