「ゲロニンゲン」

20. 病院

 モオルダアはスケアリーの姉がいるはずの病室へと入ってきたのだが、その部屋に入った瞬間になにか嫌な感じがしていた。スケアリーの姉が寝ているはずのベッドは空っぽで、ベッドの周りにあった生命を維持するための大がかりな機会もすっかり片付けられていた。そのかたわらにスケアリーがうつむいたまま座っていたのである。ベッドの他にはほとんど何もない感じのこの部屋に一人でいるスケアリーは余計にモオルダアに寂しそうな印象を与えた。

 モオルダアはまさかとは思いながらも、それはないことでもないと考えていた。スケアリーの姉は危機的な状態でこの病院に運び込まれてきたのだし、懸命の治療が意味をなさなかったとしてもそれはしかたのないことかも知れないのだ。

 しかし、こんな状況になっているということは考えもしなかったモオルダアは少し困っていた。ここは椅子に座ってうつむいているスケアリーに何か言って慰めてあげるべきなのだが、とっさに気の利いた言葉を思いつくほどモオルダアは器用ではない。スケアリーの後ろにくるまでに何と言おうか必死に考えていたモオルダアだったが、結局なにも出てこなかった。

「あの…、なんて言うか、その…、このたびは…」

モオルダアの意味をなさない言葉を聞いてスケアリーは彼が来たことに気付いたようだった。そしてモオルダアが何を言おうとしているのかなどは気にせずにうつむいたまま話し始めた。

「さっき姉は二度目の手術を受けたんですのよ。開頭手術って知ってますわよね。それは大変な手術なんですけれど…。そうしたら、姉は急に元気になってさっき退院してしまったんですのよ」

「生きてるの!?」

モオルダアは予期せぬ展開に驚いている。ここにいるスケアリーの様子からするとスケアリーの姉は、なんというか、助からなかったということになっていると思っていたのだが。

「…まあ、それは良かったね。それで、キミは…」

「モオルダア、あたくしはどうして姉がこんな酷い目にあったのか考えていたんですのよ」

「それは、しかたのないことだよ。これはボクらにとって運命なのかも知れないよ。ボクらが…」

「そういうことではないんですのよ!」

モオルダアは何かおかしなことになっていることに気付いたのだが、何がどうおかしくなっているのかを理解する前にスケアリーの鉄拳がモオルダアの顔目がけて飛んできた。もちろんモオルダアはよけることも出来ずにノックアウト寸前だったが、やっとのことで持ちこたえて殴られた頬を抑えながら体勢を立て直した。どうしていきなり殴られたのか解らなかったが、モオルダアが今回の事件で起きたことを頭の中で一つずつさかのぼっていくと、彼女がいきなりモオルダアを殴った理由がなんとなく解ってきた。

「モオルダア。あなたはあたくしの部屋でゲロを吐いて、あたくしの部屋を汚してそのまま逃げたでございましょ?」

「それは、そうだけど。でもあの時のボクの状態はキミも知っているとおり普通じゃなかったんだから…」

「でも、逃げたのならマトモだとも言えますわ!きっとあなたも悪いことをしたと思っていたんでしょうから。それでも、どうせ逃げるんだったら、ちょっとでも掃除をしたりしてから逃げるべきだったんですのよ!」

「それって、どういうこと?」

掃除をしたところで、あの部屋にまき散らかされたゲロは簡単には綺麗になりそうになかったはずなので、モオルダアはスケアリーが何を言っているのか良く解らなくなってきた。

「あたくしの姉は、ここに運ばれ来た時に体中に嘔吐物のようなものが付着していたって、病院の方から聞いたんですの」

「それは、つまりキミのお姉さんはボクの吐いたものを踏んで、滑って転んで怪我をしたってこと?でも、キミのお姉さんはキミの家の前で…」

「そうじゃないんですのよ!」

スケアリーがまた怒って殴ってきたりしないか心配になったモオルダアが両腕を顔の前に持ってきて身構えた。しかし、スケアリーは何もしなかった。モオルダアがガードを外すとスケアリーは先を続けた。しかし、それはあまり話したくないことをいやいや話すような様子だった。

