「忘却」

6. オフィス街

 近年の再開発によってさらに活気に満ちてきたこの街に新しく建てられたビルの下から、上を見上げるとチョットした憧れというのかしら、そんなものを感じてしまいますのよ。だって、こんな大きくて綺麗なビルで働いてみたい、って誰でも一度は思うものですものね。

 この大きなビルの全てがトイッタのオフィスではないので、まずは中に入ってオフィスのあるフロアまで移動ですのよ。高層ビルの高速エレベーターを使うとすぐにオフィスのある階に辿り着いたのですけれど、開いたエレベーターの扉の向こうには予想と違う光景が広がっていましたのよ。

 もぬけの殻ってこの事をいうのかしら?ってそんなことを考えてしまいましたけれど、こんな事ってあり得ますの?あまりにも信じられない光景に、あたくしは一瞬「夜逃げ」なんて言葉を思い浮かべてしまいましたけれど、すでにトイッタという会社はそんな事が出来るような会社ではありませんものね。ここは冷静になってもう一度考えてみますけれど、結論としては「こんな事はあり得ませんわ!」って事ですわよね。

 照明は消されて、窓から入ってくる明かりだけに照らされた寂しいオフィスの中には机などは残っていましたけれど、それ以外には何もありませんでしたわ。現代の企業には不可欠であり、IT企業の象徴とも言えるパソコンのようなものは一つもありませんし、それ以外の書類のようなものも全くありませんのよ。

 あたくしの休暇の最初の日からまだ一週間も経っていないんですのよ。これって何かの間違いじゃないかしら?もしかして、オフィスの移転をあたくしが知らないだけなんじゃないかしら?そんな事を思いながら、あたくしはオフィスとこの通路の間にあるガラスの扉を無意識に開こうとしていたのですけれど、ちょうどその時エレベーターの到着を知らせるチャイムが鳴って、そのドアが開きましたの。

 あたくしは少し驚いて、ガラスの扉から一歩さがってエレベーターの方を見ていると、そこから清掃会社の方が出てきましたのよ。あたくしは別にこのオフィスに忍び込もうとしていたわけではないのですけれど、ちょっとした罪悪感を感じてしまいましたわ。でも、ここに人が来てくれたのならちょうど良いですわ。

「こんにちは。あたくしエフ・ビー・エルのスケアリーと申しますけれど。このオフィスを使っていた会社って、どこかへ引っ越しされたのかしら?」

あたくしよりも一回り…いや、間違えましたわ!あたくしの母親世代という感じの掃除係の女性に聞いたのですけれど、その方は少し驚いたようにしてあたくしを見ていましたのよ。

「さあ。ここのフロアはずっと空いたままですが」

ここで、そんな事はあり得ませんわ!ってすぐに言い返したくなったのですけれど、この方の表情を見ると嘘を言っているようにも思えなくて、あたくしも少し黙ってしまったんですの。

「それじゃあ、もしかしてトイッタのオフィスというのはこのフロアじゃないのかしら?」

あたくしが言うと、その方はまたあたくしの事を理解できてないようにして黙ってしまいましたのよ。

「私達はスケジュールに従って掃除をして回ってるだけですから。ビルに入っている会社のこととか、その辺はあんまりねえ…」

そう言うと、その方は業務用の掃除機を引きずってオフィスの方へ行ってしまいましたのよ。あたくしとしてもそれ以上聞くこともありませんから、無理に引き留めることも出来ずにいたのですけれど。でもあたくしはちゃんと観察していますのよ。その方がガラスのドアを開ける時に、そこに鍵はかかっていなかったんですの。ここには本当に何もないのかも知れませんわ。