「地上民」

08. また日本アルプスのふもと

 南アルプスのふもとではあるが、ここはまだ平野のはじの方という地形で、それほど急勾配の斜面があるわけでもない。すぐ近くに見える山に向かっていくつかの小山が背の順に並んでいる丘陵地という感じだった。それでもそんな場所を10キロ以上も歩けば誰だって疲れる。しかもそれが都会人のモオルダアなら尚更であろう。息を切らして歩くモオルダアには周囲に広がるのどかな景色などまったく目に入っていない。何かスゴいものが見られるかも知れないと思う気持ちだけが彼の足を前に進めている。モオルダアは自分の足下だけを見つめながら一心に歩いていた。

 道なりに行けば20マイル。しかし、丘陵地を横切ってきたのだからもうすぐ到着するはずである。そう思ったジエイレマイはそのことをモオルダアに伝えようと思ったのだが、その前に別の物が彼にそのことを伝えることになった。

 足下を見て黙々と歩いていたモオルダアだったのだが、その狭まった視界の中に運が良いのか悪いのか、恐ろしいものが入って来たのだった。それを見てモオルダアはハッヤァアアア!とヘンな悲鳴を上げた。息が切れていた所に恐ろしいものが視界に飛び込んできてほとんど窒息状態だったモオルダアだったが、冷静になってもう一度そこにあるものを確認すると、今度はウワァ!と普通の悲鳴を上げた。

 モオルダアの足下には人間の死体が転がっていたのだった。そのすぐ近くには電信柱と彼の乗ってきたワンボックスの車がある。この話の冒頭に登場した不幸な彼はモオルダアを驚かせるために登場したのだろうか?

 それはどうでも良いが、暖かい日差しに照らされて腐敗を始めた死体の表面には大量の虫たちが這い回っていた。更に時間が経てば腐敗臭に誘われたハエのような虫たちが大挙してやって来て、更に悲惨な状況になるだろう。

「ちょっと…。しっ、しっ、し…」

モオルダアはビビって言葉が出てこない。それでもジエイレマイにこのことを知らせたいので、モオルダアは指を死体に近づけてそこに死体があることを彼に知らせようとした。そんなことをしなくてもジエイレマイはそこに何があるのかちゃんと解っている。

「私なら、触ったりしませんがね」

そう言われてモオルダアはハッとして死体に近づけていた指を引っ込めた。ちょっとは冷静になったモオルダアだが、それでもまだ死体は恐ろしい。FBLの捜査官として何度も悲惨な状態の遺体は見ているのだが、何度見たって慣れるものではない。ただ、いつまでも怖がっていてもどうにもならないので、モオルダアは努めて冷静になって遺体の状態などを確認し始めた。

 遺体の状態といっても、その状態は悲惨な状態という他に何も思いつかなかったが。ただし彼が工事をしていたであろうことは周囲の状況や服装などからは推測できた。そして、彼は遺体が腰に付けている工具入れに一枚の書類を見つけてそれを確認してみた。それには作業の内容や日程が書かれていた。

「これは、昨日の作業だったようですね。まだ一日足らずなのに、この状態って…」

モオルダアがそう言った時、車の方へ行って何か使えるものはないかと探していたジエイレマイがゆっくりと戻ってきたところだった。

「なんでこうなったか、あなたは知ってるんじゃないですか?」

モオルダアが振り返って聞いた。

「目的の場所はもうすぐですよ」

それがジエイレマイの答えだった。そして彼はまた歩き始めた。

 モオルダアは立ち上がる前にもう一度死体の方を見た。すでにドロドロし始めている顔は、生きていた頃の面影などまったく解らない状態だった。この先に何か恐ろしいものがあるような…。その遺体の顔を見たモオルダアは何かイヤ〜なものを背中の奥の方に感じながらジエイレマイのあとを追った。


 ジエイレマイが言ったとおり、そう長くかからないうちに彼らは目的の場所についたようだった。

 丘の上で立ち止まったジエイレマイはその向こうの丘との間にある開けた場所を指さした。

「ここに未来があるのですよ。モオルダアさん」

モオルダアも立ち止まって彼が指さしている場所を眺めた。その開けた平地には畑のようなものが一面に作られている。濃い色のシートで覆われているので、その下で何が育てられているのかはよく解らなかった。

