「ゲロニンゲン」

7.東京・郊外

 尾久多 九蘭歩(ビクタ・クランポ)は朝早く目覚めると、いつものように自宅の敷地内にある巨大な温室で栽培している蘭の世話をしていた。彼が遠い昔に犯した罪は彼にとってはさほどの意味もないものになっていた。あるいは、彼にとってそれは国のため、さらには人類の繁栄のためであったのだから、彼はその罪を罪と思っていないのかも知れない。

 クランポが若い頃にやっていた研究に比べたら、彼が自分の名前にちなんでここでやっている蘭の交配や栽培は味気ないものであったが、科学者としての探求心を満たすという意味においては、この温室で余生を過ごす生活はそれなりに充実したものであった。予期せぬ訪問者達がこの温室を訪れるまでは。


「ビクタさん!」

クランポが自分を呼ぶ声に反応して植木鉢から顔を上げると、そこには眠そうな二人がいた。ほとんど寝ないまま、クランポの家のあるこの郊外までやってきたモオルダアとスケアリーは半分寝ているような虚ろな表情でクランポに近づいてきた。

「あなたはビクタ・クランポさんですね?」

いきなりやってきた怪しい二人を見ても、クランポはそれほど驚いたりはしない。長い間生きてきた経験のなせる業なのか、それとも長い間生きていたので、いろんな反射神経がほとんど機能していないのかは知らないが、クランポは落ち着いた表情で二人を見つめていた。

「どなたかな?」

「ボクはエフ・ビー・エルのモオルダア捜査官。こちらはスケアリー捜査官だ」

「モオルダアとな?」

クランポはモオルダアを見ながらどこかで見たような顔だと思った。

「あなたはボクの父を知っていますよね」

クランポはここにやってきたモオルダアが誰なのかということに気付いて「これは朝から面倒だ」と思っていた。

「あなたはボクの父と一緒に政府の仕事に関わっていたはずなんですが」

「さあな。昔のことは良く覚えてないのだよ」

クランポはモオルダアの質問に答えたくないようなそぶりを見せた。

「それはあなたが覚えていないのではなくて、忘れたいだけなんじゃございませんこと?」

クランポがモオルダアばかりに気をとられていて、自分のことを少しも見ていないので、スケアリーが話に割って入ってきた。このスケアリーの発言が意外と功を奏してクランポは少しムキになって言い返してきた。

「野口英世やら湯川秀樹やらお茶の水博士やら、あんな連中はみんな歴史に名を残しているがな。このクランポはどうなるんだ?私は蘭をいじくるただの老人だった、ということになるだろうな」

「あなたがしたことが本当ならば、それは当然の報いですわ」

スケアリーはクランポが戦時中にしていたかも知れない人体実験などについて言っているようだった。クランポはスケアリーの言わんとしていることに気付いていたようだ。(というかお茶の水博士ってマンガのことか?とモオルダアは思っていたのだが、何も言わなかった。)

「やりすぎたと言われればそうかも知れないがな。私の業績がどれだけ人類にとって有益かということをキミは解っているのかね?」

「目的が何であれ、そのために罪のない人間が殺されるというのは許されませんわ!」

スケアリーが感情的になってきているのでモオルダアはハラハラしていたが、それにつられてクランポも熱くなっているようだった。

「進化に犠牲は必要じゃないかね。このシリーズが始まる何十年も前に多くの人間が誰にも知られず降板したのも、それは人類のためだ。いずれ私も降板するに違いながな」

モオルダアはこれを聞いて、クランポが彼の知りたい何かを知っているに違いないと確信した。

「ボクの父親もいきなり登場していきなり降板したんですよ。きっとあなたを降板させようとする誰かと同じ人達によって降板させられたんです。あなたはどうしてそうなったかを知っているんじゃないですか?」