「あたくしは、姉がひき逃げにあった可能性があると聞いて、そんなことは許せないことですから、絶対に犯人を捕まえたくて警察にも連絡してみたんですの。そうしたら、犯人はもう自首してきたということだったんですのよ」

「なんだ、それなら良かったじゃないか。キミのお姉さんも助かったんだし、その犯人もこれから罪を償えばそれで全て…」

「問題はそんなところにあるんじゃないんですのよ。その犯人は姉と一緒にもう一人の人物を跳ねたって言っているんですのよ。でも、そのもう一人というのが車にぶつかった瞬間に液体みたいに飛び散って、それから液体が一つにまとまると、また元のような人間の形になって…」

スケアリーは自分が何を話しているのかを考えて、一度話を中断した。こんな話をすればモオルダアを喜ばせるだけなのだが、それでも彼女の知っている全てのことから導いた結論によると、今のところ彼女の話していることは真実に近いと彼女は思っていた。

「ですから、あたくしはこう思うんですのよ。その液体のようにバラバラになっても生きている人間があたくしの姉を抱えて走ってくる車の前に飛び出して、あたくしの姉を殺そうとしたんですわ。本当ならそこにいたのは姉ではなくてあたくしだったかも知れないのですけれど」

モオルダアはいきなりこんなことを言われても、なかなか理解できずにしばらく考えてしまったのだが、やっとのことで話が見えてきた。

「キミのお姉さんがここに運ばれて来た時に嘔吐物がたくさん体に付着していてたけど、それはボクがキミの部屋で吐いたものではないということだよね。それは多分、その車に轢かれても生きているヘンな生き物がグチャッとなった時にキミのお姉さんの体についたということで…。でも、そのヘンな生き物ってなんなんだ?」

それを聞いてスケアリーはムッとしてモオルダアを睨みつけた。

「あなた、自分で言ったことも覚えてないんですの!?あなたは昨日、あの温室で言ってらしたでしょ?ビクタ博士が人間とゲロの交配をしているって」

モオルダアはまさかスケアリーはあの話をちゃんと聞いていたとは思っていなかったので、ここでゲロニンゲンの話を出されて驚いていた。

「そ、それは、あまりにもペケファイルな話だねえ」

「それはどうでも良いですわ!あたくしはなんとしてでも姉にこのようなことをした犯人を捕まえて見せますからね」

「そうだよ、スケアリー!全てはペケファイルに書かれているんだ」

スケアリーが珍しく怪しい話に肯定的な態度なので、モオルダアは盛り上がってしまった。スケアリーはとりあえず話すことは話したので、話題を変えることにした。

「ところで、あなたはあたくしの部屋をどうするおつもりかしら?」

「どうするって?」

「あなたが、あたくしの部屋に来てあたくしの部屋を元のとおりになるまで掃除するか、それとも、ハウスクリーニングやその他のクリーニング代を全部あなたが払うか。それとも、ここでもう一発喰らうのがいいかしら?」

そう言うと、スケアリーは拳を作ってモオルダアの前につきだした。モオルダアは焦ったが、それを見たスケアリーがニヤニヤしているので本気ではない事が解った。しかし、どうしてもスケアリーの部屋の掃除はしないといけない感じだ。

「それじゃあ、ボクは一番を選択します」

モオルダアがそう言うと、二人は病室から出ていった。モオルダアは忘れているのだが、彼のボロアパートの部屋もまだそのままなのだ。ガラスが割れた彼の部屋は吹き込む強風によって散らかり放題である。予報によれば今日の関東地方は夕方から大雨になるということだ。

2009-04-22 (Wed)
the Peke Files #022
「ゲロニンゲン」