「ゲロニンゲン」

3. 病院

 病院の緊急病棟はいつでも慌ただしい。殺人豆に襲われた人や、フィアンセに斧で足を切断された人や、ショッキングな事態を受け入れられず、それを飲んで忘れようとして急性アルコール中毒になった人などが運び込まれて来るからだ。そして、今夜は夜道で倒れていた女性が運び込まれて来ていた。特に危険な状態だったその女性は緊急の手術を受けた後、緊急に用意されたベッドに横たわり、まさしく緊急事態という感じの生命維持装置につながれていた。


 スケアリーの母親は青ざめてこの緊急病棟に入ってきた。病院の関係者以外でここへやって来る人は大抵の場合青ざめているので、医師や看護士達は青ざめているスケアリーの母を見ても特に気に留めることはなかった。

 スケアリーの母は近くにいた医師に話しかけた。

「あたくしの娘がここにいるはずなんですけれども」

聞かれた医師は落ち着いて対処した。

「娘さんの名前はなんとおっしゃいますか?」

「スケアリーよ!ダナア・スケアリーですわ」

(忘れている人のために:ダナアはスケアリーの名前で苗字がスケアリーである。)

「ダネエ・スケアリーの間違いではありませんか?」

「それは、ダナアの姉の名前ですわ」

「ここに運ばれてきたのはダネエさんですが」

そう言って、医師はスケアリーの姉のいる病室へ母親を案内した。スケアリーの母が病室に入ると、そこには目鼻口を残した頭部のほとんどに包帯を巻かれ、点滴や心臓の鼓動を調べる装置や呼吸を助ける装置がたくさん付けられて痛々しい感じのスケアリーの姉が横たわっていた。

「なんてことですの!?」

それが姉であれ妹であれ、自分の娘が瀕死の状態で横たわっている姿を見るのはつらいものだった。

「頭を強く打ったようです。手術は終えましたが、昏睡状態が続いています。脳内に出血もありましたし、しばらくは安静にしていないといけません」

「この子は助かるんでしょうね?」

「医師としては断言するわけにいきません。しかし、出来る限りのことはします」

スケアリーの母は目に涙を浮かべてベッドの上のダネエを見つめた。呼びかけてもなんの反応も示さない娘を見て、そこに希望があるとは思えない気がしたのだが、スケアリーの母は敢えて泣くようなことはしなかった。彼女につながれた心電図が定期的に反応している間は、まだ幽かな望みは残されているのだから。ほとんど泣きそうなスケアリーの母はそう思って娘を見つめていた。

4. ローンガマンのアジト

 ローンガマンの準メンバーである元部長はランプのついたスタンド型ルーペをとおしてモオルダアが実家から持ってきた写真を覗き込んでいた。その隣ではヌリカベ君が無表情ながらも興味を持って元部長の様子を見ていた。

 スケアリーはこの様子をどこかおかしいと思っていた。ヌリカベ君は大学院をやめた科学者だし、元部長はほとんど勉強もせずに演劇をやっていて、大学を中退した後はヌリカベ君のところに居候してパチンコばかりやっていたということだった。そんな二人がモオルダアの持ってきた写真を見て何が解るのだろうか?ということだったのだが、元部長は最近ローンガマンの正式メンバーになりたくて、こういった怪しいことを猛勉強していたらしい。

「これは貴重な写真ですよ、モオルダアさん!」

元部長はこれまでの猛勉強が報われる、といった感じで多少興奮気味になっていた。元部長が立ち上がるとヌリカベ君が元部長のいた場所に座ると興味津々でルーペを覗き込んでいた。

「第二次大戦後に行われたゲロニンゲン作戦って知ってますか?」

「もちろんだよ。軍の行っていたヤバイ研究の成果や、技術の提供と引き替えに軍の科学者達を戦争犯罪の罪に問わないとか、そんなやつでしょ」

スケアリーはまたもや怪しい話が始まったので、二人の間に割って入ろうとしたのだが、その前にヌリカベ君が珍しく口を開いた。

「この人知っています」

ヌリカベ君は写真の中でモオルダアの父親の隣にいる男を指さした。ヌリカベ君が何かに気付くということは、やはりその人物は何か特別なのだろうか?スケアリーはヌリカベ君の言うことはなんとなく本当のことのような気がして信じてしまうようだ。モオルダアもスケアリーもその続きを聞きたかったが、無口なヌリカベ君はやはりそれ以上喋らなかったので、代わりに元部長が先を続けた。

「その人は尾久多 九蘭歩(ビクタ・クランポ)です。ほとんど知られていませんが、彼も戦時中にヤバイ実験をしていた科学者の中の一人です」

「ヤバイって、なんなんですの?」

「細菌兵器とか生物兵器とか言われるものの実験です。実験台に人間を使っていたとかいう話もありますけどね。とにかく科学のためには人を人と思わぬようなことも平気でするような人間です。それからアメリカの宇宙開発計画にも参加していたというウワサもあります」

「宇宙で考えた上の句に対する下の句を地上の人間に考えさせる、というアイディアは彼のものなんです」

ここでいきなりヌリカベ君が話しに入ってきた。それが冗談なのか、本気なのか解らなかったが、現在の話題の中ではどうでも良いことだったので誰もそこを詳しく聞こうとは思わなかったようだ。

「それで、その方はどうしてモオルダアのお父様と一緒に写真に写っているんですの?」

「さあねえ?他に知っている顔はないの?」

モオルダアは元部長に聞いてみたが、それ以上は解らないようだった。彼らは誰にも知られないように任務を遂行するプロフェッショナルなのだから無理はない。彼らは今でも薄暗い部屋の中でウィスキーをラッパ飲みしたり、マシュマロを食べたり、葉巻を吸ったりしながら誰にも知られてはいけない事柄に関して話し合っているのだ。