「彼らはその最終的な目的のためには誰だって降板させるし、時には殺したりもするんだよ」

「その目的ってなんなんですか?それにはきっとボクの父親も関わっていたんでしょ?」

「それはどうだかね」

モオルダアは何かを教えてくれそうで教えてくれないクランポの態度に少しイライラし始めていた。

「あなたは父を知ってるんでしょ!だから降板とかそういうことを言うんだ」

モオルダアが声を荒げて言うと、持っていた写真をクランポに見せた。それはモオルダアが実家で見付けた例の写真だった。

 クランポはその写真を見て、これはどうにもごまかせないという感じがした。そこにはモオルダアの父と一緒に自分が写っている。若い頃で顔は今とは違うが、これを自分ではないと言い張るには少し無理がある。クランポはしばらく写真を見つめてから静かに答えた。

「キミが知る必要のないこともあるんだよ」

この答えを聞いてモオルダアはガッカリだった。目の前に何かを知っているはずの男がいるのに教えてくれないなんて。しかし、こういう時にモオルダアの少女的第六感は彼を真実に近づけようとその力を発揮するのだ。モオルダアは何か良いことを思いついて、ニヤニヤしそうになるのをこらえながらクランポの目を見つめた。

「そんなこと言ったって、クランポさん、あなたは偉大な科学者として後世に名を残したいと思ってるんでしょ?」

怪しげにギラギラするモオルダアの瞳を見つめながらその言葉を聞いたクランポは少し心を揺さぶられたような感じだった。

「ボクらが知ったことを世間に公表したら、もしかするとあなたの功績が認められて、あなたは偉大な科学者!ということになったりしませんかねえ」

クランポはこれを聞いて、自分の名前が理科や科学の教科書に載ることを想像した。それから、国語の教科書に載るのも良いな、と思って自伝を書き始めようかとも思っていた。しかし、ここでモオルダアに全てを教えるのはもったいないとも思っていた。天才的な科学者として名を残すには謎めいた一面も必要なのだ。クランポもモオルダア同様にニヤニヤしそうになるのをこらえて話し始めた。

「キミは一箱のネピアに何枚のティッシュが入っているか知っているかね?」

モオルダアは面食らったが、スケアリーはそうではなかった。

「知っていますわ!でも、原材料の値段や景気の状態によって枚数は変わったりいたしますわね」

「そうだよねえ。でもネピアが全国発売になった年というのはいつまでも変わらないものだよ」

「それはそうかも知れませんが、それが何だと言うんですの?」

謎めいた天才科学者は聞かれたことに素直に答えない。

「その写真は山梨県にある鉱山会社で撮ったものだよ。それ以上のことは宿題ということにしようかな」

何だか天才科学者というよりも、オモシロ授業をする先生みたいな感じだが、モオルダアはこれを聞いて、これ以上の情報をクランポから聞き出すのは困難だと思っていた。オモシロ先生のオモシロ授業はあくまでも実践を重視するものだから。きっと何を聞いてもクランポは教えてくれないに違いない。

「じゃあ、行こうか。スケアリー」

モオルダアはそう言って蘭の花が咲く温室を出ていったが、スケアリーはここでのやりとりがなんなのか全然理解できていなかったので、不思議そうにクランポの方を見つめていた。クランポはクランポで運命に翻弄される天才的な科学者になってしまっているので、鬼気迫る感じでスケアリーを見つめ返した。スケアリーは「なんなんですの!?」と思って振り返ると、モオルダアの後について温室をあとにした。しかし、クランポの訴えかけるような表情はスケアリーの心に嫌な感触を残していたことも確かだった。


 二人が温室から去った後、クランポはしばらく彼らの出ていった先を眺めるでもなく眺めていた。そして彼の頭の中に沸き上がってきた混乱のような何かが収まると、彼はおもむろに近くにあった親子電話の子機に手をのばした。

 クランポは親子電話の子機を携帯電話と勘違いしているわけではない。彼は科学者なので、親子電話の電波は意外と遠くまで届く、ということを知っている。それで、自宅の外にあるこの温室に子機を持ってきて家にかかってくる電話に応対したりしているのだ。

 そんなことはどうでもいいのだが、クランポが電話をかけると、それは或る携帯電話へとつながった。その携帯電話は都心にあるビルの中の薄暗い部屋に置かれていた。電話に出た男はクランポがいうとおりに別の男にその電話を取り次いだ。電話に出た男は、マシュマロを食べながら何かを思案している男に電話を渡した。

