「忘却」

8. 地下

「あなたはあのフロアにあるはずの会社を調べに来たのですね。誤魔化そうとしても、あなたがどのような人だかはだいたい解っています。そして、あなたは私がどういう人間かも気付き始めているでしょう。あなたが思っているとおり、私はこのビルの管理会社の人間ではありません」

その男性はゆっくりと歩きながらそう言いましたのよ。でも、それが何なのか?って思ってしまいましたけど、あまり時間がないようで彼は先を続けたんですの。

「あのフロアには確かにトイッタという会社のオフィスがありました。それに、世の中で知らない人の方が少ないくらいに有名だったというのも説明するまでもありませんね。その会社がある日忽然と消えるということがあるのか?ということは誰でも考えます。でもそれは違ったんです。彼らはずっと前から計画していた。誰にも気付かれずに彼らはあらゆる場所に侵入していたんです。だからトイッタがある日突然使えなくなっても誰も驚かなかった。最初はサービス名が変わっただけだったんです。しかし、どういうワケかその後でトイッタ自体はほとんどの人間の記憶から消えてしまった。彼らがどういう手を使ったのかは解りませんが…」

「ちょいと、待ってくださらないかしら?さっきから『彼ら』って言ってますけれど、それってまさか…」

「いや、私は決して怪しい話をしているわけではありませんよ。彼らがどこの誰なのか、今は全く解らないのです。でも聞いてください。これはただ会社が乗っ取られた、というだけでは終わらないと思うのです。彼らはこの国、それだけではなく世界を自分のものにしようとしているのだと思うのです」

「ちょいと?!それ本気で言っているんですの?」

一体なんなのかしら?あたくしってこういう感じで現実と妄想が入り交じったような考えをする人を引きつける何かをもっているのかしら?そんな感じじゃありませんこと?

「信じられないのは解ります。でも考えてみてください。あなたも知っているように、数日前までトイッタという会社は存在して誰もが当たり前のようにそのサービスを利用していたのです。それが形だけでなく、人々の記憶からも消えてしまった。それは現実のことです。そして、そのようなことをなぜするのか?それも大がかりな事をしなければ実現できないような事を彼らはやったのです。何か大きな存在がそこにはあるのです」

言っている事は正しいような気もしますわ。ですけれどあまりにも話が漠然としすぎていますわ。だいたいこの方はどうしてそこまで知っていながら自分で何もせずにあたくしにそんな事を話すのかしら?

「あなたはそれを知っていてどうして何もしないんですの?」

「そう思われても仕方がないですが。こうしてあなたに話しているだけでも精一杯のことはしているのです。私はトイッタが何者かに狙われているということで、上層部から密かに雇われてこのビルの職員としてここに出入りしていたのです。でも、気付いた時には手遅れだったということはさっきも言ったとおり。私が何を調べてもこうなる他はなかったのです。そして、私はこのビルの職員という事になっていたので、彼らに顔も名前も覚えられてしまった。今こうして話していることも彼らに知られてしまったら、私はすぐに消されるでしょう。どういう事をされるにしても、彼らは人の記憶から何かを消すことには長けているみたいでね。私がいなくなっても誰も気にしないでしょう。しかし、それは本当に恐ろしいことです」

こういう状況で個人的な感情があだになる事はありますわね。この方がちょっと弱気な発言をしている間にあたくし達は地下駐車場の出口に近づいて来てしまったんですのよ。でもあたくしはまだ必要な情報を得ていませんのよ。

「それで、あたくしにどうしろと言うんですの?」

「彼らはすでにインターネットを手中にしたも同然です。次はテレビなのか、あるいは国家機関なのか。ああ、もう時間がない。最後にこれだけは言っておきますが。今のところ彼らの力は地下には及んでいません。ですから、他にだれか信用できる人がいて、その人にこの事を話すのなら、このような地下にある場所を選んでください。彼らはどこにでもいる。でもどこかにその中心となる場所があるはずです。それを探すのです。彼らが国や世界を手に入れようとしているのなら、それは東京のこの近くに違いないですから。…ああ、もう時間がない。あの出口から外に出たら関係ない話を始めますから、あなたは適当に話を合わせてください」

彼がそこまで言うとあたくし達は地下駐車場の出口に来ましたの。そこから車が出入りするためのスロープを上がりながら彼はエレベーターの操作を間違えた事を謝ったり、あたくしのベンチャー企業が使うのにちょうど良いオフィスのあるビルを提案したり、そんな事をしていましたわ。もちろんそれは彼の言っていた「彼ら」を欺くための作り話なのですけれど。あたくしもそれにあわせて返事をしていましたのよ。どこまで信じて良いのか、或いは全てが嘘なのか。そうでなければ一大事なのですわね。