10.日本 アルプスのふもと
ジエイレマイはこの山間にある謎の農場のことには少し詳しいので、ここから帰るための方法もなんとなく解っていた。そして納屋のような場所に置いてあるガソリンの入ったポリタンクを持ってモオルダアのところまで戻ってきたところだった。後は車があれば東京まで帰ることが出来る。しかし、ジエイレマイはモオルダアが怪しい行動をとっているのに気付いた。モオルダアは少年の一人の手を引いて歩いてきた。
「彼をどうするんですか?」
「連れて帰るよ」
「はぁ…。もう何を言っているんですか?彼はあなたのお兄さんではないんですよ。…まあ、姿は似ているかも知れませんが」
「そうでしょ?だからこのまま育てたらボクの兄がどんな顔だか解るかも知れないし。或いは兄ではなくてボクと同じ顔になるかも知れない」
「あなたは解ってないのですか?あなたのお兄さんにそっくりだけど、まだ少年なんですよ。そしてずっと少年なんです。働きバチっていうのはそういうものなんです。もうイヤになりますよ」
「でも、もしかすると、ってこともあるし…」
というよりも、彼を連れて帰ることがここで行われている何かの証拠になる、とかそういうことは考えてないのか?ということでもあるが。
「彼なんかよりも、ここで起きていることを理解してそれを世間に知らせるべきなんじゃないですか?」
「そんなことを言われても、さっきから謎めいた感じで何かをほのめかす程度しか説明してくれないんだし…。イヤになりますよ、って言う前にもっと解り易く説明してくれたら良いんじゃないですか?」
モオルダアはここまで来たのに彼が望むようなビックリするようなことが少ないので次第に苛立ってきているようでもあった。まったく同じ姿の子供達がいたり、ビックリするようなことは起きているのだが、モオルダアにとってはそれではちょっと地味ということに違いない。
ジエイレマイはここでまたモオルダアを説得しないといけないのか、と思って軽く溜め息をつこうとしていたが、その時に少し離れた場所で車がタイヤをきしませて蛇行した田舎道を猛スピードで走ってくる音が聞こえてきた。ここにそんな車が来るとしたら運転しているのはあの人に違いない。(もちろん怒っているスケアリーではない。)
モオルダアとジエイレマイは話を中断して駆けだした。そして、モオルダアの隣にいた少年もここにやって来たのが恐ろしい暗殺者だということには本能的に気付いたのか、彼らと一緒に逃げ出していた。
三人は道のない丘の方へ向かって逃げていた。ここなら車で入ってくることは無理だし、かなり距離は稼げるだろう。丘を走っていると彼らはまた別の道路に出てきた。ここから右へ行くのか左へ行くのか。ジエイレマイにも解らない状態なのでモオルダアに解るはずはない。かといってこのまま道のない丘を走っていてもキリがないのでどちらか選ばないといけない。モオルダアは道の左右を何度か見てどちらに進むべきか考えていたのだが、彼が決断を下す前に彼の前にいた少年が黙って走り出した。黙ってはいたが、時々モオルダア達の方を振り返ったりして先導しているようにも見えた。それで彼らもその後を追うことにした。
道を左に進むとすぐのところに建物があった。少年はその建物の大きな鉄製の扉を開けた。開けると中には明かりはなく、奥の方が良く見えない状態だった。しかしそこから聞こえてくる音からその場所がなんなのか解った。
「ミツバチかな」
「養蜂舎ですね」
普通のミツバチならいいのだが、モオルダアはちょっと不安になることがあったようだ。
「さっき死んでた人だけど。あの人ってもしかしてこのハチに刺されたとか?」
「そうだな」
ジエイレマイは簡単に答えた。
「そうだな、って。こんな所に隠れたら危険じゃないの?」
「まあ、あなた方には免疫がないですからね」
また簡単に答える。
「あなたにはあるってことですか?」
