16. モオルダアのボロアパート
今日はやけに優しいスケアリーに車で送ってもらってモオルダアは明け方近くになって家に帰ってきた。車を降りる時にスケアリーから熱い風呂に入るように言われたのだが、そんな面倒な事はするつもりはない。ただ、ガソリンのニオイが体中にこびり付いていてそれはなんとかしたかったのだが、家に帰ってくると何よりも眠気を振り払うのが困難なことに気付いたのだ。こんなボロアパートでもやはり自分の家は落ち着くのだろう。(自分の家と言っても勝手にスケアリーが入って来たり、謎の人物がやって来たり、彼の知らないところでは色々な事が起きているのだが。)
とにかく顔だけは洗ってまずは寝よう、と思って洗面へ向かったモオルダアだったが、彼が鏡の前でクマのクッキリ浮かんだ自分の顔をみてウワッと思った時にドアをノックする音が聞こえた。その音でさらにウワッとなったモオルダアだったが、一体誰が来たのだろうか?
いつもならこんな時間に怪しい来客があればモオルダアはモデルガンを構えてドアに向かうのだが、今日は疲れ切っていたので何も考えずにドアの方へ向かった。するとまたノックの音が聞こえた。そしてモオルダアは鍵を開けてドアを開けると、外に立っていた人物を見てキョワッ!とお得意の変な悲鳴をあげた。
「モオルダア捜査官…!」
モオルダアは心臓が止まってしまわないように必死になってそこに立っている人物を凝視していた。彼の前には血だらけのミスター・ペケがやっとのことで立っている。
「モオルダア捜査官。もう…散々だ」
「ち、っち、血が…」
モオルダアからやっと出てきた言葉だが何のことだが意味が解らない。確かに血が出ているのだが、それは血が出ているという表現では物足りない様子だった。ミスター・ペケは銃で撃たれて大量の出血をしているようだった。
「もう、私はだめだ…。これで降板することにするよ。…まあ、その前に死ななければ良いがな。これだけ血が出ているとちょっと大変かも知れないがな…」
それはそうだが、モオルダアはなんでミスター・ペケが血だらけでここにやって来たのか解らない。それよりも血が恐いし、混乱しているので、まったく事態が把握できていなかった。
「キミは何でモデルガンなんて使うんだ?私は殺し屋よりも早く銃を撃ったはずだったのに、出てきたのはBB弾だったんだよ…。まあ、これはキミに返すよ…」
ミスター・ペケは銃をモオルダアの方へ差し出した。それはモオルダアの使っているモデルガンだった。モオルダアはそれを手にとって、彼と地下駐車場で格闘した時の事を思い出した。あの格闘中にモオルダアが落としたモデルガンをミスター・ペケが拾ったのだった。
ミスター・ペケもそのモデルガンを捨てずに持っていたのだが、それが良くなかったのだ。さっきアパートの外で彼を始末しに来た男に遭遇した時に間違ってモデルガンを取りだしてしまった。本来ならば、彼の歳に似合わぬ瞬発力で殺し屋を返り討ちに出来たはずなのだが、モデルガンでは歯が立たない。殺し屋は彼に数発の銃弾を喰らわせてそこから立ち去ったのだった。(もちろんサイレンサーが付いた銃でプスッ!プスッ!と撃ったので、それに気付いた付近の住民はいない。)
「それじゃあ、これで私は最後になるからな。まあ、頑張るんだぞ…」
ミスター・ペケはそう言ったが、今はどう考えても頑張らないといけないのは血だらけのミスター・ペケだった。それよりもモオルダアとしては彼がいなくなると極秘に情報を教えてくれる人がいなくなるので困るのだ。
「ちょっと…!」
モオルダアは立ち去ろうとするミスター・ペケを引き留めようとしたのだが、一歩踏み出すと彼の流した血で足がヌルッとなった。それに気付いたモオルダアはこれは無理だな、と思って追うのをやめた。
「さらばだ、モオルダア捜査官…」
かなり痛々しい感じだったが、ミスター・ペケは暗闇の中へ消えて降板となった。
これは困ったことになったなあ…、とモオルダアは思っていた。困ったというのはミスター・ペケが降板して情報提供者がいなくなることでもあり、彼の流した血でアパートの通路が血だらけということでもあった。とりあえず朝が来る前にこの血だらけの通路をなんとかしないと管理人に怒られてしまう。
17. 病院:数日後
モオルダアの母はまだ寝ている。急性アルコール中毒で数日入院することはあっても、ずっと眠っているということはあまりないはずである。しかも昏睡状態ということではなくてただ寝ているのだ。もしかすると、あの古野方区の家で口にした飲み物は何か特別にヤバいものだったのかも知れない。
夜の病院には人気がほとんどなかったが、この部屋にはこういう暗く静かな場所でよく見かけるあの男がいた。今はウィスキーのビンは手に持たずにモオルダアの母親を見つめている。するとそこへこの病院にあまり似つかわしくない大男がやって来た。
大男といったら彼しかいないが、あのムキムキの暗殺者が静かに廊下を歩いて病室にやって来たのだ。静かに、といってもムキムキなので、あまり音はしていなくても目立つような歩き方なのだが。いずれにしても面会時間外で廊下には誰もいないので、あまり人に気付かれずに静かにやって来たことにはなっている。
彼は病室に入るとモオルダアの母を見ながらゆっくりと彼女に近づいて来た。彼女は寝ているだけだが、このまま放っておけば状況は悪くなるかも知れない。彼女を見て暗殺者は感じていた。どうしてそんなことが解るのか?ということだが、彼は首の付け根を特殊な武器で刺さないと倒せない男。というか、そうしても倒せなかったが。恐らく人間ではないのだ。人間には真似の出来ない特殊な能力を備えている。ジエイレマイと同じように。
「どうしてこうする必要があるんですか?」
暗殺者はウィスキーに聞いた。
「そうしないと計画は続けられないだろう。計画を予定どおり進めるためには障害は取り除かなければならないんだよ」
ウィスキーはいつものように冷静な態度のまま話している。モオルダアの母を見つめている時に垣間見せる人間らしい暖かい目の輝きといったものは、今ではどこかへ消えてしまっている。
「障害とは?」
「モオルダア捜査官だが…」
ここでウィスキーはポケットに手を入れて、そこに入っているウィスキーの小瓶のフタを触っていた。長年の癖で、彼はこうしていないと冷静さを失ってしまいそうにいなることがあるのだ。
「もしも彼の母が死亡するとしよう。そうするとだな…」
「そうすると?」
暗殺者はウィスキー男の調子が少し変だと気づき始めていた。
「失う物が何もない人間ほど厄介な敵になるということは知っているだろう」
まだ暗殺者はおかしいと思っているようでウィスキー男の様子を窺うようにして彼を見ていた。
「そして、この件に関してモオルダア捜査官がどれほど重要かということも知っているだろう」
最後はまたいつもの冷酷なウィスキー男の話し方に戻っていた。暗殺者はそれを聞いて「それなら仕方がない」とでも言うように頷いた。
そして暗殺者は彼の後ろの開きっぱなしになっていたドアを閉めるとそこに鍵をかけた。それから一度ウィスキー男の方を見て最後の確認をすると、おもむろに彼の手をモオルダアの母のひたいに載せた。そのまま暗殺者が意識を集中させると、これまで眠ったままだったモオルダアの母が目を開けた。
モオルダアの母をじっと見つめるウィスキー男と彼女の目が合った。まだ何が起きたのか理解できていないようなモオルダアの母だったが、彼の顔を見て「何なのよ、まったく!」といつもの様子で言った。
どうやらモオルダアの母は助かったようだった。