「Day Off」

6.

 モオルダアはいつまでも厨房のドアを見ていても仕方ないと思ったのか、やっとそこから目を離した。どうせしばらくしたらコーヒーとサンドウィッチをもってやって来るのだし。そこで何が起こるのか?というと…、今は余計な事を考えないで休日に専念すべきだとモオルダアの優秀な捜査官の直感が彼に命じた。

 この「優秀な捜査官の直感」というのは普段の事件ではあまり登場しないし、実際にそんなものはないのだが、リラックスしているモオルダアの想像の中には登場するのだ。本人としてはその直感によって様々な事件を解決してきた、という事になっているようだが。

 そんなことはどうでも良いのだが、休日に専念するという優秀な捜査官の直感に従って、モオルダアは喫茶店の中を眺めていた。壁に設置されたランプのような形の照明がいくつか点いていたが、部屋の中を照らしているのは主に窓から入ってくる外の明かりだった。それは冷たくこわばったような光だったが、部屋に入ってくると赤煉瓦のような色合いの内装の雰囲気に溶け込んで暖かい光に変わっていくようだった。

 モオルダアはそんなことを思いながらさらに壁に掛かった絵などを眺めていた。特に印象に残るような感じではない森のような場所を描いたありふれた風景画ではあったが、落ち着いた色調が部屋の雰囲気を壊すようなことはなかった。絵に関してはそんな感想しか思いつかないモオルダアであったが、ここで妙な違和感を感じた。

 それは絵に関しての事ではなかった。絵を眺めていて気付いたのだが、絵を納めている額のガラスに店内が映っている。モオルダアは先に来ていた客とそのガラス越しに目が合ったのだ。別にガラスを使って他人を盗み見していたワケではないのだが、こういうのは少し気まずいのでモオルダアはすぐに目をそらした。

 しかし、目をそらしたあとでモオルダアは自分がもの凄く不自然なものを感じていることには気付いていた。さっき目が合ったのは老夫婦に見える二人のうちの女性の方だったのだが、目が合った時の、あの目の感じ。あれを何と表現したら良いのか?モオルダアとしてはそれを表現するための言葉はすぐに出てくるのだが、なぜか今日に限ってはそんな言葉は使いたくなかった。

 モオルダアは自分の前に置かれた水の入ったコップを手にとって、それを飲みながら怪しまれないように老夫婦の方をちらっと見た。ここから見る限り二人は普通の仲の良さそうな老夫婦である。しかし、モオルダアはもう一度ガラス越しに彼らを見ようとは思わなかった。もしもモオルダアが思っているとおりだとしたら、彼らはそういうことに敏感に反応するからである。

 いや、だがしかしモオルダア、落ち着いて考えろよ。と、モオルダアは心の中で自分に言い聞かせた。今日は優秀な捜査官の休日。美女は登場するが、それ以外には何も起きないのだ。ガラス越しに見た女性の目が蛇のように黒目が細長い目だったとしても。そこには何の意味もない。今日は優秀な捜査官の休日なのだ。

 …もしもその蛇のような目が示しているのが、彼らがレプティリアン・ヒューマノイド(ハ虫類人)であるという事だとしても。今日は優秀な捜査官の休日なのだから、美女が登場する以外に何も起きない。

 …なんてことを思えるワケがない。考えれば考えるほど気味が悪くなりそうだ。さっき見た女性の瞳は確かに蛇のように縦に細長い黒目だったのだ。だがもしかすると、ここに来るまでにずっと人の少ない寂しい道を歩いてきた影響でそんなものが錯覚として見えてしまったのかも知れない。

 モオルダアはもう一度さりげなく老夫婦の方を見てみた。こうしてみる限り、彼らはどこにでもいそうな老夫婦だ。だがガラス越しに彼らを見る事はなぜか出来なかった。…恐いんじゃない。余計な事を考えたくないだけだ。モオルダアは頭の中でこうつぶやいてみた。

 ただ、そうなってくると余計な事ばかりが思い浮かんでくるものである。あの公園を抜けたあとに彼が見てきた、記憶とは全く違った町並み。ほとんど人のいない道路。オマケに自分がこれまでいた世界とは違う世界にいるのではないか?とも思えるほど色彩のない風景など。もしかして、その全てに彼らが関わっているのでは?(「彼ら」とはもちろんハ虫類人のことだが。)

 モオルダアは一刻も早くここから抜け出すべきかと思い始めそうになっていたのだが、その時厨房に続く扉が開いてあの美人店員が再び現れた。そこでモオルダアはやっと落ち着くことが出来た。こんなおかしな事を考えていたなんて、この美女に知れたら恥ずかしいぞ、モオルダア。また頭の中で自分に言い聞かせた気持ち悪いモオルダア。

 これまで考えていた事は一時的に頭の中からは綺麗に消えた状態で、モオルダアは店員がこっちに向かってくるのを待った。彼女はモオルダアの注文したコーヒーとサンドウィッチを持って向かってくる。モオルダアはあまりそっちを意識しないように気をつけながら、美人店員の接近にワクワクしながらも素っ気ない感じで待っていた。すると店員も素っ気ない感じでコーヒーとサンドウィッチを彼の前の机に置くと「ごゆっくりどうぞ」と一言だけ言ってまたドアの向こうへと消えて言ってしまった。

 もっと愛想を良くすべきだっただろうか?とモオルダアは少し後悔したが、時すでに遅し。

 まあ良い。今日は優秀な捜査官の休日。やっぱり美女も登場しないのだ。そう思ってモオルダアがコーヒーを飲もうとした時、彼はコーヒーカップとその下の受け皿の間に何か挟まっているのに気付いた。紙のナプキンをちぎったもので、大きさは券売機で買う電車の切符ぐらいの大きさがあったので、自分の飲むコーヒーの皿に置いてあったら誰もが気付くだろう。

 モオルダアはコーヒーカップを片手に「なんだろう?」と思いながらその紙切れを見た。そして次の瞬間、あり得ないと考えていたさっきまでの事が一気に頭の中に蘇ってきた。ここには本当に何かがあるのだろうか?

 モオルダアは慌ててその紙切れを自分の手の中で小さく丸めて握りしめた。

 その紙切れには一言「助けて!」と書かれていたのだ。モオルダアは自分の動揺に気付かれないようにコーヒーカップを口に運んで一口飲んだ。飲み込んだ時のゴクリという音が必要以上に大きく感じられたが、それが気のせいなのかどうなのかは解らない。

 さらに平静を装ってモオルダアは椅子の背もたれに寄りかかって、またさりげなく辺りを見回してみた。さっきガラス越しに目の合った老婦人がこちらを見ている。さらに夫の方も振り返ってこっちに笑みを投げかけたような気もした。

 モオルダアは彼らの目を絶対に見ないようにしながら顔だけそちらに向けると、苦し紛れの笑顔を作ってコーヒーを飲んだ。そして、なるべく焦らないようにと思いながらサンドウィッチと食べ始めた。

 今日は優秀な捜査官の休日ではなくなってしまったようだ。