そのようだが、ジエイレマイはそろそろ背後から迫ってくる追跡者が気になってきたようで、振り返って誰かが来ないか確認していたところだった。モオルダアもここでモタモタしている場合ではないことは知っている。そしてジエイレマイの持っているポリタンクを見て思いついたことをとっさに実行してしまった。
彼はジエイレマイの持っているポリタンクを受け取ってフタを開けると、おもむろに中のガソリンを自分の頭にかけ始めた。
ジエイレマイはモオルダアが何をしているのか?と少し唖然としてしまったが、ガソリンが気化してムンムンしているところにはハチはよってこない。それは解るのだが、予想どおりモオルダアはガソリンが目にしみて前屈みになりながら手のひらで両目を覆っていた。
ジエイレマイはなんでこんな無茶をするのか、と思ってまた溜め息がでそうだった。それから、彼がポケットの中に良い物を持っていたことをモオルダアに教えるべきか迷っていた。
さっきはなぜか双眼鏡を持っていたジエイレマイだが、彼の上着のポケットには役立つアイテムが色々入っているようなのだ。ジエイレマイはポケットからこういう時にちょうど良さそうなゴーグルを取り出した。水中でかけるゴーグルではなかったが、無いよりは少しはマシだったはずである。しかし、すでにモオルダアは両目が開けられない状態だし、それを出しても意味はなかった。もう少しモオルダアが冷静に行動してくれたらと思ったが、ジエイレマイは取り出したゴーグルを何も言わずにまたポケットの中に戻した。
「ウァァ…。何も見えないよ。…ちょっと先導してくれませんか」
モオルダアはまだ前屈みの状態のまま両目を押さえていた。そして、他に方法はないので、少年とジエイレマイがモオルダアの手を引いて養蜂舎の中へ入っていった。
もしもモオルダアの目がちゃんと見えていたら、それはそれで彼が何かやらかしそうなそんな珍しい光景が建物の中にあった。日本で良く知られている養蜂というのは箱の中にミツバチの巣を作ってやるものだが、この建物は建物全体がその箱の役割をしているのだ。バスケットボールのコート一つ分ぐらいありそうなスペースに床から天井まで板状の巨大なミツバチの巣がビッシリと列んでいた。
建物の真ん中辺りまで来るとようやくモオルダアも目を開けられる状態になってきた。とはいっても目がかすんでいるし、ずっと目を開けていると気化したガソリンで目がしみる。だが自分が今異様な場所にいることはなんとなく解った。そして、辺りを見回すとさっき入って来た場所以外には出口はなさそうなのだ。
「他に出口はないの?」
モオルダアが聞いた。すると少年が天井の方を見上げた。そこにはハチたちが出入りするための窓のような穴が開いている。だが、彼らははそこまで飛んでいけない。
「どうやら我々は自ら罠にはまったようですよ…」
ジエイレマイがいうと、モオルダアは「えぇぇ…!?」って思いながら天井の方を見上げたままだった。
その前になんであの少年についてきてしまったのか?とか、ジエイレマイはその辺から後悔し始めていた。見た目は人間だが話すことも出来ないし、知能は恐らく小動物ほどしかないのだが。その彼らの本能的な行動でここへ逃げて来てしまった。その前に自分で本当に大丈夫か考えるべきだったのだ。どうもモオルダアと行動を共にしていると彼のおかしな思考が伝染するんじゃないか?と思えるほど調子が狂ってくる。ただし、そんなことを考えること自体がモオルダア的である、とも思って「ア〜ァ…」という感じだった。
妙に悲観的になってしまったジエイレマイだったが、ここでモオルダアが彼の上着の袖を引っ張った。こういう時には逆におかしな能力を発揮するモオルダアがいい隠れ場所を見つけたようだ。