 マシュマロ男は電話に出てクランポが自分の名前を名乗った時に、少なからず動揺していたのだが、ここにいる他の者達と同様にそういう感情を表に出すことはしない。しかし、クランポが自分に電話をかけてくるということは余程の緊急事態に違いないのだ。

「久しぶりだな、元気かな?」

クランポはわざとらしく気さくな挨拶をしたがマシュマロ男には何かが起きていると解っていた。

「やあクランポ先生、何の用だね?」

「懐かしい仲間の息子がねえ、さっきここにやって来て色々と質問していったよ」

「それで、キミは何を話したんだ?」

「キミがどうしようもない酷い悪党のくせに甘党なのは珍しいことだ、ということを話したがね。それ以外は何も言ってないよ」

クランポはそれだけいうと一方的に電話を切ってしまった。電話の切れるブツッという音を聞いたマシュマロ男は「これはマズイよねえ」という気分になっていた。

「モオルダアは生きているみたいだねえ」

携帯電話を耳から離したマシュマロ男は部屋にいる全員に聞こえる独り言を言った。部屋にいる者達は先程から電話をしているマシュマロ男の様子が気になっていたので、そのマシュマロ男の独り言に即座に反応した。

「また彼らに連絡しなきゃならないじゃないかね。こんなことならはじめから全部彼らにまかせておけば良かったんだよ」

一人の男が苛立ってはいたが冷静なそぶりでそう言うと部屋を出ていった。ここにいる者達全員が、彼と同じように感じていた。「オイオイ!どうなってるんだよ!」と言いたいのをこらえて各人が静かに、誰にも気付かれずに問題を解決する方法を頭の中で模索し始めていたのだった。

8. 病院

 病院というのはあまり長居したいとは思えない場所である。特にアッチとコッチの間で行ったり来たりの病人が沢山いるような病棟ではなおさらである。スケアリーの母はスケアリーの姉、ダネエが横たわるベッドの横で何時間も不安な時を過ごしていた。スケアリーの母には支えになってくれるような人が必要なのである。だれでも良いから彼女の良く知っている人がここにいてくれたら、スケアリーの母は今とは違う落ち着いた気持ちにもなれるはずである。

 しかし、彼女が病室の外の足音に気付いて振り返った時に、そこに現れるのは別の病室で緊急事態が起きてそこへと向かう医者だったり看護士であった。そういう光景は余計にスケアリーの母親を不安にさせていた。今のところ静かに横たわっているダネエも、何時あのような慌てた感じの医師の処置が必要になるのかわからない。

「こんな時に、いったいダナアは何をしているのかしら?」

スケアリーの母の気持ちはほとんど独り言となって口から漏れていたのだが、それを聞く人はここには誰もいなかった。そしてその独り言は何度も繰り返されながら、スケアリーの母をさらに不安な気持ちにさせていった。

 何度目かわからない独り言をスケアリーの母が心の中で叫んだ直後に、彼女はドアの所でした声に気付いて驚いたように振り返った。

「スケアリーさん。今日は誰かが面会に来る予定になってましたか?」

スケアリーの母は病室の入り口にいる看護士を見て少しの希望を感じた。希望というのはおかしいのだが、誰かがここへやって来るというのは彼女にとっては嬉しいことに違いない。

