「拡散」

3. 官庁街

 モオルダアはとあるビルの前である人物を待っていた。怪しまれないように彼が自分のスマートフォンをいじっているフリをしていると、その人物はビルから出てきた。それは以前モオルダアに政府の極秘資料を密かに渡してくれた真利多小春(マリタ・コハル)だった。

 ビルから出てきた真利多は、政府機関で働く女性らしく早足でスタスタ歩く。どこへ行くのか知らないがスタスタ歩く。その後ろをモオルダアが追いかける。予想外にスタスタ歩くのでモオルダアも必死に歩いてその距離を縮めないといけなかった。

 そして、やっと彼女に声をかけられる距離に近づいた時にはモオルダアの息がかなり上がっていた。

「何か言いたいことがあるんじゃないですか?」

真利多の後ろから格好良く言ったつもりだったが、息の上がっているモオルダアの声は少し震えて変態じみていた。それを聞いた真利多もハッと身をかわすような感じで、驚いて振り返った。

「なんですか?」

マリタはそこにモオルダアの姿を見つけて迷惑そうな表情をしていた。

 モオルダアがその表情を見ても特に気にすることは無かった。たとえどんなにボクが優秀な捜査官であって、彼女がボクに惹かれているとしても、この美女と優秀な捜査官である二人は近づきすぎてはいけない関係なのだ。モオルダアとしてはそう思っているのだった。

「最近起きている騒動に関してです。あなたは何か知っているはずです」

「何のことだか解りません」

マリタはモオルダアの方を見ずにさらに足を速めた。

「冷蔵庫とか、冷凍庫とかに入ってナウ、ってやつですよ」

モオルダアも必死で真利多を追いかけながらも、あまり目立ってはいけないということは解っているので、声を潜めようとはしている。しかし、それがかえって彼を怪しい人間のようにしてしまっている。真利多としてもこれ以上彼に付きまとわれるのはいろんな意味で危険だと思い始めていた。そして、不意に立ち止まるとモオルダアの方へ振り向いた。

「あの、スイマセンけど。今回は私は何も知らないんです。迷惑ですから勝手に私に近づいて来るのはやめてくれませんか!」

いきなり強い口調で言われてモオルダアは面食らった感じだった。

「えっ?!でも、これって政府の陰謀とか。ネットを使った闇組織の実験とかじゃ…」

「知りません!これ以上ついてきたら大声を出しますよ!」

真利多はそう言うとまた歩調を速めた。

 思ったとおりにならなかったモオルダアは立ち止まると唖然として真利多の後ろ姿を見ていた。すると彼女はちょっと先にあるコンビニへ入っていった。

 やっぱり昼食はコンビニで買うんだな、と思ってモオルダアはそこだけは自分の思ったとおりで満足げだった。

 それはそうと、モオルダアがここへ来てもなんの意味も無かったようだ。彼に秘密の情報を教えてくれるミスター・ペケの後釜として登場した真利多なのだから、彼の思い通りになるわけではない。ミスター・ペケは不意に現れて助けてくれることもあれば、モオルダアから重要な証拠品を奪っていくこともあったのだ。そういう設定が真利多になったら急に変わるワケでもない。機密情報を教えてくれる謎の人物というのは、こっちの都合では動いてくれないのは人が変わっても同じなのである。

 ただ、モオルダアとしてはそこそこ美女の真利多に会えただけでも十分とも思っていた。それよりも、この先彼がストーカーのようにならない事を祈るのみだが。

4. 都内・とある病院

 冷凍庫の中で死んでいた警官の遺体を解剖するためスケアリーは手術衣に着替えて解剖台の前に立った。

「これから解剖を始めますわ」

スケアリーは独り言を言っているのではなくて、レコーダーに向かって話している。

「名前は氷室兵蔵(ヒムロ・ヒョウゾウ)。警察官。25歳。男性ですわ。記録によると特筆すべき病歴はありませんわ。遺体には目立った外傷もなく、死因には心臓発作なども考えられますけれど、死の直前に冷凍庫に入るという異常な行動から脳に異変があったとも考えられますわね。それでは解剖を開始いたしますわ」

スケアリーは前にも何度かやっていたように、食事の時にナイフを持つような感じでメスを持っていた。無免許の自称医者なのでしかたないが、それでもこれまで何度も検死解剖をおこなってきて特に問題も無かったので、それで良いのである。