それからすぐに暗殺者が建物の中に入ってきた。建物はの中は元々整然とした大きな箱という感じだったに違いないが、今では天井から床の近くまで成長した巨大な蜂の巣がいくつもあって、そこは人工の建造物の中とは思えない様子だった。迷路のように複雑に入り組んだ鍾乳洞とかそういう場所へやって来た気にもなるのだが、暗殺者はこの蜂の巣だらけの建物のどこかにジエイレマイ達がいるのは知っていた。しかし、彼らはどこに隠れているか解らず、ハチが辺りを飛び回ってあのイライラする羽音がする中を慎重に進まなければならなかった。
彼はいつでも攻撃が出来るように、例の尖った物が飛び出す武器を取り出して用意した。そして少し進むと、天井の穴のちょうど真下の少し明るくなっている場所が目に入ってきた。しかも解り易くそこにはポリタンクが置いてある。暗殺者はゆっくりとそこへ近づいていった。これが何かの罠だったりしたら、あまりにも解り易いのだが。何が起きても大丈夫なように暗殺者は慎重に近づいたが、何も起きなかった。
どうやら罠を準備している場合ではなかったようだ。暗殺者は更に奥へと進んでいった。更にその先に進むとまた大量の蜂の巣の壁に光が遮られて暗くなっている場所になる。そして、その向こうから何かが臭ってくる。さっきのポリタンクのニオイかとも思えたが、それよりもガソリンが空気に触れてどんどん気化しているような、そんな感じのきついニオイだった。
この蜂の巣の壁の向こうには何かがある。というよりも、どう考えてもそこにジエイレマイ達が隠れているに違いない。ここまでゆっくりと慎重に歩いてきた暗殺者なのでこの向こうにいる彼らは自分の存在に気付いていないかも知れない。そんなことも考えながら例の武器を持つ手に力を込めた。
壁の向こうのジエイレマイにどうやってとどめを刺すのか、暗殺者の頭の中にはすでにイメージは出来上がっている。それを実行したら彼の任務は終了。
そして、暗殺者が行動に出ようとしたその時だった。壁の向こうからモオルダアが小声で「せーの…」という声が聞こえた。暗殺者はこの声を聞いて身構えたが、そんなことではどうにもならない事が起きたのだ。
壁の向こうの彼らが「せーの」で何をしたのかというと、彼らと暗殺者の間にあった大きな蜂の巣の壁を勢いよく押し倒したのである。恐らく5メートル以上はありそうな高さで、しかもその後ろに大人二人と少年が隠れられる程の幅もある。そんなものが上から崩れてきたら、いくらマッチョの暗殺者であろうとひとたまりもない。
両手で壁を押さえようとしたのだが、蜂蜜たっぷりの蜂の巣の壁が暗殺者の上に崩れてきて、彼はその下敷きになった。
「よし、今だ!」
逃げるのはけっこう得意なモオルダアが先頭になって彼らは出口へ向かった。崩れた壁の下にいる暗殺者をまたいでいったが、その下で暗殺者がどうなっているのかは解らなかった。
モオルダアは出口の近くで一度振り返って確認してみた。するとちょうどその時に崩れた壁を押しのけて暗殺者が起き上がったところだった。予想は出来ていたが蜂の巣の壁に押しつぶされて参ってしまうようなヤワな暗殺者ではないようだ。
モオルダアは早く逃げないとヤバいかな、と思ったのだがここでハチたちが彼らの見方になってくれたようだった。自分たちの巣を壊されたハチが集団で暗殺者を攻撃し始めたのである。一匹では刺されてもたいしたことはないミツバチなのだが、この巣の規模からするとそこには恐ろしい数のミツバチがいあるはずである。暗殺者に効くかは解らなかったが、ここのハチは何か他のミツバチと違うようで、刺された電話会社の人が死んだりしていたし、モオルダアのこの作戦はかなり効果的だったようだ。
始めは顔などにたかっているミツバチを手で払おうとしていた暗殺者だが、それはまったく効果がなかった。そしてミツバチは絶え間なく体中を刺してくる。これには暗殺者もたまらず悲鳴を上げるしかなかった。
暗殺者がそこへ倒れ込むのを見て、モオルダアはすこし安心してその建物から出て行った。