「炎上」

04. 区議の事務所

 モオルダアがやって来たのはもちろん小根野に襲われた区議会議員の事務所である。この区議がどんな人なのかは別の区の住人であるモオルダアには良く解らないし、もしも自分の住んでいる区の区議会議員でも、区議の一人一人がどういう人間でどういう事をしているのかというと、あまり知っている人はいなかったりもする。

 そんな感じなのだが、とにかく区議に会ってどんな様子なのか調べないといけない。区議の名前は米多堀(メタホリ)という。40代で区議に当選して、50代になった今でもなんとなく当選し続けているということだ。

 モオルダアが事務所にやって来て、中にいる人に区議の様子を調べたいということを伝えようとした時、奥の部屋から誰かが大声で怒鳴るのが聞こえて来た。米多堀が秘書らしき人間を叱責しているようだった。恐らく区議は小根野をこの事務所に入れた事に怒っているのだろう。

 モオルダアはマズいところへやって来てしまった、と思ってしばらく黙ったまま部屋の中から漏れてくる米多堀の声を聞いていた。あの事件の後なので区議はモオルダアのような部外者がこの事務所に入っている事を気に入らないに違いない。

 米多堀の怒鳴り声はすぐに収まって区議が部屋から出てきた。区議が何故かトレーニングウェアを着ているのが意外だったモオルダアはボンヤリと区議のことを眺めてしまった。

「なんだねキミは!」

先生と呼ばれる人間にありがちな横柄な口調で米多堀が言った。モオルダアはなんとなく決まりが悪いような気がしてすぐに言葉が出てこなかった。そして、思わずどうしてトレーニングウェアなのか?ということを聞いてしまいそうになったのだが、ここに来た目的を思い出してモオルダアはエフ・ビー・エルの身分証を米多堀に見せた。

「私はエフ・ビー・エルのモオルダア特別捜査官です。今日の事件についていくつか聞きたいことが…」

「そんなものはどうでもイイ。話なら警察に充分したから。もう話す事は何もないぞ」

「いや、私が聞きたいのは警察が聞いたのとは違うことだと思いますが」

「なんだ?何が聞きたいのだ?今は時間がないのだよ。会食の前に体を動かしておかないとな」

そう言いながら米多堀はトレーニングウェアのズボンのゴムが食い込んでいるまん丸いお腹をポンと叩いた。

「ダイエットだよ。区議たるもの、ダイエットが肝心だからな」

モオルダアは米多堀の後ろにいる女性職員がニヤニヤしているのに気付いた。おそらくその体型でダイエットというのがおかしいと思っているのだろう。運動の量と食事の量のバランスが釣り合っていないに違いないのだが、それはどうでも良い事である。

「それで聞きたいのは、小根野がここへ来た時に彼女はあなたにどれくらい近づいていたか?ということなのですが」

「なんだそんなことか?あの女はここへ来た時から様子が変だってことだったし、部屋に押し入ってきた時には包丁を取り出していたからな。秘書がそれに気付いてすぐに取り押さえてくれたから、あの女は私に触ることも出来なかった」

そう言った米多堀は、質問の内容は違っても話した内容は警察にしたのと同じじゃないか、とか思ってしまいそうだったが、その前にモオルダアの質問が続いた。

「その秘書というのは?」

「奥の部屋にいるが」

ということは、さっき怒鳴られていたのが小根野を取り押さえた秘書ということだが。米多堀を助けたのに怒られるとか、損な役回りだと思いながらモオルダアは奥の部屋にいる秘書のところへ向かった。

 秘書は小根野が来た時の騒動で散らかっている部屋の整理をしていたようだった。

「あなたは?」

モオルダアに気付いた秘書が聞いた。小根野を取り押さえたり、区議に怒鳴られたりで大変な一日なのだが、この秘書は飄々としている。議員の秘書などをやるにはそういう性格でないとダメなのかも知れない。あるいはこの秘書の態度には他に理由があるのかも知れないとモオルダアは思ったのだが、その時外から米多堀の大きな声が聞こえてきた。

 何かと思って見てみると米多堀はモオルダアがこっちの部屋に来たのを良いことに、運動のために外に出ようとしているところだった。だが小根野に襲われたばかりなので、外にいる警官に止められたということらしい。米多堀はさらに警官達と話していたが、やがて彼は走り出して、その後を警官達が追いかけていった。警官の護衛付きでジョギングということなのだろうか。

 モオルダアの後ろで秘書が小さくため息をついた。

「米多堀さんっていつもああなのですか?」

モオルダアが振り返って秘書に聞いた。

「ええ。区議会議員ですからね。ダイエットなんですよ」

モオルダアはどうして区議会議員だとダイエットなのか?と気になっていたが、それよりも重要なことを聞かないといけない。

「ところで、昨日の米多堀さんの夕食は何でしたか?」

「夕食ですか?いつもどおり、この事務所の前の道を行ったところにある寿司屋で色々食べていたみたいですけど」

「そう。キミも一緒に?」

「ええ、まあ」

「そう」

モオルダアはなんとなく納得がいかないような気がしていたが、それだけ聞くと部屋から出て行った。

 ここには謎があんまりない。モオルダアはそんなふうに思っていた。正確には区議が無意味なダイエットをしているとか、そういう点は謎ではあるが、そこはモオルダアが調べるような事ではない。ここには、あの黒いオイルが関係していた現場に常にあった言い知れぬ緊張感みたいなものがないのだ。

 米多堀は呑気にジョギングをしているし、秘書は秘書でいつもどおりといった様子で仕事をしている。もしもここであの黒いオイルによる何かが起きたとしたら、米多堀か秘書のどちらかが何かに感染していると思っていたモオルダアだが、もうここで調べることはあまりないと思っていた。

 モオルダアが事務所から出ようとすると早くもジョギングを終えた米多堀が帰ってきたところだった。これではほとんど運動になっていないとも思ったが、それは気にせずにモオルダアは念のために米多堀に昨日の夕食について聞いてみる事にした。

 すると、米多堀は息を切らせながら「寿司に決まってるだろう」と言った。決まってると言われてもモオルダアがそんなことを知っているワケはないのだが、そのぐらい頻繁に寿司屋で夕食を食べるということだろう。とにかく秘書も米多堀も事件前のことに関する質問に同じ答えを返してきた。あのオイルの中の何かに感染するとそういう記憶は曖昧になると推測していたが、そうでないので彼らが何かに感染している可能性はないということも大体解ってしまった。