「その、クランポという人は今何をしているのかしら?」

「やばいことに協力して得た報酬と年金とで優雅に老後の生活を送っているって話ですよ」

どうやらクランポはまだ生きているようだ。この後モオルダアとスケアリーが向かうべきはこの老人のところになりそうだった。

 ここでローンガマンのアジトでの用事は済んだようなので、そろそろおいとまということになりそうだったのだが、その時、部屋の扉が開いてこれまでここにいなかったもう一人の準メンバーであるフロシキ君が入ってきた。

 フロシキ君は不意にモオルダアの姿を見付けて驚いていた。

「あんた、生きてたのか?!」

モオルダアはこのフロシキ君とはほとんどあったことがなかったので、どうして自分の姿を見てこれほど盛り上がっているのか不思議だった。モオルダアがそんなことを不思議に思っていると、フロシキ君はモオルダアに近寄ってきて彼に抱きついた。モオルダアにはまだ理解できなかったが、自分が生きていることをこれほどまでに喜んでくれる人がいるというのは嫌な気分ではなかった。

「アンタが死んだら、後はあのネエちゃんが一人で主役になるだろ?そうしたら、どう考えたってオレ達の出番はなくなるはずだからね。ほとんど登場できなかったのにそれで終わりなんてことになったら、せっかく出てきた甲斐がないぜ」

どうやらフロシキ君はモオルダアが生きていたこと自体を喜んでいるということではなさそうだった。

 フロシキ君はまだ興奮状態だったが、この部屋にスケアリーがいるのを知って少し気まずそうにしていた。それは先程フロシキ君がスケアリーのことを「あのネエちゃん」と言っていたからではない。フロシキ君は女の人を「ネエちゃん」と呼ぶタイプの人間なのだ。フロシキ君が気まずくなったのは彼の知っている情報のせいだった。自分がまだ登場できると知って盛り上がってしまった後で、彼女に自分の知っている情報を伝えるのはかなりやりづらいことだった。

「ああ、あのアンタ…。もう登場する機会がないと思ってヒマだったから警察無線を傍受してたんだよね…」

スケアリーはフロシキ君が自分に向かって何か言っているが、何を言いたいのか解らずに不思議な顔をしていた。

「なんなんですの?何かあたくしに関係のあることですの?」

「あの、アンタの家の前で女性が倒れていて、その人危篤状態みたいなんだよね。それが、なんて言うかアンタの姉さんなんだよ」

それを聞いてスケアリーは一瞬にして顔色を変えた。

「ちょいと!どういうことですの?どうしてそれを最初に言わないんですの?あなたが登場するとかしないとか、そんなことよりもずっと大事なことじゃないんですの?!」

スケアリーは最後まで言い終える前に扉の外に出て、急いで病院に向かおうとしていた。ここにいた一同はその勢いに呆然としてその姿を見つめてしまったのだが、ふとモオルダアの少女的第六感が彼に何かを伝えた。モオルダアはアッと思ってスケアリーの後を追いかけた。


 スケアリーの後を追って外に出たモオルダアはすでに車に乗り込んでエンジンをかけている彼女の姿を見付けた。このままではすぐに車が動き出してしまう。どうしても彼女を止めたいモオルダアは自分でも驚くほどの行動に出た。彼は動き出した車の前に飛び出して車の前に立ちはだかった。

 これから一気にアクセルを踏み込んで、大急ぎで病院に向かおうとしていたスケアリーは目の前に現れたモオルダアを見てとっさにブレーキを両足で踏みつけた。タイヤのきしむ音とバンパーに何かがぶつかった鈍い音がして、そのしばらく後にモオルダアが弱々しく呻く声が幽かに聞こえてきた。

「ちょいと!?なんなんですの?」

スケアリーは慌てて車から降りてきて、倒れているモオルダアの横にしゃがみ込んだ。モオルダアは車から2メートルほど離れたところに突き飛ばされて横たわっていた。スケアリーはモオルダアの体を触って出血はないかとか、腕や足があらぬ方向へ折れ曲がってはいないかとかを調べていた。

「ウゥゥゥ…。今、病院へ行くのは危険だよ」

モオルダアは車に跳ねられてパニック状態だったが、なんとか口を開くことが出来た。それを聞いてスケアリーは少し安心した。

「なんで、こんな真似をしたんですの?」

モオルダアは答える前に体を起こして、自分がちゃんとしてるか、手や足はちゃんと体についているのか、とかを確認した。

「彼らの狙ったのはキミに違いないよ。なぜだか知らないけど、キミは暗殺されそうなんでしょ?きっとキミのお姉さんはキミと間違えられて…」

「だからといって、あたくしが病院に行かないでどうしろというんですの?悪党どものせいで姉の命が危ないというのに…」

「病院に行けば彼らはキミを待ちかまえているに違いないよ」

いつもならスケアリーの意見に反論すると恐ろしい形相で睨まれたり、鉄拳を喰らったりするのだが、力無くうつむいておそらくその目には涙も浮かべているであろうスケアリーを見て、モオルダアは一瞬どうしていいか迷ってしまった。そんな状態で、誰か頼りになりそうな人間がいないかと考えると、自然と一番印象に残っている人間の顔が出てきてしまう。

「病院には別の人に行ってもらうしかないよ。彼を呼んだらきっと力になってくれるはずだよ」

スケアリーには納得できなかったが、モオルダアの言うことは確かに正しかったので、その意見を受け容れるしかなかった。