 とにかく解剖を始めようとするスケアリーだったが、彼女の持ったメスが遺体の鎖骨の下あたりに触れようとした時に彼女の携帯電話が鳴って、スケアリーはビクッとして手を止めた。

「なんなんですの?」

そう思って携帯電話の方を見ると、電話ではなくてメールを受信したようだった。メールならそのまま解剖を続けても良さそうだったが、メールが来ているのを解っていてそのままにしておくのも気になって仕方がない。スケアリーは一度メスを置いてゴム手袋を外すと携帯電話に手を伸ばした。

 メールアプリを開くとそれはモオルダアからだった。「フラれちゃった…w (;_;)」と書かれていた。

 スケアリーは何のことだか理解できずにただ首をかしげるだけだった。これは間違って彼女に送られてきたものだろうか?だとしても、モオルダアがこんな内容のメールを一体誰に送るというのだろうか?彼女の知っている限り、モオルダアにはこんなメールを受け付けるような友達はいないはずである。

 ヘンな疑問が湧いてきてしまったが、これは考えていても仕方がないので、スケアリーはまた解剖の続きを始めることにした。

 メスを手にとって、遺体の胸を開くためにメスの刃が遺体に触れるとそれはほとんど抵抗を感じないまま冷たくなった皮膚の中へと入っていった。そこから腹部の方へとメスを動かしていくのだが、その前にまたメールを受信する音が聞こえた。またモオルダアに違いありませんわ、と思ってスケアリーは無視しようとしたのだが、なんとなくさっきのメールが気になってくる。

 スケアリーの持ったメスは最初に遺体に差し込まれた所から動かなくなっていた。「一体何だって言うんですの?だいたい、フラれるなんて言葉があのモオルダアから出てくるなんてあり得ませんのよ。だって、あの方ってフラれる以前に問題がありすぎて、それどころじゃないんですし…」しかし、そう考えたら余計にメールが気になってきてしまった。

 スケアリーは一度遺体に刺したメスを抜いて少し乱暴にそれをプレートの上に置くと、また手袋を外してメールを確認した。それはやはりモオルダアからのメールだった。

「ギリギリで電車に乗れそうだったのに、入る直前にドアが閉まって中の客と目が合う気まずさ。www」と書かれていた。

 さらにワケが解らなくなってきた。しばらく考えたあとに、彼女は電話をかけて確認した方が良いのではないか?と思った。しかし、そう考えている間に「乗車ナウ」と書かれたメールがモオルダアから届いた。電車に乗っているのなら電話は出来ませんわね、と思ってスケアリーは一度携帯電話を置いた。そして、また解剖の続きを始めることにした。

 どうでも良いことだが意味が解らないと気になってしまって、彼女はこれまで何をしていたのか解らなくなってしまったのだが、一度落ち着いて周りを見渡してみた。遺体の胸の上の方にメスを入れた跡がある。それを見て、彼女はどこまで解剖を進めていたのかを思い出して、もう一度気を取り直して解剖を再開することにした。

「それでは、今度こそ再開いたしますわ!」

今度のこれは彼女の独り言である。こうすることによって少しは集中を取り戻そうという事だろう。しかし、そう上手くはいかないのである。彼女がまたメスを持って解剖を再開しようとした時、今度はメールではなくて電話がかかってきた。

 スケアリーはさっきよりも乱暴にメスをプレートの上に置くと、携帯電話を確認した。思ったとおり、それはモオルダアからだった。

「ちょいと、モオルダア!何なんですの?」

「何なんですの?じゃないよ。キミも失礼だよね」

少し怒っていたスケアリーだったが、なぜかモオルダアも機嫌が悪いようだ。

「失礼ってどういうことですの?」

「どういうことも何もさ。さっきからボクが面白い事を呟いてるのにさ、全然反応してくれないんだもんな」

面白い事?!呟いている?!モオルダアが言っている事を理解する前にスケアリーは怒りがこみ上げてくるのを感じていた。

「あなたどういうことなんですの?それって、もしかして…」

「ああ、もういいや。電車来ちゃったから。また後で」

そこでモオルダアは電話を切ってしまった。「何なんですの!?」スケアリーはそう言うと、もう解剖どころではなくなった、という感じで何とかして怒りを抑えながら部屋から出て行ってしまった。