「何ですか、これ?」

「花盛りの低木ってことかな」

それと未来と何の関係があるのか?とモオルダアは思ったのだが、ジエイレマイもそのことは気付いていたようで付け加えた。

「まあ、あなた達の分類表にはその名前は載ってないと思いますけどね」

ジエイレマイは言いながらモオルダアに双眼鏡を渡した。モオルダアはなんとなくそれを受け取って覗き込んだのだが、一瞬「なんで彼がこんなアイテムを持っているのか?」と考えてから、それは今考えなくても良いことだと思って、そこに見えるものに集中することにした。

 双眼鏡を通して見る景色の中にシートの下の作物の一部が見えた。根っこに近い部分しか見えなかったが、それは問題ではなかった。図鑑に載ってないということだし、もしそうでないとしても、葉っぱや花だけを見てモオルダアにはそれが何という植物か解るほどの知識はない。

「何のためにこんなものを?」

「花粉ですよ」

何だかよく解らなくなってきた。「花粉」ってどういうことなのだろうか?モオルダアはもっと質問しようかとも思ったが、もしかすると農場にヒントがあるかも知れないと思ってもう一度双眼鏡を覗いた。優秀な捜査官としては謎めいた言葉から答えを見つけられないと格好悪いとも思ったのだ。

 しかし、覗いた望遠鏡で見たものはさらなる謎だった。農場に少年と少女がいて、彼らはバケツを手に持って何か作業をしているようだった。モオルダアは「あれ?」と思った。

「ちょっと、ここで何が起きてるんですか?」

「さっき言ったとおりですけどね」

ってどういうことなのか。言ったとおりといっても何についてなのかよく解らないが。とにかくモオルダアはそこに見えた光景に少なからず動揺している。

「あの男の子。ボクの少年時代に似てるんだけど…。それに女の子の方も…なんか。これってどういうこと?」

ジエイレマイは何も言わずにモオルダアの目を見つめていた。言ったとおりでしょ、と言わんばかりに。しかしモオルダアはまだ理解できていない。

「あれはボクの少年時代に似ているけど。でもボクは今ここにいるからあれがボクなわけはない。…ということはあれがボクがまだ会ったことのない兄ってこと?…って、待てよ。兄だったらボクより年上なんだから少年っていうのはおかしいんだけど。もしかしてボクってまだ子供なのか?あそこにいるのは中学生ぐらいには見えるし、だとしたらボクは10歳ぐらいか?…な、ワケはないか…」

モオルダアがなんとかして状況を把握しようとしている姿を見てジエイレマイは少し悲しい気分になりそうだったが、何も言わずに彼の方を見ていた。モオルダアはこのまま考えていても仕方ないと思ったのか、農場の方へと向かって歩き出した。

「おーい!モオルダア君…!」

少年が遠くに行かないようにモオルダアが声をかけながら少年と少女のあとを追いかけた。


 少年に向かってモオルダアと呼びかけているモオルダアだったが、これは何だか変な感じだと思っていた。とはいっても兄の名前は知らないし、少年が兄だとしたら名字はモオルダアに違いないのでこう呼ぶしかない。

 それはそうと、声をかけられても少年と少女は何も聞こえていないかのように、真っすぐ前を向いたまま歩いていた。

「おーい。モオルダア君!」

後ろから走ってきたモオルダアが二人にかなり近づいたところでもう一度呼び止めると、やっと気付いたようで彼らは振り向いてモオルダアの方をみた。しかし、この二人は突然やって来たモオルダアを見て警戒するような様子もなければ、ニコリとするワケでもなかった。ただ声が聞こえたので振り返った。それだけのようだった。

「モオルダア君。ボクだよ。モオルダアだよ。弟の」

これで通じるだろうか?と思いながらモオルダアは少年の前に屈んで声をかけた。しかし、少年はまだ無反応である。隣にいる少女の方も同様であった。

「ボクを覚えてる?」

少年はポカンとした様子でモオルダアを見ているだけだった。そこへ少し遅れてジエイレマイが彼らのもとへと走ってきた。

「一体どうなってるんだ?」

モオルダアがジエイレマイに聞いた。

「彼らは喋れないんですよ。まあ、おかしな事でもないですよね。お兄さんなのに少年のままってとこから変でしょ?」

「というと…?」

「彼らは働きバチなんですよ」

一昔前の日本のサラリーマンはそんな風に形容されることがあったなあ。というか今でも多くの人が働きバチのように働いてる。とか思ってしまったモオルダアであったが、こんな幼い顔の少年と少女が働きバチとはどういうことなのか?まさかどこかから連れてこられて強制的に働かされているとか、そんなことだと大変な事になる。