「ダナアが来たんですのね。あたくしの娘のダナアが来たんでございましょ?」

入り口の所にいた看護士はそれを聞いて少し戸惑っていた。

「娘さんではなくて、おじいちゃんでしたけど。ここに来るように頼まれたって言ってましたよ」

スケアリーの母は「何なんですの?!」と思っていたのだが、看護士の横に現れた人物を見てさらに「何なんですの?!」という感じになっていた。

「あなたは誰なんですの?何かの間違いではなくって?!」

状況が飲み込めずに慌てた感じのスケアリーの母とは違って、ここへやって来た人物はいたって落ち着いていた。

「あんさの娘さ、女エフ・ビー・エルじゃて?」

スケアリーの母はそれがどこの方言や訛りかはわかりかねたが、この老人の言っていることはなんとなく解った。

「そうでございますが…」

「わてはナバホ・ゴンノショウちゅうもんじゃて。あんさの娘さワゲあって来れねえだべが、うんだばがわりね来たちゅうことだぎゃ」

さらにワケがワガらなくなってきたのだが、スケアリーの母はスケアリーが彼女の代わりにこの老人をここへよこしたということに違いないと思った。

「ダナアは?あの子は大丈夫なんですの?」

「ニャッ!ウケムチテラ!…ていていのこって!」

もう完全にゴンノショウの言っていることは理解不能だったのだが、彼の笑顔から察するにスケアリーは無事であるに違いない、ということがスケアリーの母には解った。その笑顔を見てスケアリーの母はなんとなくホッとしたのだが、ゴンノショウがダネエのベットの横まで行って彼女の手を取り脈を調べるのをみてまた不安になっていた。

「こんアネさ弱っとるべな」

「そんなことはありませんわ!この子には最高の医師がついて現在は回復中なんでございますのよ。それに、作者様は最近方針を変えてむやみに登場人物を殺さなくなっているんですから…」

そうは言ったものの、ゴンノショウの何かを悟ったように輝く目と彼女の目が合うとスケアリーの母はその先を続けることが出来なかった。

「ダメでなげりゃここで祈祷ばしとられればがね?」

スケアリーの母はゴンノショウが何を言っているのか解らなかったが、なんとなく頷いてしまった。

9. FBLビルディング

 FBLビルディングの13階にあるスキヤナーのオフィスに入ってきたのはウィスキー男であった。彼は今、盗まれたファイルのことで窮地に立たされている。全てが彼の都合に合わせてくれなければ、この状況から抜け出すのは困難だと思っていたのだが、そんな時にも彼は冷静に振る舞うことは忘れなかった。冷静さをなくしたらなくすだけ状況は彼にとって不利になる、ということは彼が一番良く知っていることなのだ。

「私を呼んだかね?」

オフィスに入ったウィスキー男がそういうとデスクに座って何かをしていたスキヤナーが顔を上げてウィスキー男の方を見た。スキヤナーが気付いていようといまいと、ウィスキー男は彼が自分の思い通りに動いてくれる人間の中の一人であると思っていた。しかし、ウィスキー男のその考えはいつからか間違っていたようだ。

「あなたの言っていたメモリーカードですけどね、どこにあるのか解りましたよ」

「おお、そうかね。それなら早く私のところへ持ってくるんだ」

ウィスキー男は、これであの薄暗い部屋に集まる連中にはったりをかます必要がなくなると思って大いに安心していたのだが、、スキヤナーは彼の予期しなかった返事をした。

「でも、場合によってはメモリーカードは別の人の手に渡る可能性もありますよ」

それを聞いてウィスキー男は一瞬戸惑ったが、次の瞬間にはスキヤナーが何を言わんとしているのかを理解して無性に腹が立った。

 ウィスキー男のような人間はたいていの場合完璧主義なのである。そして、彼の完璧な仕事によってここにいるスキヤナーも自分に都合の良いように行動してくれる人間になっているはずだった。しかし、今スキヤナーはウィスキー男に対して取引を持ちかけてきたのである。自分の意のままに動くはずのスキヤナーが予期しなかった行動を始めたのである。

「場合によっては、って何なんだよ!場合によっては、って。まさか取引とか、そういうことを言ってるんじゃないのか?私がそんな取引なんかすると思ってるのか?何だよ!場合によっては、って。私は取引なんかしないんだよ!」

あまりにもヒステリックなウィスキー男にスキヤナーはちょっとたじろいだが、何とか冷静になって、ウィスキー男の方をじっと見つめていた。ウィスキー男はその態度も気に入らなかったようだが、今度は我慢して何も言わずに部屋を出ていった。

 ウィスキー男が登場して、彼が持っていたウィスキーのボトルを一度も口に運ばなかったのはおそらくこれが初めてなのだが、彼はそれほど追い込まれていたのかも知れない。

 スキヤナーはシーズン2以降、このエフ・ビー・エルに現れて彼を板挟み状態の中間管理職みたいなことにしている「上の人」の中の一人を困らせることに成功したので、ニンマリしながらウィスキー男の出ていったドアの方を眺めていた。