「それって、どういうことですか?」

ジエイレマイはモオルダアの反応から彼が何か勘違いをしているのに気付いて溜め息が出そうになってしまった。この男は時々ものすごく冴えている、というか勘が鋭いのだが。しかし時々ものすごい勘違いをするようだ。そう考えたところでやっぱり軽く溜め息が出てしまった。

「まだあなたに見せるものがあります。それであなたにも理解できるでしょう」

モオルダアはどういうことだろう?と思ったのだが、自分が何か間違っているのかな?という気もしたのでジエイレマイの言う「見せるもの」を見に行くことにした。


 モオルダアに害がないと解った少年と少女が再び歩き出して向かった先と、ジエイレマイが見せたいものがある場所は同じ方向のようだった。モオルダアとジエイレマイは少年と少女の後を追うようにして山間の農地を歩いていった。

 しばらく歩くと小さな集落が現れた。数えるほどのこぢんまりした家が見えているのだが、そこにはどこか気味が悪くなるような違和感があった。夢に出てくる知らない街とでもいうのか、そこに人はいるのに生活している様子がまったく感じられないような、そんな違和感をモオルダアは感じていた。

 モオルダア達の前を歩いていた少年と少女はその家の中の一つに入っていった。恐らく彼らはこの家に帰ってきても何もしないであろう。夕方のアニメ番組も見ないし、テレビゲームもしないし、面倒な学校の宿題をやることもない。モオルダアはなぜかそれが解った。この集落の雰囲気とか、さっきジエイレマイが言っていた「働きバチ」という言葉がそれをモオルダアに気付かせたようだ。モオルダアは振り返ってジエイレマイに聞いた。

「彼らはどうしてここに?」

「彼らは農耕作業班の一部ですよ」

「彼らの面倒は誰が見るんですか?」

「その必要はありません。親の保護なんていらないんですよ。そんなものは無駄な労力です」

やっぱりここの子供達は変だ。モオルダアがそのことに気付き始めた時、この集落にいた人々が見慣れない人物が二人やって来ていることに気付いたようだった。モオルダア達が立っている道の両側にあるいくつかの家のドアが開いて、中の住人が様子を見に出てきた。ドアの開く音があちこちから聞こえて来たのでモオルダアは音がする度にその方向へ視線を向けた。そして、ここが変な場所であることを更に思い知ったのだった。

 さっきの少年と少女が入っていったのとは別の家のドアからさっきの少年と少女が出てきた。「あれ?!」と思う間もなく、別の家からも同じ少年と少女が出てきた。その後はドアが開く度にこの繰り返しである。彼らの周りには同じ顔の少年と少女だらけになってきた。

「これって…。クローン人間ってこと?」

モオルダアは周りに現れた子供達を見回したあとにジエイレマイに聞いた。

「継続的卵胚性のね」

モオルダアはなんだそれ?と思ったが、そのワケの解らない単語について説明を聞いてもさらにワケが解らなくなりそうなので、今は詳しいことを聞くのはよしておいた。とにかく彼らはクローンのようだ。

「もう充分じゃないですか、モオルダアさん。これ以上ここにいるのは危険です」

ジエイレマイが言ったが、モオルダアとしてはこれだけのものを見せておいて、もう帰るの?という気もしていたのだが。

「どこかにガソリンがないか探してきますよ」

モオルダアが何も言わないでいるとジエイレマイがそう言った。彼はもう帰りたくて仕方がないようだった。

 モオルダアもこれ以上ここにいなければいけない理由が思いつかなかったので、急ぐジエイレマイを止めるわけにも行かなかった。ジエイレマイがガソリンを探しに行ったあと、モオルダアはもう一度辺りを見回してみた。彼の周囲にいる同じ顔の少年と少女達は、子供とは思えない輝きのない瞳をモオルダアの方へと向けていた。